たこやきのない世界
「友達と仲良くしましょう」
「将来の夢を持ちましょう」
「素敵な恋人を作りましょう」
「立派な大人になりましょう」
どれも学校の先生や親や社会から言われたけど、私にはさっぱり意味がわからない。
なんでたまたま同じ場所にいるだけの人間と仲良くしなきゃいけないの?
どうして夢なんてものを持たなきゃいけないの?
どうやったら人を好きになれるの?
どこを変えたら立派な大人になれるの?
生きてるとわからないことだらけだ。みんなはどうやって生きてるんだろう?
中学3年生、私はまだ社会とか人間がわからない。中2病みたいな痛くてかっこつけた感じじゃなくて、同じ生き物と思えないくらいみんなが遠い。表面上はがんばって空気読んでへらへら笑ってるけど、人に興味が持てない。異性でも同性でも触られたら気持ち悪い。世間的には優しいってカテゴライズされる親も、15年一緒にいても1回も好きになれない。もちろん極端に嫌いな人も、そうでもない人もいるけど、それは天道虫と蜘蛛だったら天道虫のほうが直視できるだけで、好きなわけじゃないし、親もクラスメイトも天道虫くらいしか興味を抱けない。
「もしかしたら、みんな宇宙人なんじゃないかなあ」
自分だけが地球人で、周りはみんな宇宙人。そんなふうに思ってたこともあるけど、みんなからしたら私は理解できない異物なんだと今は思う。
どうしても人間社会に溶け込める気がしない。
そう考える度に泣きそうになるし、出口の見つからない迷路に迷い込んだ気持ちになる。
「にゃーん」
今日も塀の上にいる猫のミーちゃんを撫でまわす。猫は好き。かわいい。犬も人が連れてなかったら、かなり好きだと思う。
世界から猫や犬がいなくなったら、安心できる場所がなくなるんだろうな。
飼育員やペットショップの店員になろうと思ったこともあるけど、職業体験で行った時に、結局人間の相手もしないといけないって知って、私には無理だって1時間ほどで理解してしまった。
見ず知らずの人間はわからない。いい人なのか悪い人なのかわからないし、顔色を窺おうにも何をどう判断したらいいのかわからない。
わからないはめんどくさい、そしてものすごく疲れる。
「どうしたらいいんだろうねー?」
「にゃあー」
猫はかわいいけど何も教えてくれない。そりゃそうだ、私は猫じゃないもん。
ミーちゃんを撫でながら空を見上げると、見たことのない紫とも赤ともいえない色の卵型の物体が、すーっと尾を引きながら近くの山に落ちていった。
地響きのような音がする。
なんだろう? 多分みんなだったら、きゃーきゃー言いながら見に行ったりするんだろうな。
聞きなれない音に驚いて、塀の向こうに逃げちゃったミーちゃんに手を振って、私はしばらくうろうろ歩き回り、
「行ってみようかな」
悟ったふうに考えているくせに、まだ地球人になりたいと願ってる自分に愛想を尽かせながら、変な色の卵型の未確認飛行物体を探しに行くことにしたのだった。
「いやー、びっくりしたねー。薪割ってたら空から隕石降ってきて大惨事だよー」
ふもとに霊園のある山は、獣道が作られたみたいに木が倒れてて、クレーターみたいに草とか土とか吹き飛んでる。その中心では、極限までデフォルメ化した肩幅よりも大きいタコを頭に被った、上半身裸の手首からデコルテまでびっしりと仰々しい落書きの入った男が、おどけたような口調と身ぶり手ぶりで説明してる。
落書きはいわゆる和彫りってやつで、腕には龍とか蓮の花とか描いてあるし、背中にはヤマタノオロチみたいな首がいっぱいあるドラゴンが描いてる。
この落書きに見覚えがあった。
「え? もしかして明石さん?」
明石さん。お父さんの弟で、人種はダメ人間。クラスにひとりはいる明るいお調子者をそのまま地に落とした感じの人で、なんかかっこいいって理由で落書き入れた辺りから我が家を出禁になって、なんか強そうって理由で九頭竜組っていう名前だけは立派な、小さくてお金のないヤクザの組員になって、その組も不景気のあおりを受けて解散したって、何年か前にローカルニュースで15秒くらい流れてた。
「おや? 君は明石君の知り合いなのかい?」
タコ頭おじさんが背中を向けたまま頭を180度回転させて振り向き、少し遅れて体がぐるんと半回転する。なんていうか、出来損ないのゲームみたいな動き。
「明石さんじゃないの?」
「ううん。見ての通り明石さんだよー。君は確か……」
おじさんはタコ頭の下のほうをぺちぺちと叩きながら、すぐ近くに建てられた掘っ建て小屋みたいなところに入っていき、一升瓶とタバコを持ち出してくる。タコ頭と首の間から吸盤のついた足がにゅるんと飛び出し、タバコとライターを掴んで引っ込み、もくもくと燻製みたいに煙を吐き出す姿は、滑稽を超えて不気味だ。
なんでだろう? こんな変な状態の人? 人かどうかも定かじゃないけど、とにかく変なのが目の前にいるのに、私の中ではなんの興味も示してくれない。正直、今日の晩ご飯なんにしようが10:0で勝ってる。
なんにだったら興味持てるんだろう? これで無理だったら、戦争でも起こらない限り無理なんじゃないかな。いよいよ自分が嫌になってきた。もう何も考えたくない、帰って風呂入って適当に晩ご飯食べて寝たい。
よし、帰ろう。くるりと踵を返して立ち去ろうとすると、
「ちょっと待って! 聞きたいことはないのかい? 例えば、なんで頭にタコ被ってるの、とか?」
「いえ、別に。見ればわかるし」
「えー! もっと興味を持とうよ! 宇宙人のボクが言うのもなんだけど、いろんなものに興味を持った方が人生楽しいと思うよ」
「宇宙人なの?」
タコ頭はしまったって言わんとばかりにタコの足だけをバタバタとさせて、しばらく直立不動のままわちゃわちゃ動いて、
「バレてしまってはしょうがない! 実はボクは宇宙人なのだ!」
タコ足をピンと伸ばして、首から上だけ戦隊モノみたいなポーズを取る。
「じゃ、晩ご飯作らなきゃなので」
「待って! 興味持って!」
ああ、めんどくさい。どーでもいいよ、宇宙人とか。
宇宙人いわく、自分は遥か遠くの惑星から、新しい文化を求めて地球にやってきた。彼? 彼女? とにかく彼の母星では、みんなが遊び倒した結果、今では朝から酒を飲むくらいしかやることがないらしい。
元々はスライムのような姿をしてるけど、タコの姿に改造してやってきた。地球で有名な宇宙人の姿が、タコっぽい火星人との報告を受けていたから。ただし時差の問題で情報が古く、地球で違和感なく馴染むことには失敗して、明石さんとは地球到着初日に出会って、話しかけたら拳銃を向けられたため、やむをえず乗っ取り、そのまま5年くらい、ちょっと変わり者の着ぐるみタコヘッドおじさんとして生活していて、時々町のゴミ拾いをする程度には打ち解けている。
卵型のUFOは通販で、まれに大気圏突入に失敗して墜落するそうだ。
そして、彼と同じように地球に来た宇宙人は、すでに100年以上前から何人もいる。
「なるほど。じゃ、晩ご飯作らなきゃなので」
「興味持ってよ!」
タコ頭がタコ足で空中地団駄を踏みながら、イライラしてるのか煙を大量に吐き出してる。煙出し過ぎだよ、山火事なるぞ。
「君ねえ、えーと名前。名前なんだっけ?」
「知らない人に名前とSNSのアカウントを教えちゃいけないって先生が言ってたし」
「明石くんは知り合いなんでしょ。顔見知り同士、ちゃんとお互いの名前を知ってて、定期的に挨拶もして、なにかあった時は親御さんに連絡できる。そういうのが防犯の基本だよー」
宇宙人に防犯を教えられても困る。怖くて聞けないけど、タコ頭の中の明石さん、今どうなってるの? 生きてるの?
名前教えないと永遠に呼び止められそうだから教えるけども。
「白波戸瑞蓮」
「シロハト・タマレ、なるほど、たまれちゃんね。オッケー、覚えた。たまれちゃん、学校楽しい? 彼氏とかいるの?」
距離の詰め方えぐいな、この宇宙人。ちょっと優しくしたら付き合えると勘違いするクラスの男子くらいえぐい。
首から上が頭、下がヤクザだから余計にえぐい。
「釣れないなあ。ボクの先輩なんて、地球に来てすごいチヤホヤされたって聞いたよ。ラブなんとかって有名な小説家にモデルにしてもらったりしたんだよ」
「中学生をラブホに誘わないでください」
「違うよ! 明石くんはもうちんちん立たないから!」
それって、やっぱり死んでるんじゃないの? あと女子に向かってちんちんとか言うな、宇宙人はデリカシーがない。
「中学生にちんちんとか言うとセクハラで死刑になりますよ」
「もぉー! 地球人はちんちんが好きだって聞いたのにー!」
宇宙では地球がどんな風に伝わってるんだろうか。楽しい娯楽に溢れてて、ちんちんが好き。あながち間違いでもないかもしれない。クラスの男子は、よくそういう下ネタではしゃいでるし、ほとんどの女子はそう遠くない将来、ちんちんを取り合う醜い駆け引きや争いに夢中になる。
「やだねー。みんなして他人の性器に夢中になって、なにが楽しいんだか」
「たまれちゃんは男子が嫌いなのかい?」
「別に男子も女子も嫌いじゃないよ」
誤解をすぐに解いておいた。どっち好きじゃないだけ。それが老人でも赤ちゃんでも何にも興味が持てないだけ。多分きっとこれからもずっと。
きっとこの世界は真っ暗な海で、みんなは蛸みたいな吸盤があって、どこかしらなにかしらで岩場にくっついて流されずに生きていけるけど、自分はこの世界との間になにひとつ引っかかるものがない。どこにいっても馴染めないし、なにをしても興味が持てない、恋も出来ない、尊敬も出来ない、興味も持てない、ただ暗くて恐ろしいだけの海がずーっと広がってる。
「つまり吸盤があればいいんだね!」
違うわ、このタコ型宇宙人。
宇宙人は明石さんの両腕を使ってタコ足を引っ張り、ふんぐるいぃって呻き声をあげながら、勢いよくタコ足を引きちぎった。
「8本しかないから貴重なんだけど、他でもない明石くんの親戚だからね。特別だよー」
そう言いながら、頭のほうの切断面から墨みたいな液体を垂れ流しながら、まだビチビチと動いてるタコ足を放り投げてくる。タコ足は子犬くらいの大きさで、全体的にぬめっとした手触りで、生ぬるいお茶くらいの温度で、臭いは公園のトイレ。酒と煙草と加齢臭に強烈な生臭さを添えて。
そんなの渡されたら、おそらくみんな、さすがに私と同じ反応をすると思う。そう、反射的に投げ捨てる、だ。
「くっさぁ!」
「ねえ、ちょっと酷くない!?」
当然の結果だ。むしろ1回手に取ったことを褒めて貰いたい。
宇宙人は地面に転がったタコ足を手に取って、一升瓶を吸盤に引っつけて持ち上げたり、霊園の墓石にくっつけて地面から10センチくらい浮いてみせたり、このタコ足便利だよーってアピールしてるけど、機能の問題じゃない。そこは疑ってないよ、臭いんだよ。
「まったくもう! 地球人はもうちょっとデリカシーを持った方がいいと思うな!」
墓石にくっついたまま、首から下の明石さん部分を振り回しながらプリプリ怒ってる。
「ねえ、宇宙人。宇宙から来れるくらい技術があるんだから、便利な道具とかないの。例えば、未来がわかるとか」
「そういうのはないよ。あるとしたら、これくらいかなぁ」
宇宙人がタコ頭の内側から取り出したのは、賞味期限の怪しいソーセージ、くしゃくしゃになったポテチ、中身の濁ったワンカップの瓶、サイコロ、泥だらけのトランプ、錆びた鉄アレイ。それと本物かおもちゃかわからないけど拳銃が1つ。持ち物がヤクザのホームレスだ。あ、ヤクザの体乗っ取ったホームレス状態の宇宙人だった。
タコ足同様の公園のトイレみたいな臭いに耐えながら、ゆっくりと拳銃を拾う。ずっしりと重くて硬い。馴染まない感触。
自分には何もないけど、もし1個特別な何かがあれば寄る辺になるかもしれない。そう思わせてしまう魔力みたいなものを感じさせる重さがある。すなわち危険だ。
「それ、偽物だけどね」
「偽物かよ!」
反射的に拳銃をタコ頭に投げつける。宇宙人の頭は拳銃が突き刺さった形に凹みが生まれ、その凹み部分を吸盤で吸いつけ引っ張ることで元の形に修復する。
「たまれちゃんねえ! もうちょっと物を大事に扱うってことを覚えるべきだと思うな!」
何度目かの宇宙人の説教を受けながら、そろそろ家に帰らないと親に何か言われそうだなーとか考えた。
「たまれちゃん! 聞いてるの!?」
「うん、聞いてる。晩ご飯はたこ焼きだけはやめとく」
「やっぱり聞いてない! 地球人はどうかしてるよ!」
タコ足をバタバタとさせながら、首から下は直立不動の宇宙人が憤慨する姿も、この数十分ですっかり見飽きたのだった。
「バイト行ってきまーす」
それから? それからどうなったかって?
特に変化なし。私の周りへの興味の持てなさは改善も進展もなく、相変わらず夢もないし恋もしてない。友達もいないわけじゃないけど理解し合えることはなく、他人はやっぱり苦手なまま。
変わったことといえば、親や先生に言われるがままに地元の高校に進学したことと、少しでも興味を持てるものを効率よく探せるように、地域おこし関係のアルバイトを始めたこと。といっても書類を届けたり、イベントの時に椅子を並べたり、屋台の店番をしたりくらいで、今日はイベント会場でタコ焼きを焼く日。
ちなみにやりがいはというと、文字で表すと、今のところ虚無、だ。
「やあ、たまれちゃん! なにか興味があるもの見つかった?」
「いや、まだなんにも……」
宇宙人はとりあえず風呂に入ってきれいにしろってアドバイスしたら、臭いはかなり改善されて、そのまま就職したらしい。部屋を借りて所帯を持つという、持ち前の行動力を活かして今では1児のパパだ。
元九頭竜組の人たちと仲間たちを合わせて、みんなで着ぐるみタコヘッドおじさんとして、町のマスコットキャラクターとして活動していて、みんなからは着ぐるみのタコを被った人たちって思われてる。
「あれ? ちんちん立たないって言ってなかった?」
「たまれちゃん、女子高生がちんちんとか言っちゃダメだよ」
宇宙人にまた注意された。最初に言ってきたの宇宙人からなのに。
「ちなみにねー、奥さんの連れ子」
あー、連れ子ねー。
宇宙人でも出来ることが将来出来なかったら、いよいよ私どうしたらいいんだろう。絶望的な気持ちで鉄板に生地を注ぎ込み、あれこれ考えながら千枚通しをくるくる回していると、鼻から頭のてっぺんまで沁み込むようなにおいで、頭がいっぱいになってくる。
「たまれちゃん、焦げてるから!」
「知ってるー」
黒焦げになった生地を鉄板から引っぺがして、そのまま宇宙人用エサ袋に放り込んだ。
(おわり。悩みは尽きない)
Special Thanks
イラスト:めふちゃん(potofu.me/mefuchan)
放課後たぬきそば
リンゴンと鳴るチャイムの音で目が覚めた。
昼休憩ってなんでこんな一瞬で溶けちゃうんだろう。授業だとあんなに長いのに。
ふわぁと大きな欠伸をしながら周りを見回すと、なんかあんまり人がいない。いないっていうか、バタバタと教室の外に出て行ったりしてる。
次の授業なんだっけ? 移動教室だっけ?
黒板を見ると、5限化学室って書いてある。
化学か。なんか燃やしたり爆発させたりするから結構好きなんだけど、ものすごく眠いから楽しさより眠いが勝っちゃう。
「ま、いいや。眠いし」
再度ふあーと欠伸をしながら頭を机まで垂らして、左腕を枕代わりにして、もう1回寝ようとしていると、
「ねえ、進路希望書いた?」
なんか廊下から、今あんまり聞きたくない単語が聞こえてきた。
「まだ! 書いた?」
「私もまだー」
「てきとーでいいんじゃね?」
「いや、三者面談で使うらしいから、ちゃんと書けよ」
進路希望? やべっ、私もまだ書いてないわ。
でも今は眠いのが勝つのだ。未来のことより今は眠いのが問題なのだ。
「山野井! 起きろ!」
「ふえあぁっ!」
先生の大きめの声で目が覚めた。あんまり大きい声だから、肩がびくってなったし、なんか変な声も出た。まわりもクスクス笑ってるし。
くそー、めっちゃ恥かいたじゃん。耳まで赤くして背中を丸めてたら、先生がこっちをガン見してくる。
「進路希望、まだ提出していない者も若干名いるが、今週中にだからなー。早く出すように」
「へぇーい」
先生めっちゃガン見してくる。もしかして私以外みんな出してんの? マジで? 優秀過ぎじゃね?
「山野井! お前は絶対忘れるから、なるはやで出すように!」
「狙い撃ちやめろ! 忘れないですー!」
忘れる自信しかない。そもそも1文字も書いてないし。
白紙で出すって駄目なのかな? 選挙も「行かないよりは白票でもいいから投票しろ」って政経の先生が言ってたし。でも白紙って絶対怒られるよな。てきとーでも怒るでしょー。あれ? これ詰んでね?
ぐるんと首を横に振って、隣の席の子に視線を向ける。一瞬なにって驚いた表情をしたけど、すぐに私はもう出したよって顔をして、私以外みんな出してることを空気で伝えてくる。
おおう、みんなちゃんと出してんのかい。
がばっと先生の方を向き直ると、冷ややかな呆れたかのような目で、あとはお前だと訴えかけてくる。
出しますよ、出せばいいんでしょ。いや、私だって出すつもりはあるよ。書くことがないだけで。
「じゃあ、ご時勢もご時勢だからな。寄り道せずにまっすぐ帰るように。あと人がいるところではマスクしろよー」
「へぇーい」
世間を何年もざわざわさせてる、異常に感染力が高くて、高熱が出て喉も痛くなって、人もまあまあ死んじゃう上に、後遺症もばっちりヘビーな新種の疫病も一向に収まる気配がなく、これといってやりたいこともない。具体的な夢もない。嘘でもいいから目標もない。すごく頭がいいわけでもない。ごめん、見え張った、勉強ぜんぜん出来ない。
ホームルームの終った教室でぼけーっとしながら、てきとーにスマホ画面を開くと、駅前にタヌキが出てきた、っていう超どうでもいい動画が、ネット廃人向けオシャレ度ゼロ系SNSツブヤイターで流れてきた。
人間界に紛れ込むなんて、のんきなタヌキめ。時代が時代なら鍋にされちゃうぞ。
「あーおーい、帰んないの?」
同じクラスで唯一仲良くしてるヒナタが、手に持った鞄をゆらゆらさせながら顔を覗き込んでくる。
私はスマホを鞄にしまって、タヌキ並みにのんきな提案をしてみた。
「今からタヌキ探しにいこーよ」
「お、おっけー?」
「じゃあ、着替えて駅前集合ね!」
私たちの住んでる町は、都会の人からは鼻で笑われるような人口だけど、いちおう県庁所在地で、地方都市の中では、まあまあ人が多いとこだと思う。たまに毛が長くて足の長い金持ちが飼ってそうな犬も散歩してるし、高そうなでっかい車も走ってる。都会といえばーな雰囲気の激安の御殿と称されるお店もある。
でもツブヤイターで定期的に話題になるデートに向いてるのか向いてないのかわかんないファミレスはない。JRはあるけど新幹線はない。野良猫はそこそこいるけど、タヌキが出るほど田舎感もない。
なんていうか全体的に中途半端、そんな具合のところ。
そんな中途半端な町の、ザ・中途半端な住宅地を、地獄車と筆文字でぶっとく書かれた勝負Tシャツに着替えた私と、今からオシャなカフェにフラペチーノでも飲みに行くんですかって感じのガーリーコーデのヒナタの、パッと見まじで意味不明なコンビで並んで歩いてる。
住宅地だけど普通に廃墟とかあるし、カラス避けみたいな目玉ぐるぐるの風船を持って歩きまわるよくわかんない宗教の建物もあるし、公園で一番見かけるタイプの人は素手で木をばしばし殴ってる。
でも女子高生が昼間に歩いても危なくない。
治安がいいのか悪いのかよくわかんないところ。
「にゃーん」
塀の上を猫が歩いている。この辺りの猫は2種類いて、触ろうとしても全然触らせてくれないノーマルネコチャンと、異常に人なつこくて触り放題なSSRネコチャン。今いた猫はノーマルネコチャンなので、にゃーんって話しかけたら、なんだこいつみたいな顔をしてくる。
ちなみにここ今月の戦績は10勝86敗3分けくらい。ちなみに3分けは鼻先をちょっとだけ触れたけど、すぐ逃げられた時の。
「ネコチャン触れなかった!」
「いいけど、タヌキ探すんじゃなかったの?」
「そうだった! おーい、ポンコー、ポンコポンコー」
ポンコって呼んだらタヌキが出てくるのか知らないけど、とりあえずポンコ(仮名)とする。わかんないよ、タヌキ博士じゃないし。タヌキ博士って職業があるのかも知らんし。
家と家の隙間とか、コンビニの倉庫の下とか、電信柱の陰とか、なんかタヌキがいそうだなって場所を重点的に狙い、姿勢は膝を屈めてなるべく低く、近づくときはゆっくり、離れる時はしゅばばばばって感じで。
いや、完全に見た目はただの怪しい奴なんだけど。
「今さら聞くのもアレだけど、なんでタヌキ?」
「駅前に出たんだって」
「そうじゃくて、そんなにタヌキ好きだった?」
「んにゃ。ふつーだけど」
そういえば別にタヌキ好きじゃないな。嫌いじゃないけど、好きになるほど身近な生き物でもないよね。ババアを汁にしちゃうイメージあるし。でも動物園にいたら10分くらいは見ちゃう。そんな微妙な距離感の生き物だと思う。
「そんなことより、普通に歩いてたら警戒されるから、ヒナタも探索モードになって」
「はいはい」
ヒナタも一緒に身を低くして、怪しい奴2号としてタヌキ探しモードになってくれる。膝を落して、さささささーって素早く動いて、しかも足音をあんまり立てない。なんか私よりも上手い。ずるい。
私も負けじと膝と腰をさらに落とすと、体の真ん中の方からぐぎりって音が聞こえた。
「ヒナタ隊長、ヒナタ隊長! エマージェンシー!」
「誰が隊長よ。で、どうしたの、あおい隊員」
「なんか腰が痛い! 動けない!」
ヒナタは呆れた顔で、地面スレスレまで膝を落して両手を前に突き出した変な体勢でいる私を見下ろし、やれやれって身ぶり手ぶりで、私の右膝を外側からぐいっと足で押した。
「ちょっと! まじデンジャー! まじデンジャラス!」
両手をバタバタさせる私を観察しながら、けらけらと笑うヒナタ。
そのヒナタの背後を、ぬぅーっと1匹の、茶色いずんぐりしたミニアニマルが通り過ぎて行ったのが見えた。
「あ、ポンチクリン発見!」
逃げられましたー。
「ちなみに、さっきのはハクビシンだね」
「え? タヌキじゃなかったの?」
指摘されて驚いた私の視界の端で、塀の上を渡っていく茶色ずんぐりミニアニマルが見えた。
私がアニマルを指さすと、ヒナタがハエを払うような感じで手を左右に振る。
「今のはアナグマだね」
今度は屋根の上を茶色ずんぐりミニアニマルが走っていく。ヒナタが静かに首を横に振る。今のもタヌキじゃなかったっぽい。
「今のはアライグマだね。顔の模様と尻尾が見分けるポイントね」
「さっきから動物多くない? あと詳しくない?」
「多少はね。仮にも飼育員希望だし」
ヒナタは飼育員希望。そっかー、飼育員希望なのか。
って、飼育員希望なの? 飼育員って動物園とか水族館の?
「初めて聞いたんだけど!」
「聞かれなかったから」
完全にこっち側、端的にいうとモラトリアムの沼にはまってると思ってた友達は、しっかりと将来の目標とか夢とか決まってた。
なんだろう、この置いて行かれた感というか距離が開いちゃった感というか、寂しさとか切なさとかそういうのというか、もう言葉に表せない感覚! 私の語彙力じゃ無理!
「ヒナタさん、進路決まってんすか?」
「なんで敬語なのよ」
いや、なんとなく先いかれた感があったから。
膝と腰は痛いし、友達には先に行かれちゃうし、タヌキは見つからないし、なんかもう満身創痍って気分で歩いている。
空はちょっとオレンジ色になってるし、おなかも空いてきたし、なんなんだ今日は! なんなんだ!?
ふんがふんがしながら歩いていると、後ろからぬらっと誰かが近づいてくる気配がする。万が一痴漢とかだと面倒なので、先手必勝の精神で、目をキッと見開いて振り返ると、丁度帰りなのか先生が立っていた。
「……山野井、川田、なにやってんだ?」
「タヌキ探しっす」
「そのお供です」
正直にそう答えると、なにやってんだこいつらって言いたそうな顔で溜息を吐かれた。
先生も大変だな。仕事帰りに生徒に遭遇したら、スルーするわけにもいかないんだろうし。そう考えたら教師は絶対嫌だな。仕事は仕事、プライベートはプライベート、そういうのをしっかり分けれる仕事がいい。でも、まず仕事したくないんだよね。
学校でさえ自分的にギリギリなのに、このあと何十年も同じ時間同じ場所で同じことをし続けないといけないとか、でもそっか、在宅ワークとかだったら家にいればいっか。でも家でも仕事のこと考えるとか嫌だな。勉強のことも考えたくないのに。
「山野井、どした?」
「あおいは今日ちょっとお悩みモードなんで」
頭の中がぐるぐるする。
私がおかしいのかな、なんでみんな仕事したいって思えるんだろう。だって毎日寝てたいじゃん。毎日寝たいだけ寝て、漫画読んでアニメ見て、ゲームして、ごはん食べて寝る。それがなんでダメなの? って、それも3日で飽きそうだなー。
え? みんな毎日どうやって楽しんでるの? よく考えたら、楽しいことってそんなにないし、夢中になれるものもないよ。
私はこの先、どうやって生きたらいいの? やりたいことも見つかってなくて、夢中になれるような趣味もなくて、なんにもないままがずーっと続いたら。
ダメ、なんか気持ち悪くなってきた。吐きそう。
「山野井?」
「あ、これアレです。あおいがマーライオンになるやつです。先生、ちょっと下がってください」
おぼぼぼぼぼぼぼぼ。
チャリンチャリンチャリン、ポチッ、ガシャン。
道に大量のオゲボを吐いて、ヒナタからサイダーを受け取って、ぐびぐびと飲む。酸っぱくなった喉に炭酸がいい感じに効いてる、そんな気がする。
「大丈夫か? もしかして例の疫病か」
「例の疫病ではないです。将来のこと考えたら、なんか気持ち悪くなって」
ほんと、なんなんだ今日は!
タヌキは見つからないし、満身創痍だし、オゲボ吐いちゃったし、もう最悪!
お昼に食べたもの全部吐いちゃってお腹空いたので、先生にラーメン食わせろってお願いしたら、先生は米が食べたいってことで、間を取って蕎麦を奢ってもらえることになった。
それ、ほんとに間取れてるか?
たぬきそばを啜りながら、たぬきそばっていうのは揚げ玉を乗せたお蕎麦のことね。たぬきそばを啜ってトッピングのコロッケをかじりながら、そういえば先生はなんで先生になるって決めたんだろうって思った。
ヒナタの飼育員は、かわいい生き物が好きだから理解できるけど、先生って職業はさっぱり理解できない。もしかして女子高生が好きだからとか?
「先生はなんで先生になったんですか?」
「JKが好きだから」
私とヒナタの目が、きゅーっと上下から寄って、電信柱の下に落ちてるうんこを見るような目に変わる。
「うわ、最悪。くっそ気持ち悪っ!」
「ロリコン変態教師」
「冗談だよ、本気にすんな」
ほんとかー? 大人って汚いからなー、すぐ嘘つくからなー。
「本当はだな、社会に出たくなかったからだ」
先生が今度は嘘じゃないぞって真剣な顔で、なんの間かわからないけど多少の間をおいて、ぼそりとそう答えた。
中々に言いづらかったのか、言葉にした後ですぐにカレー南蛮をずぞぞぞと啜り出す。
ん? でも先生って職業だよね? じゃあ、社会人なんじゃないの?
「実際はそれだけでもないんだが、教師って高校レベルの勉強が出来たらなんとかなるだろ。俺は勉強は結構出来る方だったからな。このまま学校に居続けたら、そんな大きな挫折も失敗もしないだろうって思ったんだよ」
「え? 自慢? 殴っていいっすか?」
「違う。あと殴るとか言うな。適正ってやつだ。俺には勉強の適性があった。山野井もやりたいことじゃなくて、自分のできることの中で、なんとなく向いてそうな道を選ぶって決め方をしてもいいと思うぞ。俺も教師をどうしてもやりたかったわけでもないし」
なるほど、なんていうか、なんの役にも立たないアドバイスだ! もうちょっと具体的な職業を提案するとか、そういうのが欲しいんだけど。
ヒナタをちらっと横目で見ると、肉うどんをもぐもぐしながら、冷ややかな目で先生を眺めてる。きっと同じような感想が浮かんでるんだろうな。
でも、おめー夢を見つけてる側だからな! 私と違うからな!
そんな目線の冷ややかさに気付いて、先生がちょっと慌てて箸を置いて、うんうん唸りながら指を小刻みに動かしながら、あれこれと考えて、
「いや、正直な話な、俺って学校の延長線上のことしかしてないだろ。だからぶっちゃけ、別にアドバイスとか出来ねえ」
申し訳なさ半分おふざけ半分な表情で白状する。
え? おめー先生だろ? ちゃんとアドバイスしろよ。
「よく考えてみろよ。小学校中学校高校大学、そのまま高校教師だぞ。マジで学校以外の生活しか知らんのよ。たまに意識高い系の先生が、このままだと将来立派な社会人になれないぞ、とか言うだろ。でも俺たち、社会に出たことねえんだよ。転職してきましたって人以外」
な、なるほどー?
じゃあ、結局やっぱり自分で考えなきゃいけないのでは?
太陽がすっかり沈んで、月が齧られたように欠けてる。
進路希望に書くことが結局見つからず、私はどうすればいいのか途方に暮れている。むしろ、今よりも10年後20年後、もっと年を取った時に、まだ同じことを考えてたらどうしたらいいんだろうって、未来の先の先まで不安になってくる。
そんなことを考えると気持ち悪くなってくるし、なんか森で迷子になったみたいな気持ちになっちゃう。
都会は出口のないコンクリートジャングル。田舎は出口の埋まった雑木林。中途半端な地方都市は出口の出来てない建築現場。誰かがそんなことを言ってたような気もするけど、今まさにそんな気分だよ。
「あおい、大丈夫? また吐きそうな顔してるよ」
「無理。もうなんにも考えたくな……」
気持ち悪すぎて視界がぼやーっとしてきたところを、しゅたたたたっと茶色いミニアニマルが通り過ぎていく。
「あおい! タヌキだよ、タヌキ!」
「え? ようやく? エンディングに出てくるタイプのタヌキじゃん!」
私は腰をぐっと落として、タヌキ捕獲モードで近づいていく。タヌキは人慣れしてんのか全然逃げようとしないし、くりんくりんな目で私をじーっと見てる。
「ポンチクー、逃げないでよー。でも噛まないでよー」
「あおいって今のままがずーっと続いてそうだよね」
「え? なんで?」
「だって、勢いだけで生きてるもん」
そんなことない、って叫ぼうとヒナタに向かって振り返ると、その勢いにびっくりしたのかタヌキがしゅばばばばって走っていく。
タヌキ見失った! 将来も見失ってる!
「んあー! ポンポコ逃げちゃった!」
「ほらね」
ヒナタがケラケラと笑ってる。ケセラセラはなるようになる、みたいな意味だったと思う。
私の将来はやっぱりどうにもならないような気がしてきたよ。
「そんなこともあったねー」
たぬきそばを啜る私に向かって、並みのタヌキよりお腹の大きくなったヒナタが笑っている。
ヒナタはあれから動物園に就職して、自分の夢をかなえて、3年くらいで結婚してやめた。再来月には赤ちゃんが産まれる予定。
え? こいつ、夢かなえて結婚して子どもも手に入れるとか、ちょっと欲張りすぎじゃね? 前世は大泥棒か? アラビアの王様か?
ちなみに私は高校卒業して、しばらくニートした後で、とりあえず近いからって理由で駅前のバーで働きだした。今では立派な薄給バーメイドだ。そこの常連客の、カラス避けみたいな目玉ぐるぐるの風船を持って歩きまわる、よくわかんない宗教の人たちに勧誘されたりしながら、人間としてはギリギリなんとか生きてる。
貯金? 資格? かれぴっぴ? あるわけねーだろ、そんなもん。増えたのγGTPだけだわ!
なんだこの人生? 前世は犯罪者かなんかだった? 来世くず生活過ごし刑とか受けた?
「赤ちゃんの名前、男の子だったらポンタ、女の子だったらポンコとかどう?」
「あはははっ、ぶちころがすぞ」
たぬきそばをずるずると啜る。きっと私は今後も、ずるずるとこんな生活を続けるんだろうな。
「ぬあー! もうこんな人生やだー!」
「あおいは変わんないねー」
うるせー! こっちは毎日が迷路で一大事なの!
かっぱ巻きの醤油でなぞる30センチ円周軌道
「うわぁ、完全に赤字ですね」
積み重なった帳簿の山を見上げながら、疑問を通り越して呆れ、呆れを鍋の上げ底にして失笑、そんな感情が湧いてくる。
かつてはそれなり、相応の資金を持っていた結社だが、今では比喩でもなんでもなく、子どものお小遣い程度のお金しか残っていない。
政治的透明性、情報化社会といわれて久しい現代社会において、ある意味で主義主張や公約以上に重視されるものがそれである。本来陰で行動し表に出ない場所で暗躍する秘密結社に求められるようになったものも、また政治的透明性であった。
結果、結社が結社であるべき動きが難しくなり、本来の持ち味であった隠密性や秘匿性の維持が困難になったことで、当然のようにこうなってしまったわけだ。すなわち報酬の喪失、イコール赤字である。
「さて、我々は赤字なわけだが……」
秘密結社支部長であり上司でもある鴨居弦一郎(本名・山田太郎)が片手で運べるサイズの金庫と豚の貯金箱をテーブルに置き、静かに目を閉じて何秒か沈黙する。仮にも支部とはいえ秘密結社の長だけあって、精悍な顔立ち、背筋を伸ばして座る佇まい、背中に3本足の烏の描かれた着流しをまとった姿は、天下無双の色気と武道の達人のような雰囲気を醸し出している。
しかし、彼の持つ色気も魅力も、悲しいかな現実の前には無力でしかない。金がないのである。
「さて、我々は赤字なわけだが……」
「そのセリフ、かれこれ40回目ですよ」
瞼を閉じたまま苦々しい表情を浮かべる弦一郎の額から、つつーっと垂れる汗が一筋二筋。悲しいかな、金がないのである。
繰り返すが金がないのである。秘密結社の運営資金、残り2万1861円。それと豚さん貯金箱に入った、どんなに多く見積もっても5000円ほどであろう端金。
「先生、とにかく豚さん貯金箱を割りましょう。話は現状把握の後です」
「たしかに」
先生がテーブルの角に豚の胴体を叩きつける。粉々に砕けた陶器の身体から転がる、とっさに目で追える数の1円玉と5円玉。それと10円玉がほんのわずか。合計39円。(内訳:10円玉2枚、5円玉3枚、1円玉4枚)
「もしかして豚さん貯金箱の中身、使い込んだ?」
「まったく世の中は不思議なことばかりだな。ま、それを言うと俺たち秘密結社なんてのが不思議の塊みたいなもんだが」
「貯金箱の金、使った?」
「まったく世の中は不思議な」
「おい」
先生が畳が擦り切れるほど頭をこすりつけて土下座するまで、あと10秒。秘密結社の残金2万1900円。
そろそろ私たちの話をしておこう。私の名前は円円(つぶらまどか)、ちなみに本名。大学進学で上京したついでに秘密結社でアルバイトをしている。半年ほど働いてみてわかったことだけど、この秘密結社には金がない。そもそも秘密結社という性質上、秘密裏に活動しているわけなので収入は寄付や報酬に依るところが大きい。
そして追い打ちをかけるかの如く、この秘密結社の支部長、鴨居弦一郎という男は正義の男である。悪に手を染めるくらいなら空腹に耐える、そういう男である。
さらに秘密結社の長であることに誇りを持っているので、副業を主軸に持ってくることを潔しとしないところもある。
となると結果は必然、貧乏である。
それを解決するために、今月の家賃の支払いも危うい事務所に集まっているわけなのだけど、
「先生、やっぱり会員を増やすべきじゃないですか?」
そもそも支部の構成員が私と先生の二人というのがおかしいのだ。都心まで1時間ほどかかるとはいえ、仮にも首都圏にあるわけなので、人がいないわけではない。事実、先生の副業である鴨井流柔術道場は、近所の子どもや主婦の皆様方の平和と安全を守る護身術を学ぶ場として、かろうじて道場代と日々の食費を賄える程度には人が集まっている。
「そうだ、柔術教室の生徒さんがいるじゃないですか。彼らに会員になってもらうとか」
「円円ちゃんねえ、皆さんは護身術を学びに来ているわけであって、そこでいきなり、実は俺は天皇陛下を裏から守護する秘密結社の支部長です、会員になりませんか、なんて言ったらどう思う?」
「まあ、頭の病院を進めますよね」
先生は私のことを苗字の円(つぶら)でも名前の円(まどか)でもなく、あだ名として円円(えんえん)と呼ぶ。ちなみに百人いたら百人がこう呼ぶので、別に嫌な気もしなければ浮かれることもない。
でもみんながそう呼ぶんだから、いっそ下の名前で呼んでくれても罰は当たらないと思う。
「それに結社にもルールがあって、むやみやたらと構成員を増やすのは良しとされていないんだよ」
「それですよ。結社のルールを押し付けるなら、本部は私たちにルールに則った活動ができるよう、お金を送ってくるべきです」
「お、おん……ふつ……」
先生が小声で、ぼそりと呟く。
「音信不通だ。先週、本部まで足を運んだらもぬけの殻だった」
どうやら逃げたらしい。秘密結社が秘密裏に夜逃げする時代、世知辛いにも程がある。
「わかりました。では、こうしましょう。結社とは別に団体を作って、そこから金を引っ張りましょう」
私の考えた作戦はこうである。表向きは平和で善良そうなボランティア団体を立ち上げて、活動費として毎月いくばくかのお金を頂く。その中の一部を慈善団体への寄付と称して、こっそり結社の運営費に回す。
領収証? もちろん偽造するに決まってるじゃないか。
「円円ちゃん、そういうのはダメだ。未成年の内から人の道を外れるような行い、大人として見過ごすわけにはいかない」
「くっ、この真面目中年め。でしたら、倉庫にある祭祀道具の中から不要なものを売りましょう」
ならばと考えた次の作戦はこれである。手段としては古臭い手だが、例えば大学や専門学校のキャンパス内に、アルバイトの露出多めの胸がやたらとでかい女を送り込み、地味でモテなさそうな男子に声をかける。女子率多めのサクラ満載のライングループに誘いこんで仲良くし続け、相手が好意を抱いたくらいのタイミングで高額で売りつける。うちとしても余計な在庫を処分できるので一石二鳥だ。
「円円ちゃん、それはカルト宗教の手口だからダメだ。秘密結社のイメージが悪くなる」
「たしかに。では、ネットワーク会員を増やすのはどうでしょう」
手口はこうだ。まずSNSを使って、陰謀論的な言説を唱える。人工地震であるとかワクチンは危険だとか不正選挙が行われているとか世界を牛耳る資本家集団がいるとか、とにかくネットリテラシーが一定レベル以下の人たちが反応するようなテーマを放り投げる。
さらに、あまり馴染みのない外国人が喋ってるニュース映像に適当な字幕をつけたり、でたらめな論文をでっちあげたりして、わざわざ翻訳しない層にヒットする情報ソースを集めたニュースサイトを作る。
デマ情報が口コミ的に独り歩きしたくらいで、特に熱中してる人たちにSNSのダイレクトメールでコンタクトを取り、真実に気づいたあなたにこそ教えられる商品として、セメントを詰めただけの缶や水道水や家畜用の虫下しの薬なんかを、アメリカで流行ってる特効薬として売りつける。
「円円ちゃん、一度ご両親を交えて道徳についてお話しようか」
「それはちょっと。こんな怪しいバイト、今すぐやめなさいって言われそうだし」
「それは困る」
一応説明しておくと、私が秘密結社に雇われた理由は、簡潔にいえば事務員である。数年前まで前任のメカに比較的強い人がいたけど、出世して別の支部を立ち上げることになり、残されたのは致命的に機械に弱い男、鴨居弦一郎ただひとり。
この先生、未だにスマホの使い方もよくわからないし、この半年でようやくパソコンを起動して文字を打てるようになったレベルの現代文明初心者。にっちもさっちもいかなくなったところを、たまたま求人を見かけた私が事務所の扉を叩き、事務員兼経理兼SNS担当兼動画編集担当として、そこそこ普通の金額で働いている、というわけだ。
「そうだ、先生、それですよ。SNSでバズりましょう」
「バズ……? バズーカか何かか?」
ポンコツ中年はさておいて、昨今SNSで急にバズってグッズ販売や書籍販売に繋げるという手法は、当たり前のように私たちの生活を侵食してきてるし、瞬間風速的にでも注目を集めるのはゴミだけど正義である。
即座にお金に繋がることもあれば、別になんにも繋がらない場合もあるし、それはバズらせ側の目的次第な部分ではあるけど、とにかくこの状況を打破するのに注目を集めるというのは悪くない。
「しかしだな、俺たちは秘密結社だぞ。秘密結社が目立っていいのだろうか」
「表向きにアホみたいな楽しく遊んでるグループを作って、そこで先生の良心が咎めない程度にグッズ展開とかして、流行りのものに条件反射で飛びつくタイプのベンチャー志向っぽいアホから金を引っ張って、それで得た収益の一部を運営費に回す、くらいしか現状打つ手なしですよ」
「円円ちゃん、言葉の節々に悪意が見え隠れしてるぞ」
もちろん私だって、そんなことはしたくない。できれば平穏に静かに暮らしたいし、SNSも陰キャ向けのツブヤイターはやっても、おしゃれ特化のイソスタとか短時間アホ動画系のディックドックとかには染まりたくない。
まだ世の中の大半が気付いていない先生の良さを、わざわざ世間に見せつけるようなことも気が乗るわけじゃない。
しかし何もせずに静観するターンはすでに終わっている。秘密結社が潰れたら困るのだ。
「先生が道場拡大して、週6で働いてくれるなら話は別ですけどね」
「ぐ、ぐぬぬぬぅぅ……」
先生からネジを限界以上に締めるような音がしてるけど、今はそれは然したる問題ではない。問題は金欠のほうだ。
「というわけで、ダミー団体としてのポップな秘密結社を考えましょう」
SNSでバズれそうなグループを作ることにしたわけだけど、秘密結社は秘密結社という響きからして魅力がある。想像力を掻き立てるし、大っぴらに秘密にされると探りたくもなる。そこを活かさないわけにはいかない。
「しかしだな、俺たちはすでに秘密結社だぞ。秘密結社が運営費を稼ぐために秘密結社を作るってどうなんだ?」
「先生はしかしが多いですね。万札もそれくらい多かったら苦労しないんですけどね」
煮しめた結びこぶのように部屋の隅っこで暗い顔をする先生はさておいて、私たちの所属する秘密結社は、いかんせん現代社会に対する取っ掛かりが弱いとは常々思っていた。
まず名前の由来でもありトレードマークでもある3本足の烏、これが現代ではピンとこない。もっとポップな生き物であるべきだ。
「秘密結社カッパ養殖場」
「なんだって?」
先生に向けてもう一度繰り返す。
「秘密結社カッパ養殖場」
「いや、聞えなかったわけじゃないから。カッパってアレか? 妖怪のカッパ? なんでカッパなんだ?」
カッパである。頭の上に皿を乗せて、手足に水かきがついてて、背中に甲羅を背負ってて全身が緑色。別にカッパである必要性はないけど、カッパの知名度は高い。ちょっと面白いファニーな外見と同時に、お寿司屋の地下で延々とキュウリを巻かされている悲しいイメージもある。怒ると尻子玉を引き抜くワイルドさもある。喜怒哀楽のすべてが詰まった妖怪、それがカッパだ。
「まあ、正直な話、今私が来てるTシャツにカッパのロゴが入ってるからですけど」
薄い胸を張って、Tシャツに描かれているカッパのロゴマークを強調する。同世代の男子は私のボディラインに秒殺だけど、さすが先生、四十路も迎えにきてるだけあって百戦錬磨、鼻の下が1ミリも伸びない。
「あと、私たちの本当の姿である烏とかけ離れてるのも、ダミーっぽくてよくないですか?」
「それは一理あるが、養殖場って何?」
「例えば、カッパ団、カッパ養殖場、カッパギルド、なんでもいいんですけど、パッと耳にした瞬間に養殖場だと、え、それなに、ってなりませんか? ちょっと謎めいた名前に人間興味を惹かれるものです」
勿論でっちあげだ。今さらながらカッパ騎士団とかのほうがいいような気もする。でも口走った手前、カッパ養殖場をゴリ押す義務があるし、なにより先生にすごいねと感心されたい欲もある。
「水かきで世間の荒波を乗り越え、頭の皿に誇りを盛りつける裏社会のパティシエール。秘密結社カッパ養殖場」
「いや、キャッチコピーみたいなフレーズ言われてもだね」
先生はいまいち納得してないみたいなので、より説得力を持たせてみる。
「だったら、タンチョウヅルとかどうですか? 伝説上の烏よりは身近ですよね」
「まあ、伝説上の烏よりな」
「羅生門で老婆の白髪を引きちぎった下人は、夜ごと絞め落した公家の丹頂鶴が枕元に立つ夢を見るのです。秘密結社タンチョウヅルの会」
先生が眉間に刀傷よりも深い皺を刻んでいる。言いたいことはわかる、タンチョウヅルが高貴すぎて縁遠いって言いたいんでしょう。ほら、カッパのほうがいいでしょう。
「いや、なんか怖いんだが。もっと平和なのないのか、鳩とか?」
「公園でパンの耳を千切って粉にしていく父の姿を偶然見かけて、痴呆の進んだ祖母の京友禅を売ってしまった弟をいったい誰が責められましょう。秘密結社でかめの鳩」
先生の瞼が一段階下に落ちて、般若のような形相に代わっている。なるほど、鳩は身近過ぎてお気に召さないらしい。
カッパという身近だけど架空、その絶妙な距離感が大事なのだ。
「ちょっと待て。カッパ以外はなんでそんなに怖いんだ?」
「鳥は空を飛んでるでしょ。人間は空を飛んでいる存在に、自然と畏敬と恐れを抱くものなのです」
「カッパだと?」
「水かきで世間の荒波を乗り越え、頭の皿に誇りを盛りつける裏社会のパティシエール。秘密結社カッパ養殖場」
咄嗟のでっち上げだけど、もう暗記した。私はさしずめ、西東京の美少女コピーライター、つぶらまどか。
「例えばヒヨコとかだと、どうなるんだ?」
「生まれた赤子の成長に涙して、祖父母の墓石で包丁を研ぐ夏休み。たまごクラブひよこクラブ親子丼クラブ」
先生が眉間に指を押し当てて、悩める中年おじさんの格好になっている。まさかヒヨコにまで業がついて回るとは思ってなかったみたいだけど、ヒヨコもやがて空に飛び立つ。空を飛ぶものは全て畏れ敬うべきなのだ。
仮にカッパが翼を生やして空を飛ぶことがあったら、当然カッパにも敬意を表するべきだけど、あいにくカッパは空を飛ぶ予定はない。カッパはあくまでもカッパだから。
「では、ダミー団体の名前とマークはカッパで行くとして、あとはバズるためのメンバー集めですね。先生はどっちかというとパワー担当なので、かわいさ担当が欲しいとこですね」
「言っとくけど知っての通り金はないぞ。昨日もモヤシしか食べてないし」
道理で最近なんだか痩せこけてきてるわけだ。今度お家にお邪魔して、家よりでかいカレーでも作ってあげよう。先生はたしかウインナーが好きだったはずだから、何種類かミックスしたウインナーカレーにしてあげよう。
「そこは歩合制にして報酬後払いにしましょう。10いいねにつき1円とかに設定して」
「……いいねってなんだ?」
先生にいいねの概念が理解してもらえるだろうか。もしかするとアフリカの夜明けより遠い難題かもしれない。
なんせパソコンを起動させて、グーグルの検索欄に芋けんぴって打つまで半年かかった人だ。
場所が変わって駅前。パーカー姿に着替えた私とカッパTシャツに着替えた先生で並び立っている。ちなみに私がパーカーを着ている理由は、カッパTシャツ丸だしだとペアルックみたいで恥ずかしいからだ。ペアルックなんてバカップルじゃないんだから、望まれでもしない限り自分から着るには抵抗がある。先生がどうしてもって頼むんだったら、流石の私もやぶさかではないけど。
「というわけで、かわいさ担当のメンバーを探しに行こうと思います!」
「当てはあるのか? 言っとくけど、俺の交友関係は限りなくなく狭いぞ」
「大丈夫です。この辺の川、カッパの目撃談がありますから」
私の説明を聞いた先生だが、右の頬から左の頬にかけて戦慄が走り抜けたような顔をしている。まったくもう、いい年してカッパくらいで、そんなに驚くことないのに。
「カッパ捕獲するついでに、バズる動画撮りたいですね。とりあえず最近多発してるひったくり犯なんかが現れてくれたら、世の中的にも私たち的にも助かりますけど」
「あのな、円円ちゃん。ひったくり犯が出るってことは、被害者になるかもしれない人も出てくるかもしれないってことだ。他人の不幸につながることは願わない方がいい」
先生は正義の男だ。いつだって正論を胸に暮しているし、当然誰もが悲しまないことを一番だと思っている。いったい何をどうやったらこんな人になれるのかわからないけど、秘密結社の支部長を任されているのも、偏に先生の高潔な人格の結果だと私は考える。
「ところで先生、カッパは缶コーヒーとキュウリが好きなんだそうですよ。キュウリは私が用意してきたので、缶コーヒーは先生お願いします」
「なんで俺が?」
「私、コーヒー飲めないから味がわからないので。ついでにこの際だから、先生の好きなコーヒーも教えてください」
私はコーヒーが飲めない。特にブラックコーヒーの苦味は、何度も克服しようと試してみたけど未だに好きになれない。
一方、先生は割と頻繁にコーヒーを飲んでいる。事務所で飲むインスタントコーヒーと、夏用のアイスコーヒーの好みは把握したので、今度は缶コーヒーの好みだ。
自販機でコーヒーを選ぶ先生を、じっと観察する。真ん中の段の右から3番目。駅前のタバコ屋の左から2番目の自販機の真ん中の段の右から3番目。よし、覚えた。今度さりげなく事務所のテーブルに置いてみよう。
「まあ、これだな。別にこだわりはあるわけじゃないが、ブラックの無糖だ。円円ちゃんはレモンティーでよかったよな」
どうやら私の飲み物も買ってくれたらしい。レモンティー、別に好きでも嫌いでもないし、どっちかというとミルクティー派だけど、私の好物は今日からレモンティーだ。私の必須アミノ酸、血液の素、構成物質の90%、それは午前様のレモンティー。
「さすが先生、気が利きますね。私を感心させる度に5セント手に入る仕組みだったら、今頃大金持ちですよ」
残念ながら、そんなシステムはない。世間は非情で理不尽だ。色々なものが思い通りにいかないし、いつだって妙に騒々しい。胸の奥を通り抜ける暴風のようでもあるし、時には道を歩いてるだけで、まるで事件現場やバイオレンス映画のワンシーンに遭遇したような賑やかさがある。
「世の中はなんていうか、やかましいですよね」
「いや、実際なんか騒がしいぞ」
言われてみたら確かに、駅前の交通量の多さとは異なる騒々しさがある。
ふと後ろを振り返ってみると、一組の男女がすごい勢いで揉めている様子が目に飛び込んでくる。
「先生、あれ!」
私の指さした先には、自転車にまたがった男と、ストレートに掛けた紐の細い鞄を守ろうとする妙齢の女性の姿がある。
「ひったくり犯か!?」
「しかも先生、あの男、どことなくカッパっぽいですよ!」
自転車の男は緑色のシャツを着て、頭には登下校の学生が被るような白いヘルメットを乗せている。丸いリュックを背負った姿は遠めに見たら3割くらいはカッパだ。残りの7割は普通に人間だ。
「今はカッパはどうでもいい!」
鞄が宙に舞った瞬間、1匹のカッパが宙を舞った。
先生は、鴨居弦一郎は正義の男である。目の前に困った者がいれば手を差し伸べずにいられない、目の前に悪を働くものがいれば止めずにはいられない、そういう男である。普段は機械に弱いスマホも満足に使いこなせない時代遅れの男ではあるが、いざという時は誰よりも勇気を奮い立たせて、誰よりも先んじて一歩を踏み出す、そういう男である。
勿論その相手が、危険を感じさせる相手であっても、偶然現れたひったくり犯であってもだ。
1匹のカッパが宙を舞った。厳密には舞ったのはカッパのロゴが入ったTシャツを着た先生だ。
手に持った缶コーヒーを矢のように投げつけ、ヘルメットの中心を打ち据え、転倒したひったくり犯に向かって身を翻し、獲物を狙う猛禽、否、それより狡猾な烏のように相手に飛び掛かり、いとも軽々と腕関節を固めて犯人の動きを制する。
周囲の野次馬も感心したように、先生と犯人に視線を集中させている。今まさに秘密結社をアピールするチャンスである。
「水かきで世間の荒波を乗り越え、頭の皿に誇りを盛りつける裏社会のパティシエール。秘密結社カッパ捕獲隊!」
ひったくり犯の仲間と思われたくないので、名前に若干のアレンジを加えながら、パーカーをひらりと棚引かせて、薄い胸をなるべく張って、カッパのロゴを強調する。その勢いに、ちらほらとだけど拍手も聞こえてくる。これはおおむね成功なのではなかろうか。どれくらいのいいねがつくかはわからないけど、先生の活躍は輝きに満ちている、ように私には見える。
「円円ちゃん、口上はいいから動画を撮るのやめるんだ」
一部始終をスマホで捉えていた私に、先生が掌を向けて制するような仕草をする。
「えー、でも多分これ、結構バズりますよ」
「それでもだ。この男もきっと、なにかやむにやまれぬ事情があったかもしれない。それに、動けなくなった相手を一方的に撮影するのは、どう見たって正義じゃないだろう?」
確かに。相手は先生に制されて動けない、周りに人が集まってるから逃げることも出来ないだろう。こういう状態になると、例え相手が悪であっても弱者である。そして弱者を過度に恥ずかしめる行為もまた悪そのものだ。
鴨居弦一郎はそういう男である。
「でも先生、周りの人めっちゃ撮ってますよ」
「いや、ちょっと待って。彼にも何か事情があるかもしれない、撮るのはやめよう。こら、そこの君、スマホ向けるのやめなさい! そこのあなたも、カメラをしまいなさい!」
こうして、先生の活躍はご高説と一緒に各種SNSや動画サイトに流れ、そこそこのいいねと一瞬のバズりを得たのである。
「というわけで、そこそこバズったのに何にもしなかったせいで1円も増えてません」
「面目ない」
事務所の掃除をしている私の目の前で、先生が若干くたびれを感じさせるカッパTシャツを着て、借りてきた猫のようにおとなしく正座している。
ちなみにすっかり部屋着と化したカッパTシャツは、先生の活躍を耳にした生徒さんや私の大学の友達が何枚か買ってくれたけど、ロゴの印刷代や抱えてしまった在庫を考えると僅かに赤字である。
「ですが先生、そこそこバズった結果、引っ越し後の本部の人たちの目に留まり、無事に当面の活動費を得ることに成功しました!」
「本当か!?」
本当である。実際は目に留まり、というのは嘘で、過去の書類にひととおり目を通して、まだ生きているメールアドレスを探し出して、先生の勇姿と現状を伝えて、半ば無理矢理お金を引っ張ったのだけど。
本部も本格的に資金に余裕がないらしく、夜逃げと間違われても仕方ない形で引っ越していたため、得られた資金は事務所の家賃3ヶ月分。私たちとしては首の皮が1枚繋がった程度だが、これもまた立派な成功報酬に変わりはない。
「とりあえず活動費を増やす方向で考えていきましょう。そのために先生、今後も隙あらば活躍を記録出来るように、なるべく一緒にいますね」
「いや、大学はちゃんと行きなさい」
「勿論です。それ以外の時間のことです」
じとっと目を細める先生に向けて、屈託のない明るい笑顔を向けた。
「あ、先生、そろそろ道場の時間ですよ。掃除は私が済ませておくんで、行ってらっしゃいです」
そう言って先生を見送り、入り口の鍵を掛けて、奥の部屋でちょっと休憩。ひとりの休憩は貴重だ、なにせ乙女のスマホは秘密がいっぱいなのだ。ずいぶん前から秘かに集め続けている、先生にだけは見せられない先生の写真コレクションとか見られたら、恥ずかしくて一生顔を直視できなくなる。
それにしてもこの間のひったくり犯を倒した先生、男らしくてかっこよかったなあ等と笑みを溢しながら、忘れない内に依頼料と鞄代の振り込みを済ませたりしたのだった。
先生の名前は鴨居弦一郎、陰ながら平和を守る秘密結社に属する正義の男である。
私の名前は円円、彼の下で働く事務員兼経理兼SNS担当兼動画編集担当、兼意外と私利私欲のために動く美少女策略家なのである。
メガカッパガールVSジャイアント尻子玉
朝8時半、食パンかじりながら玄関開けたら、アパートの前に言葉にしたくない物体の大が落ちてた。
言葉にしたくない物体の大の横には、切れた縄を首に結んだおっさんが落ちてた。
こういう日は予期しない良いことが起きる、って考えるようにしてる。じゃないとバランスが悪いもん。
人生はきっと良いことと悪いことのバランスが取れるようになってて、きっと私みたいなクソ貧乏な小卒でも、きっとどこかで大金拾うような日が待ってる。
そう思える奴が長生きするし、そう思えない奴が首に縄掛けるんだ。
私はきっと長生きする方。親はとっくに死んだし、親戚は知らないって目も合わせてくれなかったし、小学校も途中で中退したし、貯金だって家賃払ったら820円しか残らないけど、きっと私は金持ちになって長生きするんだ。
だって不幸はもう山盛り味わったし、てことは不幸ももう売り切れってことで、そしたらあとは幸せが勝手に歩いてくるに決まってる。
今日もそう言い聞かせて、私、河波羽加(かなみわか)は朝から晩まで働くのだ。
◇
「おはようございまー……うわぁ、マジでー?」
朝9時、バイト先の寿司屋に行ったら、事務所で店長が頭をかち割られて死んでた。
脳みそは三角コーナーの魚のはらわたくらいキモいし、床はくっさい血でベッタベタ。
おおう、ゲロヘビーじゃんってことで、私はまだ他のバイトが来てないことを確認して、事務所の前とレジの上と店の入り口に設置された防犯カメラの向きを、明後日の方向に変えて録画データを全部消去した。
警察を呼ぼうとは思わなかった、だって取り調べがめんどくさいから。
驚きとか悲しさとか一切なかった、だってパワハラがえぐかったから。
それからレジの中のお金と金庫の中のお金、同じく金庫の中にあった拳銃とスタンガン、手当たり次第に配達で使うでっかくて四角いカバンに突っ込んで、とっとと現場からバイバイしてやるって決めたわけ。
店長が本社に隠れて横領してくれてたおかげで、ざっと数えただけで100万の束が30はあった。それだけあったら衝動的に持ち逃げしてしまっても許してもらえる金額だ。許すのは私の中の良心だけど。
とりあえず東京から脱出してー、ほとぼり冷めるまで独房みたいな安宿に泊まってー、あと豚丼にありったけの温玉乗っけたの食べてー……あとは知らないや。そんなもんは逃げた後で考えればいい。
とにかく今は15年は働かないと手に入らない金が手に入った、そういうこと。
「宿代2000円、飯代500円が1日3回、それが365日で、仮に20年それで暮らすとして、いくら? 2000万ちょっと? それに服とか歯磨き粉とか石鹸とか薬とか……やべっ、マジで20年いけるじゃん」
真面目に朝から晩まで働いてりゃいいことも起きるもんだ。
私は馬鹿みたいにくすくす笑いながら、店の入り口に鍵をかけて、臨時休業の札ぶら提げて、鍵は排水溝に捨てて、他のバイトが来る前に現場をエスケイプしてやったのだ。
さらば東京都!
さらばカッパーランドかっぱ橋道具街通り店!(※バイト先の名前)
お前らはそのままずっと働いてろ! 私はそんな生活からおさらばだ!
▷
薄給過ぎてファッキューって中指立てたくなる店を出て、とにかく1秒でも早く1メートルでも遠くへ逃げようと大通りに飛び出して、でも怪しまれないように平静を装って歩いていると、この辺の名物スポットでもある黄金のカッパの像、かっぱ河太郎の前で、2匹のカッパが空き缶を並べてボーリングをしていた。
空き缶はライフガードとドクペで、なぜか知らんけどボーリング玉をタオルで包んで、両手を交互に上下させながらピカピカに磨いてる。
ははーん、さてはこいつらサボりだな。
前掛けつけたままサボってる。って、あの前掛け、さっきまで私のバイト先だった店のやつだ。
「おーい、店しばらく休みだから、今日は戻らなくていいよ」
私はせめてもの親切で、カッパに教えてあげる。
なんで親切をするかって? カッパが確実に私よりかわいそうな境遇だから。
今時分はカッパも大変だ。
カッパはいわゆるカッパで、頭に皿が乗って背中には甲があって手足には水かきがある。身長は150センチくらいで、好きな食べ物はキュウリ。機嫌がいいとカッパッパーって歌いだす。
カッパは極端な少子高齢化とかいうやつで労働者が足りないから、カッパの国から無理矢理連れてこられて、皿の下にICチップを埋め込まれて働かされてる。
しかも給料は1日キュウリ3本、職場にもよるけど週休0日も当たり前。怪我の日も風邪の日も一切関係なし、文字通り死ぬまで働かされてる。
寿司屋カッパーランド、衣料品店カッパムラ、コンビニのカッパーマート、他にも浅草皿やしきに百均のカパソーにその他いろいろ。
世の中には奴隷みたいな顔のカッパが溢れている。
でもたまにICチップの設定が狂うのか、こいつらみたいに仕事中にサボったりするするのも出てくる。
そういう時は皿に電気を浴びせて調子を戻すらしく、私の元バイト先の地下でも店長がよくカッパにスタンガンを押し付けてゲラゲラ笑ってた。
店長をいつかぶっ✖してやろうと思ったのは、それを見た時が最初だった。
だからせめて親切にしよう、そう心がけている。
その寝起きの目やにくらいの量の道徳を失ったら、人間はどうしようもなくクソに塗れてしまう。そんな気がするから。
で、クソに塗れたやつらが死ぬまでこき使ったり、ゴミみたいな給料しか払わないのにちゃっかり新車買ったり、人がこつこつ溜めたお金を奪ったりするんだ。
私はそんな奴らと同じになりたくないから、なるべく人にもカッパにも親切にするように決めて生きてる。
するとカッパは、ちょっと思いもよらない言葉を返してきた。
「知ってるよ。だってあの店長、俺たちがぶっ✖してやったんだからなぁ!」
ボーリング玉を磨き続けてる方のカッパが、ギャハギャハと笑っている。さもこれで割ってやったんだぜーって言わんばかりの勢いで。
「おい、馬鹿。余計なこと話すんじゃねえよ」
「誰がバカだってー? バカってのはなぁー、他人にバカって言ったやつがバカなんだぜ、このバカがよぉ!」
もうひとりの空き缶を並べてた方のカッパと、ボーリング玉を磨いてるカッパが口論を始める。
そういえばカッパはすっかり見慣れてるけど、カッパのケンカとか初めて見た。そもそも元気なカッパ見るのも初めてかも、たいていのカッパは無気力で死んだ魚の目をしてるから。
ここで私はひとつの仮説に辿り着いたのだ。
「お前ら、さてはICチップ壊れただろ?」
「正解! あんた頭いいんだなぁー」
カッパに褒められても嬉しくないけど、どうやら私の仮説は当たったらしい。
「今朝起きたらよぉー、なんか神様が話しかけてきてよぉー」
「神様?」
「なんか髭がすっげー長いジジイで、タンクトップにフルチンでビーさん履いてて、フリーダムって叫んでてよぉー」
カッパの神様はどうやら相当にクレイジーな神様らしい。それか皿と頭の間でICチップが壊れた影響で、変な幻覚見ちゃったのか。
「じゃあ自由になんねえとなーって思ったから、尻子玉くらわしてやったんだよ」
カッパが頭の上にボーリング玉、だとさっきまで勘違いしてた尻子玉を掲げて踊っている。
尻子玉って想像してたよりでかいな。
なんて超くだらないことを思いながら、じゃあこいつらのおかげで私は大金手に入ったわけか、とお礼をするべきか考えてた。
◁
お礼をするにしても黄金のカッパ像の前は目立ちすぎるし、立ち話してる時間もないから女ひとりカッパふたりで川に向かうことにした。
東京からは陸路では脱出できない。
これも超少子高齢化の影響とかなんとかで、東京の周りには外に若者を逃がさないような言葉通りの壁が出来て、壁の向こうに出るには通行手形を買わないといけない。
で、その通行手形が1000万もするもんだから、うっかり東京に旅行に来たりした日にはそのまま帰れなくなって、東京都民の暮らしを支える労働者になるしか道はないというわけ。
そんなあくどい手口で毎年地方から若者を吸い上げていくことで、東京はなんとか首都としての人口とインフラを保ってる、ってこの前、道端でギャーギャー騒いでる暇そうな人たちが言ってた。
でも1個だけ抜け道があって、海からなら出れるんだなこれが。
手段は金持ち用のクルーズ船や物流用の船に密航するか、個人がやってる漁師に乗せてもらうか。
漁師の相場は1回100万らしい。
今の私なら余裕だ、私は船で逃げてやるんだ。
カッパ? カッパは泳げるからどうにかなるでしょ。
△
というわけで私たちは川に向かってる。
私の記憶が間違ってなければ、隅田川沿いには結構船があった。その中には個人でやってる漁師もいそうだし、最悪ちょっと割高になるけどチャーター船ならあるはず。
距離は歩いても20分かからないくらい。寄り道しても30分。
つまり30分以内に事件が発覚しなければ、発覚しても金持ってるのがバレなければ、私は逃げおおせるってわけ。
そして幸いなことに私の服はカパムラで売ってる、今では貧乏人はだいたいみんな1枚は持ってるカッパロゴのTシャツだし、頭は激安理容カッパーカットがやってくれる量産型おかっぱスタイルだし、カバンはこの世で最も職質されない配達用の四角いカバンだ。
不幸過ぎて目がいつの間にか蛇の目模様みたいなぐるぐるになってるけど、パッと見はモブ配達のモブアルバイトにしか見えない。
変に顔にタトゥーとか入れてたらアウトだったけど、この地味過ぎる面白みのない労働迷彩ルックもたまには役に立つ。
無理して着飾らなかった過去の私を札束でビンタしてあげたい。
「んでよぉ、俺たちは尻子玉集める旅に出ることにしたんだ。尻子玉ってすげーんだぜぇー、7つ集めるとよぉ、なんでも願いが叶うんだぜぇー」
「おい、余計なこと言うな馬鹿」
「バカじゃねえつってんだろぉ、バカがよぉ!」
カッパふたりが口喧嘩しながら私の後ろを歩いている。
カッパはよく喋る口が悪い方がラブ、あまり喋らない口が悪い方がピース。
ふたりそろってラブ&ピ―ス、雇い主の頭をかち割ったコンビには勿体ない素敵な名前だ。
まったく見分けがつかないから、頭の皿に油性マジックでハートマークを描いてあるのがラブ、ピースサインを描いてあるのがピースってことにした。
ちなみにふたりとも馬鹿だから、なんか皿がおしゃれになったって喜んでる。
「お前ら、ちょっと待ってて。買い物してくるから」
そう、私には寄るところがある。東京を出るわけだけど、世の中がこんな世の中なので、手に入るものはすぐに手に入れた方がいいし、用心に用心を重ねても絶対損はしない。
牛丼に紅ショウガと温玉乗せるように、用心(気持ち)に用心(物理)を重ねるのだ。
ここ、かっぱ橋道具街通りは昔こそ、調理器具や食器なんかの店が並んでいたけど、世の中がこんな感じになってしまってからは別の意味での道具屋が増えて、すっかりそういう街になってしまった。
「ヘイ、オヤジ、頑丈なマグライトとそれ用の電池、ナイフとカバンに入るサイズのバール、あとこいつと同じ弾を200程」
「強盗でも行くのかい、お嬢ちゃん。ま、うちは詮索はしない主義だ」
道具屋はこういう事なかれ主義者が多い。相手が子どもでも誰の使いかわからない、じゃあ俺はなにも聞きません、って態度を取るのが長く商売をする秘訣だ。
って前に寿司屋で朝から日本酒キメてたおじさんが言ってた。
「それとレインポンチョとスイカが入るくらいのカバン2つ」
「おやおや、今度は強盗の次はキャンプかい?」
雨具は私のだけど、カバンはあいつらのだ。尻子玉剥き出しで運ぶのも大変だろうってことで、お礼をするならカバンに決めた。
カッパはキュウリが好きだけど、キュウリなんてもう食べ飽きただろうし、かといってあんな物騒なカッパに武器なんて渡せない。
となると消去法で酒かカバンになって、下戸だったらって気遣いでカバンを選んだ。
カバンを受け取ったカッパふたりは、なんか忠誠心が湧いたのか私のことをアネゴと呼び始めて、尻子玉を入れて胴の前に掛けて、上機嫌で歌なんて口ずさんでいる。
カッパッパー、カッパッパー
とかくこの世は業深し つらい涙で頬染めて
母ちゃんの作った泥の粥 弁当箱に詰めて泣く
3歩歩いて人情忘れ 3歩戻って義理拾い
悲しみは背中で語り お天道様に笑顔向ける
風にまかせて 旅まかせ やがて波止場の女の元へ
ようやく旅の終着点 今日もキュウリが塩辛い
いや、そんな渋い演歌調だったんかい。イントロおかしいだろ。
なんて心の中でツッコミ入れてると、人生の荒波で顔面を煮しめたようなスーツ姿の男が近づいてくる。
その手には日本刀が握られていて、顔が濃すぎてなに考えてるかわからないけど、こういう人とは絶対にすれ違っちゃいけないって親の遺書に書いてあった気がする。
「そこのお嬢さん……連れているカッパ2匹、こちらに渡しなさい」
たっぷりの間を取り過ぎて、間延びしきった言葉とは裏腹に、素早く刀を抜いて振りかぶったのだった。
「なんだぁ、てめえ、ボケコラァ! この顔面煮浸し野郎がよぉ、俺の自由を奪おうだなんてなぁ! 寝ぼけたことほざいてんじゃねえぞ、このダボハゼがぁ!」
ラブがスーツの男に向かって、語彙力たっぷりな罵倒を返す。やっぱりこいつに愛なんて名前はふさわしくないけど、今はそんなことより、私が巻き込まれている方が問題だ。
ここで騒ぎになっても困るし、足止めされて時間を食っても困る。
となると、選択肢はひとつしかない。
「じゃ、私はこれで!」
そう、走って逃げるだ。
私はラブとピースに別れを告げて、細い路地に飛び込み、そのまま全速力で駆ける。
しかし私の後ろをアネゴと連呼しながら追いかけてくるカッパ2匹、さらに刀を振りかぶったまま走ってくる煮しめ男。
私の足が遅いのか、それともカッパが速いのか、多分どっちもだと思うけど、一向に距離が離せない。
仕方なく足を斜めに踏み出してくるっと反転して、カバンからバールを抜き取りながらピースの胴を抱えて、背中の甲羅で刀を受け止めながら軌道を逸らし、がら空きになった下腹部にバールを突き込む。
甲羅の丸みを利用して攻撃を捌き、その隙に手に持った武器で突く。
これが私が小学校時代に父親から叩き込まれた琉球武術、ティンベーとローチンの基本的戦術だ! ローチンないけど!
「アネゴ、酷くないか!?」
いきなり盾にされて怒っているのか、ピースが非難めいた叫びを上げている。
確かにいくらカッパとはいえ、盾にするのはよくない。よくないし、盾の代わりにするには大きすぎて使いにくい。
ならばと甲羅をがしっと掴み、ピースの頭を押さえて引っ張ると、そのままするっと甲羅が外れてしまった。
ごめん、冗談のつもりだったのに。
「アネゴ、酷くないか!?」
ピースの非難もごもっともだけど、さっきよりだいぶ扱いやすい。甲羅は分厚く硬く、でもサイズの割に軽いし、甲羅と背中を引っ付けていた取手みたいな出っ張りも持ちやすい。
「うおぉー! すげぇ、ピースが盾になっちまった!」
相棒の変化に興奮してはしゃぐラブの腕を、股間を押さえて悶える煮しめ男が掴み、せめてカッパひとりだけでも道連れにしようと引っ張ろうとする。
すると胴の位置はそのままに、掴まれていた腕がずるんと音を立てて伸びて、もう片方の腕が肩に飲み込まれるようにずれていく。
「なんなんだ、これはよぉ! 俺の腕がズレちまったじゃねえかぁ!」
それは私が言いたい。ピースといいお前といい、カッパの体はどうなってるんだ。
当然だけど煮しめ男も驚いて、慌てて掴んでいた手を放す。
カッパからも距離を取られた、刀も手元から離れた、下腹部を怪我して立ち上がれない。煮しめ男も力づくは諦めたのか、今度はポケットから財布を取り出して、
「お嬢さん、そこのカッパを渡してくれないか。もちろん礼金も払おう」
たぶん最後の手段のお金を使った交渉に出てきた。
私はこういう話が大嫌いだ。
無神経な話をする奴が時々いる。
例えば、女なんだから風俗に行けばもっと楽に稼げるだろ、とか、金持ってる男捕まえて養ってもらえよ、とか。
その度に思うのは、なんで金のために時間と労働力以外のものを使わなきゃいけないんだってこと。
それともう一つ、
「だったら、そのお金も貰ってカッパは渡さないってのが一番得だよね」
何も失わずに全部手に入れるのが一番お得なハッピーセットってこと。
「アネゴ、鬼やべえ! このまま邪魔する奴ら全員ぶっ✖しちまおうぜ!」
煮しめ男の斜め下からティンベーを押し当てて上半身を浮かせ、カバンの肩ベルトを片方だけ外して、スライディングの要領で股間に踵を押し込む。
父いわく、一部の沖縄県民は昔取った杵柄ってやつで、車の下とかに滑り込むのが先祖代々ものすごく上手い。
それを応用して、ティンベー術と融合させた武術が、ごく一部に伝わっているとかいないとか。
これが琉球武術亜流、ティンベーと非合法スライディングの基本的戦術だ!
▢
なんて、いつまでもはしゃいでる場合じゃないので、余計な騒ぎが起きる前に早く川へ。
悶絶する煮しめ男を建物と建物の間に逆さに突っ込んで、私たちは慌てず、だけど気持ちの上では急いで、墨田川への道を進む。
ちなみにラブの腕とピースの甲羅は、すんなり元通りになった。カッパの構造はどうやらかなりいい加減みたい。
それはいいんだけど、なんか嫌な予感がする。
さっきこっそり煮しめ男の財布から、お金と一緒に抜き取った名刺には
【カッパ保護委員会】
ICチップの壊れたカッパの回収致します。不要になったカッパにも再雇用と社会復帰を!
とか書いてある。
多分だけど、ふたりのICチップが壊れてるのはわかっていて、その上で回収に来たのだと思う。ふたりの今後は正直どうでもいいけど、なんか妙に懐かれてしまったから、また何かあったらどうせ巻き込まれるに決まってる。
そんな予感はやっぱり的中して、私たちの前から大型トラックくらいの高さの白い球体とスーツ姿の黒髪ロング眼鏡が近づいてくる。
絶対さっきの煮しめ男の仲間だ。
「私はカッパ保護委員会の者です。そこのカッパ2匹、おとなしくこっちに来なさい」
白い球体から繋がったマイクを通して、黒髪ロング眼鏡が通達してくる。
さらに私の後ろにいるカッパふたりに目を向け、手に持ったスマホとカッパを何度か見比べて、餌付けのつもりかキュウリを地面に放り投げる。
ラブとピースがキュウリをじーっと眺めるけど、散々こき使われてきたカッパが今更キュウリで釣られるわけがない。
黒髪ロング眼鏡がキュウリをさらに放り投げる。
いや、数の問題じゃないんだよ。カッパはキュウリじゃ釣れないの。
黒髪ロング眼鏡が太めのキュウリを放り投げる。
いや、形が気に入らないとかじゃないの。キュウリじゃ釣れないの。
黒髪ロング眼鏡がキュウリに塩を振って放り投げる。
いや、味がどうとかじゃないの。もうね、キュウリじゃ釣れないの。
黒髪ロング眼鏡がキュウリの下に皿を滑り込ませる。
いや、盛り付け方の問題とかじゃないの。キュウリじゃ釣れないの。
黒髪ロング眼鏡がキュウリを取り出
「馬鹿なの!?」
あわよくば無視しようと思ったけど、ここまで馬鹿だとツッコまずにもいられない。私は思わず黒髪ロング眼鏡に声をかけてしまう。
黒髪でロングで眼鏡でスーツの女が馬鹿ってどういうことだよ。
黒髪ロング眼鏡がつかつかと近づいてきて、私の顔の間近く、至近距離の位置まで眼鏡を寄せてくる。
来るなよ、馬鹿の仲間だと思われるだろ。
「誰が馬鹿だ、ぐるぐる目! テメー、ドコ中だ、こらぁ!」
「小学校中退だ!」
「おいおい、ドコ中ってなんだよ? 食いもんかぁ? フィッシュ&キューカンバーよりうめーのかぁ?」
「中ってことは中毒の中だろ? どこって、どんこ汁のことか?」
私の肩越しにラブとピースも顔を突き出してくる。
やめろやめろ、これ以上馬鹿の人口密度を増やすな。
黒髪ロング眼鏡はプライドが傷ついたのか、ぎりぎりと歯ぎしりしながら手に持ったスマホの画面を、ダダダダダッと音が出そうな勢いでタップして、後ろから歩道を占拠する白い球体のことで文句を言われて、振り返って罵声を浴びせて、通りすがりのおばさんから強烈なビンタを1発2発。
半泣きになりながらスマホを叩き続け、白い球体の表面に直角に曲がり続ける赤いラインが浮かび上がり、白い煙を吐き出しながら、地面から少しだけ浮かび上がる。
「尻子玉メカ、起動……!」
尻子玉メカと呼ばれた白い球体は、大型トラックくらいの高さで、背面になるのかどうかわからないけど、私たちから見て向こう側に4つの白い球体が引っ付いている。その4つの球体から風が吹き出て、浮かんだり進んだりできるみたい。
「ぐるぐるおかっぱ女、この尻子玉メカは私の頭脳の結晶! 仮に戦闘メカコンテストがあったら決勝まで余裕で勝ち上がれるくらいの技術の結晶なのだ!」
尻子玉メカの表面の一部が開いて一瞬光ったかと思うと、車道の上を光の線が走って、向こうの路地に面した店の壁が少しだけ焼け焦げる。
「なんとレーザーもついているのだ!」
黒髪ロング眼鏡が勝ち誇ったようににやりと笑って、私たちに指先を向けて、もう片方の手でスマホの画面をタップした。
ガッシャンガッシャンと尻子玉メカの4つの球体が動き、本体から掃除機のホースみたいなのが出てきて、4つの球体を押し出して手足みたいになる。
尻子玉メカは手足をぶんぶんと振り回して、道路沿いの街路樹をへし折ったり看板を叩き割ったりして、そのパワーを見せつけてくるように動いている。
「しかも変形だって出来る!」
なんで変形したのかわからないけど、あの動きからして仕掛けてくるのはきっと上からのパンチだ。
「いけ、尻子玉メカ! レーザー照射!」
「パンチしろよ!」
慌ててピースの甲羅をひん剥いて、ラブの腕を引っこ抜いて、身を屈めてレーザーに備える。
カッパの甲羅でレーザー防げるか知らないけど、店の壁をちょっと燃やしたくらいだし、そこまでの威力はないと思う。
それに、私には学がないからレーザーがなんなのかわからないけど、刀でも槍でも捌けるのがティンベーだ。
レーザーだって捌ける。
幼い頃から叩きこまれた技術を信じろ!
レーザーは曲がる!
甲羅越しに光と熱を感じて、軌道を曲げるように甲羅を持つ角度を変えて、重心を斜め前へと走らせる。
レーザーは甲羅の表面を滑るように横へと流れ、驚いて隙だらけになった黒髪ロング眼鏡のスマホを、ラブの両腕をヌンチャクのように振り下ろして叩き落す。
これが琉球武術、ティンベーとヌンチャクの科学的戦術だ!
スマホが地面に叩きつけられたと同時に、尻子玉メカもレーザーに驚いたトラックドライバーにぶつけられて、表面に大きな凹みを作りながら道路を転がり、球体の手足を撒き散らしながらコンビニのカッパーマートに突っ込んだ。
「なにやっとんじゃ、おらぁ!」
折れた指を押さえている黒髪ロング眼鏡を、壁を焼かれた店主のおっさんと、看板を割られた店のおばさんと、驚かされたトラック運転手のおじさんが囲んで、ばっちばちに叩いていく。
この世で最も怖いのは、ヒステリックなおばさんとやばい系のおっさんだ。
あいつらは怒らせてはいけない。
女でも容赦なく殴ってくるし、平気で顔とか蹴ってくる。隙あらば前歯だって折ろうとする。
眼鏡が飛んだあたりで、私たちは絡まれただけの無関係で善良な配達員と手伝いのカッパです、って言い訳しながらその場を離れる。
私はよくわからない変人だのメカだのに関わってる場合ではないのだ。
とっとと東京から脱出して、20年食って寝るだけの生活をしてやるんだ!
―――・―――・―――
「なんか無駄に疲れた」
私たちは隅田川から海へと下る船の上で、青く透き通った空を見上げている。
あの後すぐに川沿いに向かって、偶然にも船を整備してた漁師のおじさんと交渉して、ひとり100万円(カッパは手荷物なのでふたりで10万円)で東京湾から旧アクアラインを潜り抜けて、相模湾に入って、熱海とかいう静岡って県の端っこの街まで運んでもらえることになった。
神奈川は東京の隣だからちょっと怪しいけど、静岡まで行けばわざわざ追いかけてくることもないと思う。
という漁師の勘を信用することにした。
どうせ途中で信用できないと思ったら、銃で脅して船を奪っちゃえばいいだけだし。
「そういえばさー、お前らどうすんの?」
操船席の後ろの椅子に腰かけながら、弁当をがっつくラブとピースに聞いてみる。
カッパのこと正直よく知らないけど、やっぱりカッパの国に帰りたいのかなとか、それとも他に行ってみたい場所があるのかなとか、ちょっと聞いてみたくなった。
だって船の上は暇で何もすることがない。しかも小刻みに揺れるから、油断したらゲロ袋が何枚あってもキリが無くなっちゃう。
「わかんねえけど、せっかく自由になったんだからよぉー、今まで出来なかったことしてみてえなぁー」
「出来なかったこと?」
ラブは米の上に乗った白身魚フライを飲み込み、指を折りながら夢を数えていく。
「魚をゲロ吐くくらい腹いっぱい食ってみてえとか、酒と煙草とかしてみてえとか、映画ってのをちゃんと映画館で見たりとか、遊園地ってのも行ってみてえし。でも一番は尻子玉7つ集めてカッパの国を独立国家だなぁー……やっべぇ、そしたら俺、カッパの国の大統領になっちまうのかぁ?」
思ったよりまともな夢を持ってるな、このカッパ。カッパの国が独立できるのか知らないけど。
「俺はこいつみたいに馬鹿じゃないから、ちっちゃくてもいいから自分の家持って、毎日アジフライとか食べて、貧乏なのは仕方ないし諦めるから、せめてきれいな海でも見ながらのんびり暮らしたいなあ」
ピースが米の上に乗ったコロッケを齧りながら淡々と語る。
その夢がカッパの国の独立より現実的なのかわからないけど、ふたりとも結構ちゃんと未来のことを考えてる。
「誰がバカだって、このバカがよぉ!」
「うるせーな、家建てても住まわせてやんねーぞ!」
こらこら、ケンカはやめろ。船が余計に揺れるから。
カッパって生き物は思ったよりもちゃんとしてる。
もし夢カードバトルとかあったら、私の『毎日仕事もしないで朝から晩までダラダラしながら暮らしたい』デッキなんて秒殺できるくらい強そう。
だからって私は自分の未来を変えたりなんてしないけど。
―――・―――・―――
朝8時半、カップ麺すすりながら窓を開けたら、廃墟ギリギリな安宿の前の道路にでっかいマグロが落ちてた。
さすがに港町だけあって、首括ったおっさんよりは良いものが落ちてるなあって感心してると、ギャアギャアと騒がしくカッパがふたり走り回っている。
「あいつら、まだいたんだ……」
こういう騒々しい日は静かに過ごすのが一番だって昔から決まってる。じゃないとバランスが悪いもん。
今まで不幸が多過ぎた分、私は朝から寝て過ごすんだ。
私は部屋の隅でぬるくなった焼酎をマグに注ぎながら、騒々しさを吹き込ませてくる窓をピシャリと閉めた。
メガ恐竜ガール
彼女との出会いは、今はもう取り壊された雑居ビルにあったラウンジ【コビトカバ】だった。俺は厨房と送迎の黒服で、彼女はラウンジ嬢。
彼女は一言で言うと不器用な人だった。
料理も皿洗いもろくに出来なかったし、気の利いた話も出来なかった。簡単な水割りも作れず、指名もまったく取れなくて、いつも周りの嬢たちから虐められていた。
俺も要領が良い方ではなかったから、彼女にはなんとなく親近感を抱いていた。
俺と違うのは、俺は飽き性で諦めも早く何でも長続きしないこと、彼女は頑張り屋で決して諦めないこと。
そんな彼女に恋にするのはあっという間だった。一か月もかからなかったと思う。俺たちはどこの店でも当たり前にあるように、いつしかお互いに恋に落ち、男の女の関係になった。
俺は彼女と、コビトカバで働くティラノサウルスと結ばれた。
「そうして生まれたのがお前なんだよ」
私の目の前に腰かけたお父さんが、ぷかぷかとアメスピをふかしながら煙の輪っかを作り、照れくさそうに、同時に誇らしげに語った。
どうやら私は人間とティラノサウルスのハーフらしい。
私も16年も生きてるから、自分が普通の人間じゃないことは薄々勘付いてたけど、まさか母親がティラノサウルスだなんて思うわけがないし、父親がティラノサウルスとヤったなんて、そんな馬鹿な話があるとは考えもしないわけよ。
「リアルでドラゴンカーセックスを超えるな! この変態クソ親父!」
「ひどい! 父さんも真剣に母さんとまぐわったのに!」
「うるさい! 馬鹿! 変態! ネットミーム以下!」
「うわあぁぁぁぁぁぁ!!!!」
思いのほか傷ついて泣き喚く父を置いて、私は町へと飛び出した。
16歳の少女は、やり場のない怒りを感じた時に町へと飛び出すものなのだ。だって16歳だから。
私は山田ティラノ、つい先日16歳になったばかり。好きな食べ物は牛肉と豚肉と鶏肉。好きな飲み物は肉汁デミグラスソース。
高校はワケあって初日で退学になって、バイトも15連敗で落ちたから、今はお父さんのやってるガールズバー【ステテコサウルス】で働いてる。
ちなみに友達はいません!
そう、私が高校退学になったのも、友達がいないのも、バイトの面接15連敗なのも、すべては私の出生に理由がある。
生まれた時から普通の子と少し違った。なぜか恐竜とパーカーを合わせたみたいな長袖を着て産まれて、しかも首と肩のところで骨と繋がってるから脱ぐことも出来ず、小中学校ではずっと恐竜ちゃんとかコスプレ女とか年中ハロウィン気取りとか言われながら育ち、事あるごとに先生から脱ぐように怒られて、そんな感じで周りに一切なじめずに現在に至る。
今までずっとお父さんに聞いてもはぐらかされてきたので、16歳になって今日こそは答えてもらうぞって迫ったら、とんでもないド変態な性癖カミングアウトをされちゃったわけ。
お父さんは昔から周りの、背中や腕にラクガキの多い系のお友達に、山田さんでも名前のビッグマン、あ、お父さんは大男って書いてビッグマンって読むウルトラくそ馬鹿キラキラネームで、ビッグな男になるんだって背中にアメリカの大統領の顔が描いてあるような、だいぶ馬鹿なタイプのお父さんなんだけど、名前のビッグマンでもなく、なぜか勇者って呼ばれてたけど、その理由も今日察しちゃったよ。
あれ尊敬じゃなくていじられてたんだね。
勇者(笑)とか勇者(性)みたいな。
なんか最悪だなーって気分で、公園の子どもがまたがって遊ぶやつの恐竜っぽいゆらゆらに座って煙草を吸ってると――あ、言われなくても煙草は20歳過ぎてからって法律は知ってるよ。でも、父親が半グレで、その娘は中卒で、母親はティラノサウルスなんだから煙草くらい見逃して欲しい。中学の時から吸ってるけど――とにかくタバコを吸ってたら、向かいのベンチで鬱だわーって顔をしたお姉さんが煙草を吸ってたので、公園はきっと最悪と鬱が集まってくる場所なんだな、鳩とかじゃなくて、って思ったりした。
って、ベンチの鬱お姉さん、ステテコサウルスで働いてる人だ。
確か名前は、酒田すごいも。ヘビースモーカーで大酒飲みで、いわゆる自称サバサバ系のサバ女だ。名前は芋だけど。
「あれ? 山田さんじゃん、何してんの?」
「すごいもさんこそ、なにやってんすか?」
すごいもさんは一瞬なにか考えながら、目玉を上にずずずいって向けて、すぐに目線を落としてゆっくりと煙草の煙を吐き出して、うあぁぁぁって唸り声みたいなのをこぼしている。
なにかすごい悩みがあるみたいだけど、私は私でどうしていいかわからない悩みがある。みんな悩みがあるんだなー、公園はきっと悩める女が集まるんだな、野良猫とかじゃなくて。
まあ、悩みをカミングアウトされても困るんだけど。すごいもさんのこと、よく知らないし。
「実はさあ、ちょっと困ってんだよね」
いや、悩み早速きた。やめて、私は悩みに答える余裕なんてないの。
だって母親ティラノサウルスだぞ。
「先月まで働いてたカストリとシケモクって覚えてる?」
覚えてるもなにも、私が働きだしたの今月からなんだけど。あと、なにそのヤングキングの紙面にしかいなさそうな名前。
「あいつら問題起こしまくって系列店に移籍したんだけど、なんか私のせいにしてるっぽいんだよね」
ステテコサウルスなんてふざけた名前のガールズバーに系列店とかあったんだ。
「鬼飯田(オニパンダ)がぶがぶって人が店長やってる、モサモササウルスってノーパンパブなんだけどね」
店長が苗字が鬼パンダで、名前がガブガブで、店名がモサモササウルスで、ジャンルが半裸って、この辺には馬鹿しか住んでないのかな。
「鬼飯田さんに呼び出されてんだよね。マジ、ウゼー……」
「シカトしとけば?」
「そんなわけにもいかないの。うちの店長、鬼飯田さんに頭が上がらないし、鬼飯田さん店にもよく顔出してくるし」
洗濯機から出したばかりの毛布くらいじめっとうなだれてたすごいもさんが、パーラメントを肺の奥までゆっくりと吸いこんで、ふひゅーって長く吐き出して、よし、と一言呟いた。
「山田さん、パーラメント1ダースあげるから、私とここで会ったの黙っててね」
「いいですけど?」
「絶対言わないでね。もし店長や鬼飯田さんに聞かれたら、モサモササウルスに向かってるって答えといて」
鞄の中から出てきた大量のパーラメントを押し付けて、そのまますごいもさんは走り去っていった。
どうやら逃げることにしたっぽい。うん、それが正解。馬鹿な揉め事に巻き込まれるくらいなら、どこか遠くの町に飛んだ方が全然マシ。
逃げるが勝ちなんて、幼稚園児でも知ってる。
逃げれなかったら? その時は戦うか命乞いするかのどっちかだよ。この町の治安、控えめにいってうんこだから。
公園で黄昏れるのも飽きたしお腹も減ったから、じゃあちょっと駅前のガストでハンバーグでも食うかって向かってると、路地を変な二人組が歩いていた。
ひとりは外国人格闘家みたいな背丈と肉付きのバカでかい上下真っ黒な服の女、もうひとりは目がヤク中みたいに異常にキマッテる右手に鉄パイプを巻きつけているジャージの女。
ああいうのとは目を合わせちゃいけないし同じ歩道も歩いちゃいけない、っていうのがこの町の常識だ。
そそくさと通りに面した煙草屋に避難すると、閉まる自動ドアの向こうから漂ってくる腐った魚みたいな臭いと、それを掻き消すような店内に充満した煙草の香り。
「いらっしゃいませー」
「シガローネちょうだい、ロイヤルスリム・ブラック」
シガローネは私の愛用の煙草だ。高いけどうまい。高いからあんまりパカパカ吸えないので健康によい。
「お嬢ちゃん、何歳?」
「16っす」
「1040円になりまーす」
特に意味のない年齢確認をして、シガローネを鞄に突っ込んで通りに戻ると、さっきの二人組が猛烈な勢いで誰かに絡んでいた。ああいうのと同じ道を歩いていると、ああいう目に遭う。
『裏路地を歩く時は、酔っ払いと狂犬に気をつけなさい』
『人気の少ない道は避けて、大通りを歩きましょう』
『注意1秒、後遺症一生』
電信柱に貼ってある交通安全のポスターにもそう書いてある。
「こらこら、お前たち。一般人に絡むんじゃありません」
絡まれていた人が土下座を始めたあたりで、もう長袖の季節なのに上半身タンクトップで、手首にまでびっしりと鬼と熊のラクガキが描かれた、目の隈がマジックで線引いたくらい黒いスキンヘッドの男が、二人組のところまで歩いて行って、なにやら二言三言交わして場を収めた。
「そこの恐竜パーカーのお嬢ちゃん、君、ビッグマンくんの娘だろ?」
うわぁ、お父さんの知り合いかよ。こんな物騒なのと知り合いになるなよ、知り合っても縁切ってよ。
「僕はお父さんのお友達で鬼飯田ってもんだけどね」
「はぁ、お世話になってます」
どうやらこの季節外れ鬼熊タトゥーハゲが、すごいもさんの話していた鬼パンダって人らしい。
面倒事は嫌なので素直に頭を少し下げて挨拶すると、二人組が礼儀がどうとかギャンギャン吠えている。頭の悪いブルドッグと目つきの悪いチワワが
絡んできたら、多分こんな感じなんだろうな。
「お前たち、やめなさい。でだね、お嬢ちゃん。ビッグマンくんのお店で酒田さんって人が働いてるんだけど、知ってる?」
「はい、ちょっとだけ。モサモササウルスに行くって言ってましたよ」
嘘は言ってない。
確かにモサモササウルスに向かってるって言ってたから。
言ってただけで、実際に行くわけじゃないけど。
「お前ら、やっぱり店に来るって言ってるじゃねーか! サボってないで、とっとと店に行け!」
「そんな小娘の言うこと信じるんすか?」
「頭バグってんじゃないっすか?」
鬼パンダに尻を蹴られながら、駅と反対方向に歩いていく二人組を見送って、私は私でガストに行ってハンバーグを食べた。
私の言葉を100パーセント信じたとも思えないけど、あいつらが店で待ってる間に電車でもバスでも車でもなんでも、とにかくどこか遠くへ飛べたならラッキーだ。
そう考えると、今日はいいことをしたなって気持ちにちょっとだけなったので、ハンバーグに和風ハンバーグも追加した。
肉に肉を足すなって? 関西人だってうどんにご飯を追加するって聞いたよ、関西人に謝れ。
すごいもさんが店の前で転がされていたのは、それから数時間後の夕方のことだ。
お父さんに事情を聴いたら、昼間の二人組、大きい方がカストリ、目がやばい方がシケモク、その二人と揉めてたすごいもさんは駅前で鬼パンダに見つかって、モサモササウルスに連れていかれて、
「お前らタイマンしたらいいじゃねえか。場所用意してやったから」
と殴り合いの決闘をさせられて、約5分間の殴り合いの結果、鼻とあばらを折られてしまった、ってことらしい。
「で、お父さんはどうするの?」
お父さんはさっきからソファーに腰かけたまま、ずーっと真面目な顔をして腕を組んでいる。考えるふりだ。
お父さんは困った時は、とりあえず考えるふりをする。考えてるふりをして時間を潰して、周りの誰かが意見を言ったら、今そう言おうと思ってた、とか言って自分の手柄にしようとする。
そして今まさに、その考えるふりをして、誰かの意見を待ってる。
昔の人は指示待ち人間だ、とかよく言われてたらしいけど、お父さんは指示待ちどころか、なにもかも待つ。
「病院に運んだら警察沙汰になるし、どうしようかな」
ようやく何か喋ったと思ったら、こんなわんこの餌にもならないような言葉だから、店中のみんなが呆れてしまって、
「いや、普通に病院連れてって警察に被害届だしたらいいでしょ」
「店が守ってくれないんだったら、私たち全員今すぐ辞めますよ」
「とりあえず店長、今日から勇者じゃなくてゴミクズって呼んでいいっすか?」
「おい、ロダンのモノマネ。ちょっとペプシ買ってこいや」
って罵倒されながら吊し上げられてる。なんだったら、脛とかちょっと蹴られたりしてる。
お父さんが言うには、鬼パンダは同じ半グレグループの先輩で、ステテコサウルスも鬼パンダに任されて店長になった。
しかも仮にも半グレなので、警察に探られたら痛いところがいっぱいあって、これまでの数々の悪事であるとか店の売り上げ誤魔化してるとか、脱税してるとか、深めに酔っぱらってる人から多めにお金取ってたとか、近所の酒屋で売ってる安酒を高いお酒の空き瓶に移し替えて騙してたとか。
全部自業自得だけど、とにかく警察は困る、の一点張りだ。
「お父さんさあ、少しはしっかりしてよ。大人なんでしょ」
「子どもは黙ってなさい!」
お父さんが珍しく怒鳴り声をあげる。これは相当テンパってる証拠だ。お父さんはテンパると声が大きくなる、肝は反対にガンガン小さくなって、最後は丸めたハナクソくらいになるけど。
「ゴミクズ、サイテー」
「娘に八つ当たりとかマジだせえ」
「生まれ変わってもう1回シネ」
「おめーがモサモササウルス行ってこいよ」
みんなからの株価も急降下してる。グラフにしたらサスペンスドラマの崖、そんな感じになると思う。
「とにかく! 父さんは警察にもモサモササウルスにも行かないから!」
「わかったよ! 私が代わりに行ってくるから、お父さんはそこで一生ケツ穴ミニマリストやってればいいよ!」
そう啖呵を切って、私はパーラメントと闘志に火をつけて、モサモササウルスに乗り込んだのだ。
別に恩があるわけでも義理があるわけでもない。でも貰った煙草の代金分くらいは返しをしてもいいわけで。
モサモササウルスは商店街のアーケードから2つ3つ奥の路地の一角にあって、ファンシー雑貨店・風俗店・焼肉屋・焼肉屋・地下格闘技場・フィリピンパブ・アニメ専門店、っていう酔っ払いが二日酔いのところにストロングゼロ流し込んで作ったような並びの、地下格のある雑居ビルの3階に店を構えている。
ちなみに1階は花屋、2階はぼったくりバー、4階は半グレの事務所。ピンポイントでも二日酔いな作り。
私はフードを目深に被って、3階に上がり、店のドアをノックする。
「ステテコサウルスの山田ですけど」
返事はない。だけど、中に人がいる気配は感じる。耳を澄ませば物音も聞こえてくるし、その物音が近づいてくる足音だというのもわかる。
私はドアに足をかけて、ぐっと力を込めて蹴り開けた。
正面から殴るように力のかかったドアは、ぐるんと2回転3回転しながら店の中を転がり、グラスや酒を薙ぎ倒していく。
「なんだぁ、おめーは!」
ドアに近づいてきてたカストリが怒鳴り声で尋ねてくる。カストリの頬からはすーっと血が垂れていて、飛んできたドアで切ったらしい。
「ステテコサウルスの山田ティラノです。おめーらをボコしに来ました」
そう告げる私の真横から、シケモクの鉄パイプが襲いかかってきた。
私は普段喧嘩とかしない。理由は簡単、シンプルによくないから。それと不公平だから。
人間には性別の差があるし、体重の差があるし、生まれ持った運動神経とかパワーにも差がある。
さらに生物にはもっと差があって、人間は素手ではヒグマやライオンには勝てない。ゾウにはもっと勝てないし、仮に大暴れするゾウに向かって金属バットを振り回しても、誰も卑怯とは言わないと思う。
それくらい生き物には大なり小なり、けれども絶対的な差がある。
その差を使って弱い相手にイキリ倒すような人間は、正直ゴミクズだと思う。
自分はそうはなりたくないから、無駄なケンカはしないって決めてる。
でも相手がそういう差を使って大上段からぶん殴るような相手だったら、その時は容赦しないとも決めてる。
だから武器でも人数でも好きに使って抵抗したらいい。
ナイフでも銃でも好きに持ってきたらいい。
私とお前たちにはそれくらい全然許されるような差があるし、鉄パイプ持ったくらいだと1ミリくらいしか差は埋まらない。
モサモササウルスの店内に入って5秒足らず、カストリは窓枠ごと壁を突き破り、何メートルも向こうの路地へと飛び出して、シケモクは真っ二つに割れた床に頭から突き刺さって、下の階のぼったくりバーでバウンドして酒瓶を片っ端から粉砕した。
繰り返し言うけど私は普段喧嘩とかしない。なぜなら、とっても不公平だから。
不公平は嫌いだ。不公平は嫌な気持ちになる。脱げない恐竜パーカーでさんざん苦労したからわかる。バイトの面接もたくさん落ちると死にたい気持ちになるし、高校だって通えないとわかると悲しくてたまらない。
そんな不公平を利用して、自分より弱い相手を殴るなんて最低な行為だ。
「助けてくぶへぇっ!」
「ごめんなさぶふぁっ!」
「許して下さびゃはぁっ!」
私は店内にいた黒服たちと、上から降りてきた全身ラクガキだらけの連中も、片っ端から横面張り回して、次々とテーブルごと、椅子ごと、壁ごと、床ごと、天井ごと、ことごとく店の外へと放り出した。
店の奥から滝のような汗を流しながら、日本刀を手に持った鬼パンダが、うわぁぁと叫びながら私に向かってくる。
ワンチャン、刀なら私を斬れるかもしれないと判断したらしい。でもその判断、子犬くらい甘いんだよね。
私はパーカーの袖を掴んで引っ張りながら腕を振り回して、日本刀をパキンと叩き折る。
生まれた時から着てる恐竜パーカーは、成長するに従って表面が段々と硬く強くなり、中学生の頃にはワイヤーを何重にも編み込んだような質感になった。さらに表面は小石みたいな、めちゃくちゃ細かい鉄板みたいな鱗がびっしりと生えてきて、1回試しにお父さんの持ってたドスで突いてみたけど、先端がボロボロに欠けただけで全然平気だった。
この頑丈さだけは、まだ顔も知らない上にティラノサウルスなお母さんに感謝してる。
がじゅっ。
掴んで来ようとする鬼パンダの手を齧り、ぺっと骨と肉片を吐き出す。
多分お母さんがティラノサウルスだからだけど、昔から歯は頑丈だし、物を噛むのは余裕だった。硬い牛筋やあずきバーも全然余裕だし、骨付き肉もおっとっと感覚でいけた。
本気を出せば人間の肉と骨くらい楽勝だ。
親指と人差し指を残して食いちぎられた指3本分の断面を無様に晒しながら、鬼パンダが噴き出る血を撒き散らして、どたばたと床を転がりながら踊ってる。
私は鬼パンダの首を掴んで持ち上げて、あばばあばばと壊れた笛みたいな音を漏らすだけの顔を覗き込んだ。
物心ついた頃から、ずーっと思ってた。
人間は殴るには軽すぎる。
本気で殴るには脆すぎる。
恐竜と戦うには弱すぎる。
「二度と私らの前に顔出すなよ。あと今すぐこの町……この地方から出て行け、めざわりだから」
私は鬼パンダの首根っこを掴んで、警告の言葉を耳元で囁いて、そのまま窓の外に落とした。
シガローネを1本咥えて、しゅぼっと火をつけて、胸いっぱいに涼しく甘い煙を吸い込んで、今日は最低だけど存外悪くない仕事をしたなあ、なんて考えたりした。
モサモササウルスのあったビルは3階から上はほとんどの壁が無くなって、2階より下も半分以上崩れ落ちて、剥き出しの鉄骨が墓標みたいに突き立っている。
さすがにちょっとやり過ぎた。ビル壊して少年院に入った人とかいるのか知らないけど、私もそういうところに入れられたりするのかな……?
「ティラノちゃん! え、なにが起きたの、これ?」
金属バットを抱えて走ってきたお父さんが、崩壊寸前の雑居ビルだったものを見上げて、私の顔を見下ろして、何度も交互に目線を向けたり外したりして、足はずっと小刻みに震えてて、なんだか安物のおもちゃみたいな動きをしている。
「えーと、まあ色々だよ」
「色々でビルって壊れたりするもんなの? 米軍とか来た?」
いや、米軍は来ないでしょ。戦争じゃないんだから。
そんなことより、お父さんが抱えてる金属バットだ。もしかして鬼パンダとやるつもりで来たのかな。
「お父さん、なんでバット持ってるの?」
「これはアレだよ。出てきたところをひとりずつ物陰からぶん殴って倒そう作戦だよ、賢いだろ。父さん、必死に考えてきたんだから」
私はふひひって笑いながら、地面に転がってる鬼パンダや黒服たちを指指して、もう倒す相手が残っていないことを教えてあげる。
「うわ、鬼飯田さん! なにこれ、生きてんの!?」
お父さんが鬼パンダをバットの先でツンツン突いて、かろうじて息があるのを確認して、ほっと安心の溜息を吐く。
「金属バットで殴ろうとしてたのに、生きてるか心配するの?」
「おかしいかな?」
「うん、馬鹿みたい!」
私は再び笑いながら、お父さんの腕にしがみついた。
「今日は焼き肉が食べたい!」
数日後、私とお父さんは車に乗って、山奥へと向かっていた。
ちなみに防犯カメラには私が雑居ビルに入るところが映ってたものの、ちょうど同時刻に地下格でイベントがあったのと、そもそも爆弾でも使わないとこんな破壊は出来ないと結論づけられて、未成年がうろうろしないように、あと煙草は20歳になってから、と簡単な注意を受けるだけで済んだ。
鬼パンダたちはまとめて入院して、治療が終わったら色々な罪の容疑で取り調べを受けて、おそらく当分はシャバの空気も煙草も吸えないことになると思う。
そんなわけで半グレグループは壊滅して、お父さんはしばらく身を隠す意味でも旅行することにして、お母さんが暮らしている山奥の恐竜マニアの私有地【奥日光ジュラシックパーク】に向かっているというわけ。
そこでは秘密裏にティラノサウルスや他の恐竜が飼育されている、らしいけど、世の中には変な場所も変な人もいるもんだ。
私もそこにカテゴライズされるんだけど。
「はい、着いたよ」
「……酔った……吐きそう……」
「山道だったからねー」
私は気持ち悪さを隠すためにペットボトルの水で何度も口をゆすいで、すごいもさんから貰ったパーラメントをぷかぷかと吹かし続ける。
空は青空、山は紅葉、切り開かれた草原には闊歩する恐竜の姿。
しかし、今更だけど、母親が恐竜って実感ないなあ。こんな体質に生まれてなかったら絶対信じてないし、お父さんを精神科に入院させてる。
それくらい現実感がない。
「ほら、ティラノちゃん! こっちこっち、お母さんだよ!」
お父さんが手招きする先には、まさに映画やゲームで見た通りのティラノサウルスが歩いていて、久しぶりに会うお父さんに一切気付かずに、高揚してはしゃいでいたお父さんを頭からバクリと噛みついて、そのままムシャムシャと噛み潰して飲み込んだ。
「あ……」
山田大男(山田ビッグマン)、享年40歳。好きな煙草はアメリカンスピリット、背中のタトゥーは歴代アメリカ大統領。
戒名は恐竜院殿合体結合大勇者。
私はなんとなくティラノサウルスに向かって手を合わせて、シガローネを1本ゆっくりと吸って、しょうがないから走って帰った。
大丈夫、私は時速50キロで走れるから。東京まで4時間ちょっとかかったけど。
それからステテコサウルスのアルバイト兼店長代理としてお店を継いで、今日も今日とて働いてる。
今日は新人さんの面接の日。
私には人の良し悪しもさっぱりわからないし、どこでなにを判断すればいいかもわからないので、まだ怪我が治ってないすごいもさんに無理言って出てきてもらった。
「すごいもさん、面接ってなに聞けばいいの?」
「いや、私も知らないって。こちとら19よ、納税の仕方もわからんってのに」
「それ言ったら私なんて16だから」
なんて役割を押し付け合っていると、ドアがガチャリと開いて、恐竜のパーカーを着た背の高い女子が入ってきた。
「よろしくお願いします、草野ブラキオ、18歳です。恐竜と人間のハーフでも働けるって聞いてきました」
私は唖然としながら、目の前の恐竜ガールと履歴書を交互に見比べて、無意識にシガローネを咥えて火をつけたのだった。
ギガ恐竜ガール
産みのお母さんのことは正直よく覚えてないけど、とても気の強い人だったことは覚えてる。
口より先に手が出るし、考えるより先に行動する、そんな江戸っ子野郎を絵に描いたような人だった。
そして恋多き人だった。
それが母、三角真理愛。
故人、享年26歳。
あだ名はブラックホール聖母。
シングルマザーだった母は、店で知り合った男とだいたい15分くらいで恋に落ちて、だいたい1時間くらいで付き合って、だいたい日付が変わる前に家に連れ込んだ。
家に連れてきた男の中には優柔不断な男もいて、当時は意味がよく分からなかったけど、
「あたしは押しの強い野郎としか寝ないんだよ!」
って言っていたのを薄ぼんやりだけど覚えてる。
そして押しの強さを求めるあまり、酔っぱらってバイクでダンプカーに正面衝突して死んだらしい。
「押しの強い男がタイプなのは知ってたけど、トリケラトプスとヤッたって聞いた時は、こいつなに言ってんだろ馬鹿なの、って思ったね」
そう呆れ顔で語ってくれたのは安奈さん。お母さんの従姉弟で、6歳の頃からお世話になってる定食屋【イグアノ丼】の一人娘。苗字は二本柳。育ての娘の苗字は三角。数字が渋滞してるから、計算の弱い子だったら怖くて泣いてると思う。
私は計算強いけど。九九も出来るし。7×6は39。ほら、出来てる。
そんなことより、
「トリケラトプスってなに? 恐竜?」
「そうだよ、恐竜。図鑑で見たことあるでしょ、角が3つあるやつ。私もこいつとヤッたって聞かされた時は、どういう発想でそうなるんだよって思ったけど、あいつらしいなーって思ったよ」
安奈さんは私に嘘をついたことがない。1回もない。どんなに自分が不利なことでも絶対に嘘はつかない。それが育ての親のキョウジだって言ってた。キョウジの意味はわかんないけど、多分昔の家にある横開きのドアかなにかだ。
だからトリケラトプスのことは本当だと思うし、安奈さんが言うんだから実際そうなんだと思う。
「え? なに? 人間ってトリケラトプスのアレが入るの?」
「アレだなんて、あんたも大きくなったねえ」
「しみじみ関心しないで!」
こうして16歳の誕生日、私は顔も見たことのない父親のことを教えられたのだった。
そしてなんでブラックホールなんてあだ名なのかも察した。なるほど、なんでも穴に入るからか。やかましい。
私は三角トリケラ、今日16歳になった高校1年生。
好きな食べ物はチンジャオロースとジャーマンポテト。好きな飲み物はスープカレー。トリケラトプスは草食の恐竜だったとはずだけど、半分人間だから普通にお肉も好きだ。お野菜も好きだし、お菓子もスイーツも好き。
お酒も煙草も変なお薬もやってないし、いたって普通のマジメな女子だと思う。
でも私は普通の子と少し違った。なぜか恐竜とパーカーを合わせたみたいな長袖を着て産まれて、しかも頭の天辺と肩のところで骨と繋がってるから脱ぐことも出来ず、頭の部分からはトリケラトプスみたいな3本の角が生えてる。
おかげで義務教育はクリアーできても、制服指定の高校には入れず、この田舎町で唯一私服でも通える定時制高校に通う羽目になった。
「全日コース行けるような成績じゃなかったし、定時制で頑張りな」
安奈さんはそう笑いながら、私に小学生向けの計算ドリルを渡して、せめて九九は覚えなさいって言ってきたのを覚えてる。
ちなみに私は九九は出来るし、8の段も当然ヨユーだし、ドリルは15点だった。
ちがうの、歴史は得意だから。大山倍達は牛を倒した人だって知ってる。ウィリー・ウィリアムスは熊と戦ったし、加藤清正は虎退治の人。ほらね、日本史は得意だもん。
話は戻って私は16歳になった。そして今日は高校最初の登校日だ。
「そういうわけで、今日から学校が始まるから。授業は17時だから遅刻しないようにね」
「17時って何時?」
「ごーじー」
夕方5時。よし、ちゃんと覚えた。
現在お昼の1時。5時間もあるから余裕だね。
私は高校生活初日に備えて、布団に寝転がって、アラームを5時間後にセットしたのだった。
・・・・・・Zzz
「おーい、バカ娘ー? 遅刻確定だよー」
「んえー? 今何時ー?」
「ろーくーじー」
そんな馬鹿な、5時に起きる予定だったのに。……あ、5時に起きても間に合わないや。
やばいやばいやばいやばい! 私は慌てて飛び起きて、パーカーからはみ出てる寝癖を急いで直して、着の身着のままで家を飛び出した。
こうして16歳の誕生日兼高校生活初日、私は余裕たっぷりに寝過ごして、思い切り遅刻したのだった。
「思い切り初日から寝坊しました、三角トリケラです! 特技は三転倒立です!」
教室に飛び込んで勢いのまま自己紹介して、3本の角を床に突き刺して逆立ちして、盛大に滑ったまま授業終了のチャイムが鳴り響いた。
きーんこーんかーんこーん
学校生活終わりの音のように聞こえた。
「トリケラちゃん、そのパーカーかわいいね」
「君、イグアノ丼で働いてるよね。前に看板背負って店の前をうろうろしてるの見たことあるよ」
「その角のところ、どうなってるの? うわっ、硬ぁ!」
しかし学校生活は終わってなくて、初日からの遅刻、愉快な格好、変な自己紹介の3つが奇跡的に重なり合って、私は注目の的になっていた。
やはりかわいいは正義。
色々不便なこともあるトリケラパーカーだけど、今日ばかりは愉快でかわいいパーカーと146センチの小動物サイズ、そこそこまあまあな、適当に10人集めたら上から2番目くらいの顔面に感謝だ。
「えー、次は今から言う動物を英語に訳してください。じゃあ、三角さん」
「はーい」
英語の先生は蛇崩先生っていう、あんまりやる気はなさそうだけど良い人っぽい先生。
「牛」
「food」
「豚」
「food」
「鶏」
「food」
このくらいの英語楽勝だ。私は定食屋の娘ですよー。こんなレベル、ちょちょいのちょいですよ。
「三角さん、今は英語の授業だからね。トンチの授業じゃないよ」
「ふぇー?」
やばい、授業難しい。定時制だからって正直なめてた。
いや、得意なのは日本史だから。雷電は相撲の強い人、講道館四天王は西郷・横山・山下・富田、ほら完璧。
「まあ、ゆっくり覚えてくれたらいいから。牛はカウ、豚はピッグ、鶏はチキン」
買う? まあたまには牛肉も買うけど。
「えー、じゃあ次は……」
それにしても授業って、なんでこんなにねむ……い……
……んこー……んこーん……こーんかーんこーん
「トリケラちゃん、授業終わったよ」
「ふえ? 英語終わった?」
「英語っていうか、全部」
ぜんぶ? ぜんぶってなに?
隣の席のお姉さんに起こされて時計を見上げると、時刻は夜の9時半。学校は夕方5時から夜9時半まで、遅刻したから今日は6時半からだったけど。
6時半に滑って、7時に英語間違えて、3限4限も全部寝てた!
「もしかして私は馬鹿なのか……?」
「トリケラちゃん、帰るよー」
そして今、隣の席のお姉さんに首根っこ掴まれて学校を出てる。学校初日の感想、もし聞かれたら、よく寝た、って答えよう。
「学校どうだったー? あんたのことだから、どーせ寝てたんでしょー」
「いや、ちゃんと起きてたよ。授業の内容も余裕だし、友達もいっぱい出来たし、あと、えーと」
友達がいっぱい出来たのはほんとだ。パーカー効果で一躍人気者になったのは事実。みんなの名前、ひとりも覚えてないけど。
「まあ、私も高校生の頃は授業中よく寝てたし、息してるだけで眠い年頃よ」
安奈さんはそう言って、缶ビールを開けてニヤニヤと笑った。
まったく何がそんなにおかしいんだか。
それからお風呂に入って、1日の疲れをゆっくりと洗い流したのだった。
今日はほとんど寝てたけど。
1週間後――
1週間もすると高校にも慣れてきて、周りもすっかりトリケラパーカーになれたのか、私への風当たりも普通だ。挨拶もするし会話もあるし仲も悪くないけど、興味津々で角を触ってきたりとかそういうのは収まった。
定時制は退学率がえぐいっていうのは噂で聞いてたけど、初日にいた人たちの中で3人くらいは3日で見かけなくなったし、結構な割合がちょくちょく休んだりするので、なるほどこういうことかって納得したりした。
みんな昼間はバイトしたり仕事したりで働いてるから、その後で学校行くのだるいよねって気持ちはわかる。
私も毎日お店の手伝いしてから来てるので、正直ちょっとめんどくさい。
「お、三角さん、今日は遅刻してないな。えらいぞー」
蛇崩先生は基本的にやる気はないので、休みが多くても一切気に留めない。でも遅刻にはちょっとうるさい。
「トリケラちゃん、おはよう」
「おはよー」
花井ちゃんは元ひきこもりの17歳。でも毎日学校きてるからえらいと思う。
「ふぁー、ねむたー」
木部さんは隣の席のお姉さんで23歳。昼間はお弁当工場で働いてる。えらい。
「やべえ、もう疲れた」
草加さんは38歳のおじさん。昼間は道路工事をしてて、いつも腰が痛いって言ってる。超えらい。
「おはよー……うわ、いってぇ!」
歩きスマホしながら机で股間を打ったのは一ヶ森くん。18歳で映画好き。歩きスマホはよくないから、えらくない。
私が馴染んでるのはだいたいこの4人。そして馴染めない感じの、いわゆるガラが悪い人たちは遅刻してくるか休むか、とっとと辞めていくかのどれか。
つまり割と平和。世の中は平和が一番。
しかし平和というのは唐突に破られるものだ。
「おい、カストリ。なんで今さら高校なんて行かなきゃならねーんだよ?」
「やかましいのう、シケモク。今時は反グレにも学がいるって言われたろうが、ボケが」
教室にヤングチャンピオンの紙面にしかいなさそうな名前の二人組が入ってくる。
ひとりは外国人格闘家みたいな背丈と肉付きのバカでかい上下真っ黒な服の女でカストリって呼ばれてる方、もうひとりは瞳孔がバキバキに開いてて異常に目つきの悪いジャージの女でシケモクってあだ名らしい。
「えーと、君たち名前は?」
絶対日常生活で関わったら駄目そうな見た目なのに、蛇崩先生が平然と話しかけてくる。
「美しが丘」
「平和島」
カストリとシケモクがぶっきらぼうに答える。ヤバい、名前と外見が1ミリも一致してない。
「なに見てんだ、そこのくそださパーカー!」
「あたしらはのう、警察と恐竜が世界で一番嫌いなんだよ。今すぐ脱げや!」
名前と外見が1ミリも一致してないなーって眺めてたら、猛烈な勢いで絡んできた。しかもパーカーが相当気に入らないみたいで、無理矢理脱がそうと掴みかかってくる。
いや、脱げるんだったら今すぐ脱いで、普通に制服着てたいんだけど。
「聞いてんのか、恐竜チビ!」
私は平和主義者だから胸倉掴まれるのは許す。角を引っ張るのもまあ許す。だけど、
「黙ってないでなんか言えよ、コスプレ女!」
蹴りは流石にダメだよね。
シケモクが右足にローキックを放った瞬間、悪魔みたいな目がふたつ乗っかってる顔に右ストレートを打ち込み、そのまま窓ガラスを突き破ってグラウンドを水平に滑空して、駐輪場に停めてあった自転車に激突させた。
右腕を引きながら左腕をぶん回して、殴りかかろうとするカストリの頬にフックを一閃。窓ガラスを突き破って、グラウンドを3回4回バウンドして、ぐにゃんと地面に顔から倒れた。
私は平和主義者だから喧嘩とかしないけど、今まで一度も負けたことがない。
半分恐竜だからかもしれないけど、146センチの体格のわりに運動は得意な方だ。100メートルは11秒フラット、握力は測ったことないけどカボチャくらいなら素手でも砕ける。溝にはまったトラックくらいならひとりで救出できる。
そう、私はこう見えても結構強いのだ。
だから悪口や胸倉掴まれるくらいは我慢しなさいって教え込まれてる。
でも蹴りはダメだと思うの。他人を足蹴にするのは、同じ人間と思ってない行為だからダメ。
部活動でグラウンドを使ってた全日制の生徒たちが一斉にこっちに目を向ける。
教室のみんなも、唖然とした表情でこっちを見てる。
「さー、今日も勉強がんばるー」
変な流れを変えようと取ってつけたように教科書を開く私に、
「三角さん、とりあえず停学ね」
「えぇー?」
蛇崩先生の無慈悲な宣告が投げかけられたのだった。
2週間後――
「トリケラちゃん、ひさしぶりー」
「ひさしぶりー」
2週間ぶりの教室では、木部さんが手をヒラヒラ振りながら出迎えてくれる。
そう、私は2週間の停学処分となり、安奈さんにちょっとだけお説教されて、朝から夕方まで店の手伝い、夜はみっちり勉強の日々を送っていた。
おかげで今日もくたくただ。
「三角さん、おはよー」
一ヶ森くんが前の席に座って、スマホの画面を見せてくる。
画面には動画配信サイト・ヤーチューブが映っていて、どこかで見覚えのある教室で、どこかで見覚えのある角の生えたパーカーを着た女の子が、どこかで見覚えのあるガラの悪い二人組をぶん殴って、窓の外にぶっ飛ばしている映像が映っている。なぜか3000回くらい再生されているみたい。
「これって、もしかして私?」
「そう! この間やべー奴らが来て、やべーことになりそうだったから、念のため動画に撮ってみたんだけど、すげー面白いことになったから、試しにアップしてみたら2週間でこれだよ!」
一ヶ森くんが勝手にテンションを上げているけど、勝手に動画をアップしないで欲しい。
「そういうわけで、三角さん。文化祭に出す映画を撮ろうと思うんだよね」
「へー、一ヶ森くん、映画とか好きだもんね」
一ヶ森くんは映画が好きで、しょっちゅうスマホで映画やヤーチューブの動画を見ている。そしてしょっちゅう教室で机や椅子にぶつかるくらい集中している。それくらい映画が好きみたい。
で、それと私になんの関係が?
「三角さん、映画に出てくれない!?」
「はぁ?」
なぜに? いや、ほんとになんで?
一ヶ森くんが言うには、私の例の動画がヤーチューブで結構バズって、『どうやって撮ったの?』とか『アクション映画かよ』ってコメントが比較的多かったらしい。
あとこれはよくわかんないけど『ステテコサウルスで働け』っていうのが何件か。ちょっと意味はわからない。
それで、低予算でも映える映画を撮れるチャンスって思ったとのこと。
映える映画がなにかはさっぱりわからないけど、そもそも映えるって何?
「映えるっていうのは、簡単に言うと目立つってことかな。派手なアクションをメインにしたら、低予算の短編でもいい感じになると思うんだよね」
なるほど? いや、全然わかんないけど。
「トリケラちゃんが出てくれるなら、私と木部さんも手伝うよー」
「休みの日だけね」
「俺の実家の工場跡、まだ借り手が見つかってないから使っていいぞー」
花井ちゃんと木部さんと草加さんも手伝うらしい。
「映画かー。いいんじゃないか、定時制の生徒も部活はやっといた方がいいぞ。学生生活は1度きりだからな」
蛇崩先生もダメ押しで勧めてくる。
なるほど。こうやって外堀って埋められていくのか。
「じゃあ授業やってくぞー。三角さん、次の単語日本語に訳して。牛」
「meat」
「……豚」
「meat」
「……鶏は、まあいいや。はい、教科書開いて。35ページなー」
蛇崩先生がこめかみを押さえながら溜息をつく姿が見えた。
いや、だって牛も豚もお肉でしょうが。
映画のことを安奈さんに話すと、あっさりと賛成してきた。私がやることで悪いこと以外は特に反対することない人だけど、それにしても物わかりがいいというか、ある意味察しが悪いというか。
あわよくば店が忙しいからって理由で断ろうと思ったのに。
「今のうちに楽しい思い出をいっぱい作っておきなさい。あんたは就職も転職も結婚も人より色々苦労するだろうし、どうしてあげたらいいのか正直さっぱりわかんないからね。私にしてあげれることは、学費出すのと店休ませることくらいだよ」
なんて、しおらしいことを言ってくるので、ますます外堀を埋められた感がある。
こうして、半ば強引に映画撮影に参加することになったのだった。
まあ、学生っぽいことしたいから別にいいんだけど。
4月29日(土)
今日からゴールデンウィークでみんな仕事が休みになったので、空いてる時間でとにかく映像を撮った。
ジャンルも決まってないから、どんな話でも使えるような映像をたくさん撮った。河原でたたずんだり、路地裏をひたすら歩いてみたり、商店街を歩いたり、とにかくいっぱい歩いた。
4月30日(日)
学校が休みで部活でも使われてないので、こっそり忍び込んでひたすら映像を撮った。普段夕方から登校してるから、朝から学校にいるとなんだか新鮮だなーって思った。
5月1日(月)
学校があるので店の手伝いと勉強。ゴールデンウィークだから妙に客が多かった。
5月2日(火)
続・学校と勉強。一ヶ森くんに好きな映画のジャンルを訊いたらホラーとスプラッターって返ってきた。ちなみに私の好きなジャンルは時代劇とロボット。
5月3日(水)
途中で雨が降ってきたので、草加さんの実家の廃工場の映像を撮り続けた。雨と廃墟はヤバい、とか一ヶ森くんが口走ったから、草加さんにドロップキックとかされてた。
5月4日(木)
なんか行き詰ってきたので、花井ちゃんと一緒に意味もなく当てずっぽうな洋楽とか歌ってみた。恥ずかしいから全部カットして欲しい。
5月5日(金)
母校の中学校にこっそり行ってみたら、後輩たちが体育館で自主練とかしてたので、とりあえず木部さんと一ヶ森くんも含めて、片っ端から千切っては投げ、投げては千切りしてみた。もちろん手加減はめちゃくちゃした。
5月6日(土)
山に行ってみたら大木があったので、例によって使うかどうかわからないけど、修行シーンとか撮ってみた。倒れてる木をいっぱい叩いたけど、木は柔らかいから平気って言ったらドン引きしてた。
5月7日(日)
一ヶ森くんが部屋のシーンを撮りたいというので、イグアノ丼と2階の住居スペースに連れていく。安奈さんとじじばばが妙にニヤニヤしてたけど、そういうのじゃないから。
変に気を利かして、普段絶対買ってこないハッピーターンとか出してきたけど、そういうのじゃないから。
こんな感じでゴールデンウィークはほとんど遊ばずに、ひたすら映画を撮った。遊んでたって言ったら遊んでたのかもだけど、マジメに倒れた木を叩き割ったり、でかめの中学生男子をマットに抱えて投げたり、山に捨てられてるバスを持ち上げたりしたから、これはもうちょっとした仕事だと思う。
数日後――
「あー、三角さんと一ヶ森、あとで職員室来るように」
「はぇ?」
英語の授業の終わりに蛇崩先生に呼び出された。
こういう呼び出しはあまりいいものではない予感がある。そして心当たりもなくはない。
学校にこっそり忍び込んだのがバレたのか、ぶん投げた中学生にもしかして怪我人がいたのか、倒木を叩き割った場所が実は私有地だったとか。
私たちは色々言い訳を考えながら、そわそわしながら職員室へ向かう。足取りもなんだか重い。
怒られたところで、カストリとシケモクぶん殴った時ほど怒られることはないだろうって腹は括れるけど、それでも呼び出しには憂鬱が付きまとう。
でも予想は外れてて、映画撮影それ自体とは別のことだった。
「一ヶ森、お前がヤーチューブにアップした動画だけどな。再生回数がえげつないことになっててな」
そっちかー。じゃあ、私は関係ないよね。
「それに加えて、三角さんがイグアノ丼で働いてる映像が出回ってて、トリケラトプス発見とか恐竜ガール特定とかってタイトルで、この学校が特定されました」
「へー、暇な人もいるんすねー」
まったく暇な奴らもいるもんだ。そんな暇あったら働け、ちょっとでも社会の役に立て、って日々汗水たらして働いてる私は思う。
「そう、暇な奴もいるんだよ。で、暇な奴らは暇だから、今朝から学校の電話が鳴りっぱなしなわけよ。マスコミとか自称マスコミとか地元新聞社とか腕試し希望とか」
蛇崩先生がやれやれといった様子で肩をすくめる。どうやら怒ってないみたい。
「2週間もすれば落ち着くと思うから、それまではおとなしくしておくように。特に一ヶ森、今度余計なことしたら即退学だから肝に銘じておくように」
いや、やっぱり怒ってるみたい。
とりあえず一ヶ森くんは、これ以上怒られないように例の動画を削除することで、一応の反省とした。
まあ、動画は既にコピーされて転載されまくってるから、今さら消しても意味ないと思うけど。
「で、三角さんだけど、2週間分のプリント出しとくから自宅で自習ってことで。お目当ての恐竜ガールがいなかったら暇人たちもとっとと飽きてくれるだろ」
「え? また停学?」
「いわゆるリモート授業だな。特にスマホもパソコンも使わないけど」
それはリモート授業とは言わないと思う。
「そういうわけで、また2週間家から出るなだって。まいったね」
帰ってから安奈さんに報告すると、呆れたような困ったような、言葉にするならやれやれって顔をしてた。
「しょうがないねー、このバカ娘は。明日からしっかり勉強しよっか」
勉強はいいけど、学校に行けないのは正直困る。映画もまだ全然できてないし。
「ねえ、映画は?」
「そうだねー。あんた目当ての暇人たちに見つからなかったら、別に外出てもいいんじゃない」
「よかったー」
「なに? ずいぶんとやる気じゃない?」
安奈さんがニヤニヤしながら、私の頭を撫でてくる。この人は機嫌がいい時や楽しい時、すぐに私の頭を撫でる癖がある。
なになに? そんなに私といるのが嬉しいの? いつまでも娘離れ出来ない人だなあ。
私が得意気に頭をぐいっと近づけると、パーカーをちょっと捲って、おでこにビシィっとデコピンを打ち付ける。
「はい、これはお説教分。半分はあんたのせいだからね。これからは人を殴ったりしないように。って、仮にあんたが殴り返さなかったら、私が後でそいつらをぶん殴ってたけどね」
そう言って赤くなったおでこを何回かさすって、英語と数学のプリントが終わるまで、みっちり監視していったのだった。
そして翌日――
眠い目をこすりながら布団から這い出ると、1階の開店前の店から、なにやら声が聞こえてくる。
ところどころしか聞こえないけど、動画を見てとか、母がとか、なんとかサウルスとか、そういった単語は聞き取れる。
まったくこんな朝っぱらから暇人共の襲来か、なんて思ってると、安奈さんから呼ばれたので、顔を洗ってちょっとばかりシャキッとして降りていく。
するとそこには、私と同じような恐竜のパーカーを着たやや小柄な女子と、背の高い大学生くらいの恐竜パーカーのお姉さんが座っていた。
「あんたを訪ねて、わざわざ東京から来たんだって」
「はい?」
呆気に取られて間の抜けた返事をしてしまうと、
「始めまして。山田ティラノです」
小柄な女子が悪ふざけみたいな名前で自己紹介してきた。名前に関しては、私も人のこと言えないけど。
山田ティラノさん、17歳。お父さんが人間で、お母さんがティラノサウルス。
草野ブラキオさん、19歳。お父さんが人間で、お母さんがブラキオサウルス。
「あ、三角トリケラです。お父さんがトリケラトプスで、お母さんが人間です」
私が自己紹介し返すと、二人は戦慄が走ったような顔を安奈さんに向けて、
「す、すごいですね……」
「おい、ティラノ、失礼」
多分きっとおそらく、とてつもなく大きな誤解をしていることを暗に告げてきた。
「いや、私は預かってる立場だから。この子の母親は従姉妹で、10年前に亡くなったの」
「それはそれですごいっすね。いや、ほんとに立派です」
安奈さんの訂正に対して、ティラノさんが深々と頭を下げる。冗談みたいな格好だけど、なんていうかちゃんとしてる。
この人はこの人で、私より全然ずっと苦労したのかもしれない。
で、それはそれとして何しに来たの? こんな田舎までわざわざ?
ティラノさんが言うには、彼女は東京のステテコサウルスっていうコスプレ喫茶で働いていて、ヤーチューブの動画でたまたま例の動画を見つけて、当然の流れでイグアノ丼で働いてることを知って、もし自分と同じような恐竜ガールだったら会ってみたいと思ってやって来た、ということだ。
そして恐竜ガールだって信じてもらうために、仕入れ用のワゴンを持ち上げたり、裏庭に転がっていたでっかい石を素手で砕いたりもしたらしい。確かにそんなこと出来たら、間違いなく私と同類だよね。
「ってことは、ティラノさんも強いの?」
「うん、強いよ。なるべく喧嘩はしないようにしてるけど」
これはもしかして、すごく映画に使えるのでは……!
ゴールデンウィークの撮影ラッシュで頭の中が映画馬鹿になってる私は、文化祭用の映画を撮ってることを話して、ふたりに駄目元でお願いしてみたのだった。
そして、
「いいよ。クレジットにステテコサウルスの名前と住所入れてくれたら」
あっさりオッケーが出たのだった。
そうして6月、ギリギリ滑り込みで映画は完成した――
映画のタイトルは【トリケラガールVSティラノサウルス女VSスペースサウルス】
内容はトリケラトプスのパーカーを着た少女が、日々なにかしら悩みながらも山奥で大木を叩き割って修行していたところに、謎のティラノサウルスパーカーを着た女が現れて、宇宙から来たブラキオサウルスパーカーの女と激闘を繰り広げる、という荒唐無稽なZ級オマージュ盛り沢山な、コッテコテなザ・クソ映画だ。
撮影のために山奥や廃工場で、お互い3割くらいの力でって条件で、首から下は当ててもオッケーなルールでバッチバチに殴り合ったりもした。
映画の評判は全体的にはゴミよりちょっとマシ、みたいな感じだったけど、木がなぎ倒されたり、壁が突き破られたりするド派手なアクションシーンは結構ウケてた。
安奈さんも私が怪我しないかハラハラしながら見てた。怪我なんてしてないって、前もってわかってるのに。
「じゃあね、トリケラちゃん。折角仲良くなったし、何かあったらいつでもステテコサウルスまでおいで」
「なんだったら今すぐ来てもオーケー。恐竜ガールは常に不足してるから」
映画のクランクアップの日、ティラノさんとブラキオさんは私をステテコサウルスに誘った。
でも私には学校もあるし、イグアノ丼もあるし、安奈さんも友達もいるので。
ふたりの恐竜ガールに大きく手を振って別れたのだった。
それから?
そう、それから色々……は特になんにもなかった。
例の騒ぎはほんとに2週間足らずで収まった。イグアノ丼の口コミもちょっと荒れたらしいけど、そもそも普段は近所の人しか来ないような店だから、あんまり関係ないみたい。
一ヶ森くんは次の映画の準備に張り切ってる。
花井ちゃんはいつの間にか一ヶ森くんと付き合ってて、私たちを驚かせた。
木部さんは工場辞めたいって愚痴りながら真面目に学校に来てる。
草加さんはいよいよ持病の腰痛が悪化して、夏休みに手術をするとかしないとか。
安奈さんは今日もイグアノ丼で働いてる。ここだけの話、お母さんって呼ぶタイミングは完全に逃してる。
蛇崩先生は今日もやる気無さそうに授業をしてる。
「はい、三角さん。次の単語を日本語に訳して。牛は?」
「先生、私をあんまりなめないで欲しいなー。これでも家でめちゃくちゃ勉強してたんだから」
私はふふんと鼻を鳴らして、堂々と胸を張って答えた。
「steak!」
「はい、違います。もっと勉強するようにね」
いつかの夏休みの宿題、或いは『拝啓 カツサンドマスタードソース様へ』
夏休みの宿題は夏休みの内に済ませておいた方がいい。
それを口癖のようにしつこく語ってくれた友人は、今どこで何をしているのだろうか?
ヘイ、友人、お元気ですか?
シリを呼ぶみたいに呼んでみました。
私は今、いい年した大人なのに、夏休みの宿題を夏休みの内に済ませておけばよかったなー、みたいな気分で過ごしています。
夏休みの宿題を夏休みの内に済ませておけばよかったなー、という気分は、一言で言ってしまうと、夏休みの宿題を夏休みの内に済ませておけばよかったなー、です。
決して手抜きでも皮肉でもありません。
それが一番しっくりくるし、それ以上に似合う例えも浮かばないし、もっというと現代的価値観を煮詰めたようなその言葉は、体の芯の部分に引っ付いているかのように、あるのかどうかも定かではない自我というものにこびりついてしまっているのです。
そう、この忌々しい腰の後ろにへばりついた浮き輪肉みたいになあ!
ええい、忌々しい! 千切ってぶちころがすぞ、肉め!
千切れるものなら千切りたいんですー! でも無理なんですー!
そういうわけで私は今、夏休みに済ませておかずに後悔した宿題に悩まされている。そう、無駄肉である。
思えば恥が多いかわからないけど、選択ミスの多い人生でした。
夏休みの宿題、あれが最初の選択ミスだったと思う。私は誇ることでもないけど、堂々と白紙のノートを先生に提出したり、宿題を全部無くしたといって逃げの一手を打つような子どもでした。
もっというと高校を初日で中退しようとするようなクレイジーな子どもでもありました。
そんな子どもがまともな大人になるはずもなく、大学に入った途端に田舎からやってきた女子大生にありがちな、知り合いこそいるもののメンタルはぼっち酒浸りみたいな日々を送り、唯一優しくしてくれた先輩にかわいいかわいいと褒められた時に「あなたのかわいいはポケモンと同じジャンルだからね!」とツンデレなのか嫉妬なのかわからない言葉を掛けてきたブス先輩にユーモアを利かせて「ピカチュ~」と答えるところを「でもあなたよりは顔がいいっすけどね」などと吐き捨てるようなことをしてしまったり、職場の意地悪なババアに「おいてめえ」などと申しながらエビチリのパックを投げつけたりするようなことをしてしまったり、酔っぱらって居酒屋の壁の僅かな段差に眼鏡を刺し込もうとしてしまったり、気がついたら寿司屋の水槽の中に私の眼鏡が亀と一緒に沈んでいたりもしたのでした、お元気ですか?
お元気ですかじゃねえよ、立派な病気だよ!
そんな立派な、心療内科医に行ったら二言目には入院を勧められる立派なレディーになってしまった私は、向精神薬とビールと揚げ物にまみれて、立派なお肉を育ててしまったのですよ、くそが。
こほん、おうんこが。
もとい、お大便様が!
具体的な数値は乙女の恥だから言わないけれど、タヌキ以上ゾウ未満といったところ。
そんなわけで私は運動というものに手を染めて、鉄板のような薄い胸に鋼鉄のような硬い意志を抱いて酒を断ち、毎日運動に精を出しながら、走って飛んで腕立てして肘打ちと膝蹴りをしながら、毎日汗と共に
「ぬあーん、10代の頃だったらもっと絶対体重落ちてるに違いないのに―!」
などと後悔を垂れ流している。
ヨーソロー、船を出せ。あの海はお前の流した汗、この海はお前の流した涙。しょっぺえ、だけども美しい。美しくはない、汗は何処まで行っても排泄物だ。
1日の摂取カロリーを制限しつつ、だけども長続きするようにお酒は断つけどジュースは飲む。そんな右向けといわれて顔は右向いてるけど爪先は明後日の方向を向くようなヤクザ根性は、なんだか素直に自分らしいなあと思いながら、さてそうなってくるとちょっとこれは食べないでおこうかというものが途端に恋しくなるのだ。
普段そんなに食べてもなかったし、別に嫌いではないけど特段好きでもないような、ランキングにすると50位に入るかどうかみたいな代物が、何故か不思議に。
大して面白くもないなあと思って売ってしまったものの、ふと懐かしくなった時にはブックオフからも消えている漫画のように。
なんか耳障りだなあと思って買わずにいたものの、ふと誰かが勧めてきた時に買っとけばよかったなと思わせるCDのように。
あとなんかスルーしたガチャガチャとかのように。
それがカツサンドである。
カツサンドというのはパンに豚肉を衣つけて揚げたものを挟んで、ついでに言い訳程度の千切りキャベツを挟んで、マスタードソースやちょっと濃いめのソースをかけた、いうならば炭水化物×脂×油+若干の食物繊維、例えるならばシンボリックカロリーみたいな食べ物だ。
私の暮らす国のシンボルは天皇陛下だけど、カロリー界のシンボルはカツサンドだ。
そんなカツサンドが途端に恋しくなってしまうのだ。
カツ丼も恋しい? カツ丼までいくと諦めがつくの!
牛丼はまだセーフなの! 衣がないから!
しかし衣がないからセーフというのは不思議な現代的価値観だ。
だって現代的価値観で服を着ずに外をウロウロしようものなら、痴女、露出狂、やばめの変態、頭のおかしい人、ヘイポリスメン、そんな言葉に括られてしまう。
カテゴライズするなら檻の中、犬でもないのに檻の中、わんわんわーん。
うわーん!
でもことカロリーということに関していえば、衣はない方がいいし、脂は落とした方がいい。
人間とはまったくおかしなものなのだ。価値観はころころ変わるし、体のサイズも変わりやすくて変わりにくい。
太るのは易し、痩せるのは難し。
戦闘力という名のガンマ数値も上げるのは簡単だけど、下げるのは大変だ。
生きるのはもっと大変だ。
そう考えたら運動なんて屁でもないぜー、ぐへぇ。
夏はいつだって終わるし、夏休みも当然一緒に終わっていく。
だけど終わらせなかった宿題はいつまでも残るし、巡り巡ってこんな形で清算しなければならなくなる。
浮き輪でナイトプールなんて思いではないけれど、浮き輪肉はまだしがみついている。
私も人生という名の理不尽にしがみついている。
どこかにいるであろう同志達よ、明日も頑張るのだ。汗をかけ、ついでにちょっと地球滅ぼさね?
・ ・ ・ ・ ・ ・
などという狂った手紙が友人から届いた。
私の数少ない友人は、元々頭がちょっとおかしいなあって思ってたけど、どうやら頭がおかしくなってしまったらしい。
まったく、思い立ったらすぐ行動、今日出来ることは今日の内に、と何度も口酸っぱく言ったのに。
やれやれ、どうしようもないやつだ。
呆れながら私は体重計に乗り、ちょっとずつしか減ってくれない数字をカレンダーに書き込んで、滝のように流れる汗を拭い、世の中を恨みたくなるような溜息を吐き出したのだ。
ヘイ、同志、ちょっと地球滅ぼさね?
酔いどれカーニバルと吟醸2合
―知り合いと久しぶりに会うと面倒に巻き込まれる―
かの有名なゲーテの言葉だ。ゲーテはそんなことは言ってなかった気もする。でも面倒には巻き込まれがちだ。保険の勧誘、宗教の勧誘、マルチの勧誘、連帯保証人の勧誘、4つ目は勧誘じゃないな、お願いである。
とにかく久しぶりに会う知り合いほど面倒なことはない。それが学生時代という名の、人生の節目みたいな時期に知り合った顔であれば余計にだ。
普段より幾分か高めの居酒屋のカウンターの端っこで後輩、そう彼は後輩だ、大学で同じサークルだった。といっても私とは1年ほどしか接点がない限りなく関係性の薄い、限りなく透明に近い麦茶くらい薄い間柄の後輩だが、後輩であることには変わりないし、同じ町内に住んでいるため道端で遭遇すれば挨拶くらいはしてくれる、そういう後輩だ。
……それは後輩なのか? ただのご近所さんなのではないか?
つまり、そういう後輩だ。イコール何者でもない男だ。
その何者でもない後輩が、入院半年目の患者の顔で空になったジョッキを見つめている。目の下のクマはやばいし、頬はまるで骸骨だ。背中は劣化したフェンスのように歪んでいるし、濁った瞳は深海の魚そのものだ。不健康きわまりないな!
話は1時間前にさかのぼる。いつものようにバイトを終えて、家で柿ピーでも齧りながらビールを飲もうと思ってたら、後輩くんから飲みに誘われた。以上、回想終わり。
「それで君、今日はどうしたんだね?」
ジョッキを見つめるゾンビモンスター形態の後輩に声をかけると、ガバッて擬音が漫画みたいに浮かぶ勢いで頭を上げて、
「だからさっきから言ってるじゃないですか! ひどいんですよ、うちの会社!」
そのまま文字にして便箋20枚には渡ろうかという愚痴の数々を垂れ流しはじめた。
いわく、非常にブラックである。平均睡眠時間3時間、週休0日、残業は毎日、パワハラも毎日、セクハラ目撃談多数、毎日エナドリを山のように飲み、就職してから今日まで朝日も夕日も1度も見ていない。それどころか日光も浴びていない。しかも手取りは20万円以下。
実にブラックである。墨汁よりもイカ墨よりも黒い。明日はペイントイットブラックでも聴こう、家でひとりで。
「もう無理です。このままだと社長を〇してしまう」
どうやらこの後輩、1年半にわたる就職活動、そして3か月に及ぶ社会生活で完全に疲れ果てたらしい。
人に殺意を抱くときは疲れている時だ、パラケルススもそんなことを言ってた気がする。言ってないか? しらん。
とにかく人に殺意を抱くときは疲れている、正常な判断が出来ないくらいに。
「僕はこのままだと、駄目な人間になってしまうんです!」
「そんなことはないよ。こうして立派に働いてるじゃないか、明日にでも辞めた方がいいと思うけど」
「駄目な人間なんです!」
カウンターを強く叩きながら後輩は立ち上がり、さあ今から演説の開始ですよ、といったポーズをとっている。
ビール1杯でここまで酔えるものか。後輩の手元にあるジョッキは1、かたや私の手元のジョッキは4代目、気分的にはまだまだ飲み足りないが、一方で今すぐ帰りたい、そんな二律背反の中でジョッキを掲げて5杯目を注文する。
「僕はこのままでは、あの誓い通りの生き方が出来ない!」
「近い? 距離の話?」
「違います、先輩が卒業式の時に言った桃園の誓いみたいなやつですよ」
そんなこと言ったっけ?
言ったなあ、そういえば。言った言った。我らこの場にいる10名だか何名だか、これから進む道は違えども、人に恥ずかしくない生き方をうんたらかんたらそいやっさどやさわっしょいわっしょいどっこいしょ、そんな感じのことを。
当時の私はものすごく酔っぱらっていた、大学内での飲酒は厳禁だったけど、とにかく酔っていた。社会に出るのがすごく嫌だったからだ。今でも嫌だけど。多分生まれて初めて目が開いた時にすごい怖かったと思うけど、おそらくそれに匹敵する怖さだった。ゆえに朝から飲んでいたので、酔っていたことは別段不思議ではない。
ちなみに、そんなことを口にした理由は覚えてない、多分その頃見てた映画の影響だと思う。ついでに言うとサークルは映研だ。
「先輩も覚えてますよね!」
覚えているわけないだろう。内容もなんかそれっぽい思いつきだぞ。
しかし私にも先輩としての威厳がある。口が裂けても知らないとは言えない。
「勿論覚えてるよ。えーと、刺身盛り合わせ、合鴨つくね、もつ煮込み」
「このままだと僕は、胸を張って生きられない人間になってしまうわけです!」
よかった、聞いてないわ。しかしこの後輩、私が適当に口にした言葉にそんな感銘を受けたのか。宗教に騙される才能ナンバーワンだな。あとで注意しておいてやろう。
「僕は汚い人間なんです。仕事中も同僚と罵り合ったり、弁当を食べながらヤフーニュースのコメント欄でレスバトルしたり、寝る前には必ずツイッターで凍結ギリギリなリプを送り、起きたら必ずネット掲示板に悪口書き連ねるような、そんな最低な人間になっちゃったんですよ!」
すごいな、げろクソしょんべんビッグカーニバルじゃん。
っと、いかんいかん、ここは先輩らしく、この落ちるとこまで落ちた後輩を、温かい言葉で慰めてあげないと。
「先輩、なにか言ってくださいよ……」
「すごいな、げろクソしょんべんビッグカーニバルじゃん」
「そんなことないって言ってくださいよ!」
ひぃんと声を上げて泣きだす後輩の頭から頭上20センチの位置をエア撫でしながら、他人の不幸は蜜の味というけど、至近距離で味わうと蜜というより汚物だな。悪気はないけどそう思ったのだ。
「大丈夫だよ。世の中には子どもを襲ったりする人間もいるじゃないか。そんな奴らよりは幾らか上等だよ」
「そんな目くそと鼻くそ、どっちがマシかみたいな慰め方しないでください!」
めんどくさいなぁ。
「先輩にはわからないですよ」
「失礼な、私にだって君の気持くらいわかるぞ」
「わからないですよ! 頑張って就活を乗り切って、やっと内定貰えた会社がクソブラックだった奴の気持ちなんか!」
おうおう、言ってくれるじゃないか。どうやら後輩の目には大学時代の私は就活もせず、自由気ままに日々を無為に過ごす放蕩貴族のように映っていたようだ。そして放蕩貴族はそのまま放蕩のまま社会に巣立ち、ふらふらとバイトをしながら、今ものんべんだらりと生きている、そう思っているのだろう。実際そうだけどな!
だがしかし、後輩に侮られるのはよろしくない。私の沽券にかかわる。
「だって先輩、就活してなかったでしょう。みんな言ってましたよ、ああはなるな、地に足をつけて生きろって」
あいつら、そんなこと言ってたのか。同窓会の案内が来ても出ないことにしよう、来たことないけど。
「就活してない人に僕の気持ちはわからないですよ」
「私だって就活くらいしたぞ。ただ、ちょっと就職課を出禁になっただけで」
「なにやったら出禁になるんですか!?」
そう、私も就活はした。ただ合同企業説明会の1社目で、何列か並べられた椅子の群れの真ん中より少し後方に座ってたら、2列目から後ろは積極性がないので当社には不要なので帰りなさい、と言われて、なんか腹が立ったから、パンフレットを丸めてスリークォーター気味に投げつけたら怒られて、そのまま帰らされて色々あった末に就職課を出禁になってしまった。だから、それくらいしか就活を知らないけど、気持ちはわかる。
なんていうか、大変だなー、とか。
悔し涙を流しながら、我が身の不幸を訴え続ける後輩を見て、人間はそこまでして働かないといけないのか、どうにかうまいこと5000万円くらい入ったアタッシュケースを拾ったりできないものか、そう改めて考えたりするわけだ。
それでも人間は働かないと生きていけないし、金がなければビールを飲めない。だから働かないといけない者の苦悩、それは身に沁みてわかっている。だからこうして、他人の不幸にも耳を傾けているのだ。こういうのを真の意味での助け合いというのだろうし、人類はおそらくこんな営みを続けて互いを支え続けてきたのだろう。知らんけど。
「まあまあ、今日は私が胸を貸してあげるから、胸襟を開いて全部スッキリ吐き出すといいよ」
我ながら素晴らしい言葉だ。もし立場が逆だったら、この御恩は一生忘れません、と感謝の言葉を示し、跪いて靴に接吻を捧げているところだ。
しかしこの後輩という生き物は、水道の元栓を占めるかの如く泣き止み、
「先輩の! 胸は! 地平線くらい! なんにもないじゃないですかぁ!」
酷い暴言を投げつけてくる始末だ。
私の胸が小さいのではない。周りが大きすぎるのだ。私は普通、周りが異常、ただそれだけの世界の真理に気づかぬ上に、世界に反逆するかの如き暴言、しかも小生意気に地平線に例えてきたのだ。
言ってくれるじゃないか、そっちがその気なら、こっちも出るところに出るぞ。大人がいかに卑劣な手段を用いるか、骨の髄まで叩き込んでやる。
私は笑顔で後輩に微笑み、
「大将、十四代を2合。吟醸を、彼の奢りで」
ついでにテーブル席からこちらを眺めていた小刻みに震えるおじさんに向き直り、人差し指をピンと伸ばして口元に当てた。絶対に値段を教えるんじゃないぞ、という意味を込めて。
「先輩、十四代って何ですか?」
「ふふふ、君はまだ知らなくていい名前だよ」
そう、世の中には知らない方がいいことはたくさんある。不幸な歴史であるとか、法の抜け穴であるとか、後で支払うことになるお酒の値段であるとか。
だけど、人間はいずれ知ってしまうのである。知りたくもないのに不幸な境遇を味わったりする。その時に生じる苦しみに耐えられるように、お酒であるとか娯楽であるとか、はたまた愚痴をこぼす相手であるとか、そういったものがあるのだろう。
そういうカテゴリーに落とし込まれるのはいささか腑に落ちないが、もっと下の存在にカテゴライズされるよりはマシだ。憎悪の対象とか嫉妬の対象とか、そんなものに落とし込まれるなら愚痴相手も立派なものかもしれない。そう思うと、もうちょっと聞いてやろうという気になるから不思議なものだ。
「大将、彼にも生ビールを!」
今日はとことん飲み明かそうじゃないか。
彼にビールのジョッキを手渡し、聖女のように微笑んだ。
翌朝、店の前を通ると、なんたら・オブ・ザ・デッドに出そうなモブゾンビもかくや、といった様相で後輩が地面に口づけする態勢で酔い潰れていた。
そういえば飛び降り自殺はキス・ザ・グラウンドっていうんだっけ、と頭の中をくるくるさせながら見下ろしていると、死にかけの蚊の羽音くらい細い声で、
「もう駄目だぁ」
などと独特の鳴き声を発している。
大丈夫、君の人生はここから始まるのだ。いつだって空は青いし、太陽は輝いてる。残念ながら今日の天気は曇天模様だが。
私はポケットからスマホを取り出し、1を2回と9を1回プッシュして、爽やかにこう語りかけた。
「救急車1台お願いしまーす」
女エルフどぶろく3杯
ここだけの秘密だが、ある日会社から帰る途中にトラックに衝突され、気がついたら異世界にいた。しかもエルフの女子だ。
どうやらこの世界は人間以外にもエルフやドワーフ、ゴブリン、オークなど以前の世界の漫画や小説で見飽きたくらい見た定番の亜人から、なんだこれといった変な生き物まで数多くの生き物がいるらしい。
そう考えたらエルフで、しかも女子に転生したのはかなり当たりだと思う。
前に偶然見かけたほっそい8本足で歩く上半身が妙に長い体毛で覆われたラクダ顔の生き物と比べたら、月とスッポン、提灯に釣鐘、クソダサ生物とエルフ、それは文字通りか。
とにかく大当たりだ。
こんな世界に生まれ変わったということは、かつては死んだ魚のような目でアパートと職場を往復するだけの存在でしかなかった自分にも、なにかこう世界をひっくり返すような使命とかそういうものがあるのかもしれない。だって異世界転生なんて、しかも前世の記憶があるなんて、多分どこの世界でもウルトラレアに違いない。
そう思っていた時期が私にもありましたー
そう、ここに来るまでは。
ここは亜人たちの国ニッボヌにある首都ギョォウト、の中心街にある庶民向け低価格居酒屋ニソミャル水産。
って、それは日本の京都の磯丸水産やないか! 思わず使わな過ぎて忘れかけていた前世の方言でつっこんでしまった。
ちなみに向かいには鳥伯爵という更に露骨な鳥貴族がある。ちなみに外観もおおよそそんな感じだ。
同じ路地になか卵もあるしグァシュトもあるし、家の目の前にはコンビニのデカゴーもある。そこはちょっと捻るんかい!
「これ、もしかしなくても私以外にも異世界転生した日本人がいるのでは?」
そう確信するまで時間はかからなかった。だって、住んでる町がこんな状況だし、なんだったら家で味噌汁と漬物とか出てくるし。夏はそうめんとか食べるし、冬は餅とか食べるし。もしかしたら親エルフも日本人の転生したやつかもしれない。
ちなみに昨晩、果てしない大空と広い大地がどうとかって歌ってた。そんなん絶対日本人やんけ!
「よぉ、ジュィーヌ! 今日はなに食べるんだい?」
「とりあえず刺身とどぶろく、あと塩茹でした豆を一皿」
「はいよー! 刺身とどぶろく、茹で塩豆いっちょー!」
大将が景気よく厨房に声をかけ、つきだしの燻製肉を皿に盛りつけている。
いつものことだけど、まったく異世界に転生した感じがないな、大将が豚の頭をした大柄のオークという亜人であること以外は。
「ねえ、大将。ちょっと馬鹿なこと聞いてもいい?」
「おう、なんだい?」
「もしかして前世は磯丸水産かどこかで働いてた?」
「貴様、なぜわかった!」
「わかるわ!」
驚く大将に向かって、店名でバレバレなこと、やたらと刺身の捌き方がこなれてること、たまに邦ロックを口ずさんでいることを告げると、
「もしかして俺たち以外にも元日本人がいるんじゃねえか?」
「そりゃいるだろうよ! ニッポヌでギョォウトでニソミャル水産に鳥伯爵になか卵だよ!」
いないわけないだろうよ。ていうか、もしかして今まで気づいてなかったのか?
「おい、お前ら! まさか日本人なのか!?」
私と大将がぎゃーぎゃー騒いでいると、隣のテーブルで貝を焼いていた下半身が馬のケンタウロスの男が、自分も日本人であることを伝えてきた。
彼が言うには、自分はかつてテクノバンドの熱心なファンで、馬の恰好をして遊んでいたところを歩道橋から落ちて死んだのだと。
「え? ってことは馬の格好してたからケンタウロスなの?」
「俺も豚肉を焼いてて火事になって死んだぜ。そうか、だからオークになったのか」
「自分は牛追い祭りで事故って死んだからミノタウロスなのか!」
「俺は海で魚を突いてるところを溺れたからサハギンなのか!」
「あたいは花鳥園で心臓麻痺になったからハーピーなのかい!?」
「わしは金持ちの家で虎のじゅうたん踏んづけて転んだからウェアタイガーなのか!」
さらに奥のテーブルにいた牛の頭をした男と、全身にウロコのある半魚人のサハギンの男と、両腕に鳥の羽が生えたハーピーの女と、半人半虎の老人が話に混ざってくる。
「ちょっと待って! 情報量多いから!」
「すまぬ」
虎男が代表して頭を下げてくる。虎でも年老いると人間のように薄くなるのか、頭のてっぺんは髪の毛スッカスカだ。
「なるほど、つまり全員、揃いも揃って自分以外に日本人がいると思いもしなかったのね」
どうやらそういういことらしい。なんか日本っぽいなと思っていたものの、いやまさかとすぐに可能性を消したというか、他に元日本人の転生した者がいるとは思いもしなかったようだ。
なるほど、さてはこいつら全員バカだな。
「しかしだね、なんで私たちは揃いも揃って日本人ばかりの国に転生したんだろうね」
ここまでくると何か理由があるような気がしてきた。
出来過ぎてる、そう、出来過ぎているのだ。店内全員に確認したところ、やはり元日本人以外はひとりもいなかった。元日本人を集めて何かさせようとする神の意志みたいな企てがあるんじゃないか?
いや、やっぱりそんなの無いような気もする。だって全員バカだし。
「ねえ、例えば元武将とか元軍人とか、歴史に名前が残るような偉人とか、そういう人いないの?」
「でもそんな奴いてほしくねえな、こええし」
大将の言うことも一理ある。武将とか男尊女卑えぐそうだし。怖いし。
もしかしたら考え方が間違っていたのかもしれない。
異世界に転生したからって、なにも巨悪と戦ったり、世界を救ったり、ドラゴンを退治したりする必要などないのだ。むしろ前の世界で仕事ばかりの灰色の人生を強いられたんだから、こっちでは平和でのんびりしたスローライフを満喫したらいいのだ。美人の女エルフとして。きっとそうだ。
そう、これはいわばボーナス来世! ボーナス来世なのだ!
ふわふわな綿毛のような生き物に囲まれたり、ほっぺたが落ちるほど甘い果実の入ったスイーツを食べたり、空を飛べる馬みたいな動物で移動したり、なんかそんな感じの人生を送れという神の啓示かなにかだ。
ヴァアアアァァァァァァ!!!!
やかましいわ! こっちはスローライフ路線で行くって決めてんねん!
外から獣の咆哮のような鳴き声が響いてきたので窓から顔を出すと、路地を通り抜けた先の区画にある馬車止め放題の巨大駐馬車場併設、大型工具から建築資材、はては保存食まで、ありとあらゆる顧客ニーズに応えることで評判の大型ホームセンターから、大量のツルハシやシャベルで武装したゾンビが、無限に湧くかのように出てきたのだ。スローライフから一番遠い生物やないか!
「なんで? なんでゾンビ!?」
もしかして奴ら、こっちに向かってくるのか?
ゾンビ、以前の世界では人間に害する類の、主にB級映画で活躍する蘇った死体の総称。
奇妙な姿の亜人が多いこの世界でも、そもそも死体である・病気の疑いがある・なんか怖い・そもそも臭い・意思の疎通を図れるかわからない、といった理由で忌み嫌われている存在だ。親エルフからもゾンビを見かけたら、声を出さずに静かにその場を離れなさい、と口すっぱく言われている。
そんなゾンビが、しかも集団でゆっくりとニソミャル水産に近づいてきているのだ。
ちなみにゾンビは、硬直した死体が無理やり動いているのでたいへん遅い。強いかどうかはよくわからない。しかし生命力は限りなく高く、前に恐怖のあまり攻撃的になった体長10メートルを超すジャイアントゴーレムのヤーマダさんが、こいつも絶対元日本人だな名前からして、とにかくジャイアントゴーレムが解体用ハンマーで殴っているのを見たけど、千切れた腕をくっつけたり、折れた足を無理やり伸ばして立ち去ったりしていた。
つまり、私たち程度では到底撃退できないバケモノといえる。生命力に関しては。
「わかったー! 俺たちは元日本人! 誰しも一度はゾンビ映画を見てゾンビについて学んでる!」
「あたいたちの使命、それ即ちゾンビを倒すこと!」
「頭を破壊するか、足を撃って動きを止めるんだ!」
「大将、なんか武器はねえのか、武器は!」
「ホウキとチリトリならあるぞ!」
こっちはこっちでなんか妙に盛り上がってる。まあ、全員酒飲んでるし、全員バカだし。
私たちが各々ホウキやチリトリ、椅子、酒瓶で武装して身構えると、ゾンビの代表格であろう男がゆっくりと扉を叩き、
「ズビバゼン、ゾンビ40ベイデズゲドイゲマズガ?」
まるで三日三晩寝ず宴会後の酒焼けしゃがれ声で、尋ねてきたのだった。
ゾンビ曰く、自分たちも元日本人の労働者で、各々すっころんで墓石に頭をぶつけて死んだり、ハロウィンでゾンビの格好をしてたら軽トラに撥ねられたり、そういうゾンビっぽい死に方をして気がついたらゾンビに転生していたらしい。
ゾンビはここニッボヌでは貴重な労働力で、主に危険を伴う鉱山や地下での労働に従事しており、その基本的に何があっても死なない、手足が吹き飛んでも適当にくっつけたら治る悪い冗談みたいな性質を利用して、発破や崩落に巻き込まれても倒れないし減りもしないハイパーブラックワーカーズとして働いているとのこと。
「なにそれ、扱い酷くない?」
「ビデェデズゲド、ゾンビニバゾンバジゴドジガネェデズガラ……」
ゾンビが何か諦めたかのような、どこかで見た覚えのある顔で笑う。笑った口元から発酵させた豆みたいな臭いが漂い、まれに下の歯がぽろりと落ち毀れ、それがまた哀愁を強めている。気がする。
誰しもこの顔に見覚えがある。働きたくない、出来ればゴロゴロ寝ていたい、そう思いながらも精神が磨り潰されるまで働かされていた、かつての自分たちの顔だ。早朝出勤、サービス残業、取れない有休、理不尽に引かれる税金と社会保険料、紙切れでしかないタイムカード、まったく見合ってない量の仕事を増やされる役職手当、パワハラセクハラ罵詈雑言、モンスタークレーマー、労働災害、それらに苦しめられるかつての自分たちの顔だ。
のほほんとエルフでスローライフなんてやってる場合じゃない。
どぶろく3倍飲んだ頭の中で、何者かが私の魂に、私の魂に刻まれたブラック会社時代の傷痕に訴えかけてくる。
革命や! 革命起こしたるんや!
「よし、革命起こそう! このニッボヌを誰も働かなくていい楽園に変えよう!」
こうして革命に成功した。
成功したというと、なにかものすごいことをしたかのような響きがあるけど、なんせ相手も元日本人。みんな心の底では働きたくない、その気持ちを誤魔化すために日々にゃーんと鳴いてみたりする頭の壊れた連中なのだ。
「働きたくないでござる!」
私たちが掲げた殺し文句と、実際に武装している大量のゾンビアーミーの前に次々と投稿し、ギョォウト城無血開城に成功。
革命政権の樹立を成し遂げたのである。マニフェストは労働の強制の禁止、それと恒久的無税。あと酒は朝から飲んでもよい。この3つ。他は全部てきとー。
まぁ、みんな働きたくないからすぐに国が滅んだんだけど。
「よぉ、ジュィーヌ! 今日はなに食べるんだい?」
「とりあえず刺身とどぶろく、あと塩茹でした豆を一皿」
「はいよー! 刺身とどぶろく、茹で塩豆いっちょー!」
私たちは今日も汗して働いて、たまに仕事をほっぽり出して勝手に抜け出して、毎晩のように酒を飲んでいる。
異世界に転生したからって、なにも巨悪と戦ったり、世界を救ったり、ドラゴンを退治したりすることなどない。
そういう世界もあるかもしれないけど、結局のところ労働、働かねば飯が食えないし、飯が食えなければ腹が減るのである。
ちなみにゾンビは飯を食わなくても腹が減らないらしい。でも味覚は結構鋭いらしく、味にはうるさいし、おいしいもので幸福感を満たしたり、そういう娯楽的な食事はするそうだ。
でも究極的にいえば働かなくても死にはしないので、ゾンビたちは労働の不要な新天地を求めて旅立っていった。
おかげで労働災害の発生件数が前年比の1万5800%増、一日に国民の1%が何かしらの怪我を負っている。
次に生まれ変わるなら金持ちの家のゾンビを選ぼう。ゾンビとして毎日怠惰に過ごそう。そう思ったのだ。
そう思った矢先に上司のラクダウロス、ほっそい8本足で歩く上半身が妙に長い体毛で覆われたラクダ顔の生き物をそう呼ぶ、ラクダウロスのジジイが、私の居場所を嗅ぎつけて怒鳴り込んでくる。
「ジュィーヌ! てめえ、こんなとこでサボってねえで仕事の続きしやがれ!」
「いやだ! 働きたくなーい!」
今日もこの世界では、底辺労働者の絶叫が響き渡っているのだ。
もういっそ滅べ。
ヨタカとヴェラベッカ(翻訳)
※これは19世紀初頭に書かれたドロテア・クラッターバックの手記「魔女と怪鳥」の中から小題「悪魔崇拝者」を翻訳したものです。
「ねえ、おばあちゃん。神様はいるんだよね?」
「ええ、もちろんよ。神様も天使様も、いつでも私たちを見守ってくださってるわ」
「だったら、魔王もいるの? 今日の歌劇の授業で習ったの。魔王は嵐の夜に馬に乗って現れて、坊やを攫っていくって」
孫娘が膝の上に乗りかかりながら、私の顔を見上げてくる。暖炉で温まった部屋、広々とした庭、穏やかな息子に出来た嫁、かわいい孫娘、働き者の使用人、毛の長いスパニエルが2匹。あの頃には考えられもしなかった幸福な景色。
私は孫娘の頭を撫でながら、ちょっとだけ嘘をついた。もちろん好きでついたわけじゃないの、でもつかなければいけなかったのよ。
「魔王はいないわ、もちろん悪魔もよ。大昔に神様が勝利して、ひとり残らず地上からいなくなったの。クラッターバック家の家名に誓って、嘘偽りないことを誓うわ。だから安心して眠りなさい」
「はーい」
孫娘を部屋に戻らせて、テーブルの上のヴェラベッカを齧る。
今では遠く離れた、海の向こうの小さな村のお菓子は、懐かしい子供の頃と同じ味がして、私に否が応でもあの頃のことを思い出させる。
そう、これはずっと昔の話。聖夜に食べたヴェラベッカの話でもあるし、口に出すのもおぞましい魔王の話でもあるわ。
私がまだ幼い頃、敬虔な神の信徒だった両親が魔女狩りに遭って吊るされて死んだ。両親は心から神を信じていたし、私も同じように信じていた。毎朝神に祈りを捧げて、食事の前は必ず感謝の言葉を口にした。父は平凡な靴職人で、母は近所のご婦人方と談笑しながら刺繍をするような人だった。
けれど、斜向かいの家のマリーさんから謂れのない密告を受けて、悪魔の儀式を行ったことにされて死んだ。
あの時代にはよくあったこと。魔女の嫌疑をかけられたものは酷い拷問を受けて、指の爪がぜんぶ無くなる頃には誰でもいいから知り合いの名前を挙げて、適当な嘘をでっちあげて、首に縄を巻いて安らかに天に召される。生きたまま焼かれることを思えば、誰だってそっちを選ぶ。
あの時代には本当によくあったこと。
と、今なら言えるけど、あの日の、まだ幼い私には頭が割れるような恐怖と絶望だった。
なにもかも失った私は走って逃げた。とにかくどこでもいいから走ったさね。誰でもいいから助けて、心の中でそう叫びながらね。
だけど、言葉にこそ出来なかったけれど、あの時の私は神なんてこの世にはいないと理解してしまったし、もしいるのならなんで私たちを助けてくれなかったのって呪ったわ。
神は残酷よ。
神は人間を助けてはくれない。人間が勝手に祈って助けてもらえる気になってるだけで、神は人間を助けたりしない。
だってそうでしょう、もし誰か、名前も顔も知らない誰かが自分の与り知らぬところで祈っていたとして、その人を助けたいって思わないでしょう。
気持ち悪い、おそらくそんな風に思うでしょう。
神もそう。なぜか祈りを捧げてくる地上の気持ち悪い生き物。そんな程度にしか思っていなかったの。
私はひたすら山の中を逃げ回って、何日も何日も歩き続けて、偶然ある人に拾われた。
その人は旅人も滅多に立ち寄らない小さな村の、さらにその奥地にある山の中に建てられた修道院で働いていて、みんなからはマザーと呼ばれていたわ。
痩せこけて年老いた女で、足は鶏みたいに細くて、時折ふもとの町まで降りてきて、私のような孤児となった子どもを拾って育てる。そんなことをしていたの。
孤児は私も含めて50人ほどいて、まだ赤ん坊くらい小さい子から、背の高いお姉さんまで。16歳になったら少しばかりのお金を握って、優秀な子はそのまま修道女となり、或いは誰かの花嫁になるか、町で人手の足りない仕事を与えられて暮らす。そう教えられたの。
実際はどうだったか、今となってはわからないけどね。
私は16歳になる前に修道院を出ることになったし、何年ぶりかに訪れた修道院はすっかり朽ち果てていたから。
そう、朽ち果てていたの。
少し古いけど綺麗に掃除の行き届いた壁も廊下もボロボロにひび割れて、みんなで育てた畑も家畜小屋も地面を掘り起こしたように荒らされて。それだけじゃない、修道院の周りの森は、毒にでも侵されたかのように枯れ果てて、そこには虫一匹すら残っていなかったわ。
私はすぐに気づいた。ああ、魔王がなにもかも持って行ったんだって。
魔王の話をする前に、修道院の説明をしておかないといけない。
私を拾った修道院は、町の教会とは少し違った考えをしていた。町の教会は、両親や他のみんながそうであったように神を信じて、毎朝祈りを捧げて、日々感謝して生きることを説いた。
あの修道院はそうではなかった。
神や天使は人間の罪を許してくれるけど、この世界には許されざる悪が多すぎる。私だって神が許しても、両親を殺した魔女狩りの連中を許すことなんて出来ない。修道院に集められた子たちは、そんな子が多かった。神の慈悲では救われない子ばかりだった。
神の代わりに人間を罰してくれる者が必要だった。
悪魔崇拝。
なにもしてくれない神に代わって悪魔が人間に罰を与える独自で異端の教義。度の過ぎた罪を犯した者は神に許されてはいけない、という至極真っ当な感情の下で生まれた新しい信仰。
私たちはみんな、いずれ悪魔が人間に罰を与えてくれるし、悪魔を統括する魔王が降臨するって心から信じていた。
そうでもしないと生きていけなかった。それくらい私たちの負った心の傷は大きかった。
私たちは6歳になると悪魔と結びつくために体に、聖痕の反対だから魔痕とでも呼べばいいかしら、魔痕を刻んだ。6歳より上で拾われた子たちは、3ヶ月後の満月の夜に刻んだわ。
私は10歳で拾われて右肩の後ろのあたりに刻んで、左肩の後ろに9歳で与えられる魔痕を刻んだ。
「これであなたも、いつか悪魔と契約できるはずよ。より一層の精進を以って神様に感謝して、魔王様に罰を願うのよ。痛かったでしょう。でも泣かなかったからえらいわ、ドロテア、あなたにはきっと素質があるわ」
マザーは痛みに耐えた私の頭を撫でて、優しく褒めて、普段は食卓に並ばないような甘いお菓子をこっそりと食べさせてくれた。
私はようやくみんなに並べたような気がしたし、修道院のみんなと家族になれたと思った。
それから私は悪魔を呼び出すための修行をするようになって、色んな本を読んでは儀式を試して、ネズミに鳥に豚に、色んな生き物を生贄に捧げた。
そうして13歳の誕生日、私は姿こそ10歳の子どもくらいに小さいけれど角の生えた小鬼と契約を結んだ。
小鬼は大したことは出来なかったけど、しがみついた相手の足を止めることが出来て、脆弱で小さな悪戯のような力が、13歳の私にはちょっとした自慢だった。
「すごいわ、ドロテア。悪魔は気まぐれで気難しいから、なかなか契約まで持っていける子はいないのよ。これからも精進して、魔王様を呼び出せるように努力しましょうね」
そう言いながらマザーは自身の使い魔である目が3つある獅子を呼び出して、こっそりと実は自分も魔王を呼び出せたことはないって耳打ちしてくれた。
私は13歳にして将来有望な、マザーや大人の修道士たちから期待される存在となり、特別に個室を用意してもらって、このまま修行を積んでいずれは魔王を呼び出すのだと信じていた。
そう、本当にそう信じていたの。
あの子が来るまでは……。
あの子がいつから居て、どこから来たのかはよく思い出せない。
年は私より1つか2つ下で、珍しい緑色の瞳と深くて暗い赤錆色を帯びた髪をしていたけど、いつも誰かの陰に隠れていて、不思議と目立たない子だった。いつの間にかみんなの中にいて、みんなと同じように畑で野菜を育てて、みんなと同じように家畜の世話をして、夕方には並んで聖歌を唱っていた。
気がつけば同室になっていて、その時は部屋が狭くなるなあって思ったのと、でも夜の話し相手が出来て楽しくなるなあって思ったことは覚えているわ。
「ネメシス、私のほうがお姉さんなんだから、あなたは下のベッドね。それに私は悪魔とも契約してるんだから、私の言うことに逆らわないこと。いいわね?」
「いいけど、悪魔なら私も契約してるよ」
「嘘よ! マザーが言ってたもの。悪魔は気まぐれで気難しいから、なかなか契約まで持っていけないって」
「……じゃあ、見る?」
ネメシスはめんどくさそうに、このめんどくさそうにっていうのは実際にめんどくさかったのか、それともそんなことなかったのかわからないけど、ネメシスはなに考えてるかさっぱりわからない子だったから、とにかくめんどくさそうに窓の外を見て、一言ぼそりと呟いたの。
「おいで」
すると窓辺に、フクロウみたいな、でも目がぎょろっとしてて、左右別の方向を見てるみたいで、口も大きく開いた気味の悪い鳥が飛んできたの。一目で悪魔だって思ったわ。それくらい不気味で怖くて、夢に出てきそうな顔してたから。
「ごめん、お前じゃなくて」
ネメシスは鳥の悪魔になにか言ってたけど、その時の私は言い訳だと勘違いしたの。悪魔にしては小さいし、私の小鬼の方がずっと役に立ちそうだったから。
それに窓の外も見たけど、真っ暗でなんにもいなかった。だからネメシスの契約してる悪魔はこの変な鳥で、私より格下だと思っても仕方ないでしょう。
「ほら、私の悪魔のほうが強そうでしょ。そういうわけで、あなたが下のベッドで決まりだから」
「ねえ、外見て」
「外にはなんにもいないでしょ、真っ暗じゃない」
私はそう言って上のベッドにのぼって、そのままネメシスを放っておいて眠ったわ。
次の日に腰が抜けるくらいびっくりするなんて考えもせずに。
翌朝、窓の外に両手を広げたよりもずっと大きい足跡みたいな浅い穴がいくつもあったの。それがネメシスの契約した悪魔で、あの鳥は森で見つけたただのペットだって知ったのは何日も後のことよ。
館よりもはるかに大きく巨大な、蜘蛛みたいな長い足がいっぱいあって、胴体に30以上の目がある気持ち悪い化け物。
それがネメシスの契約した悪魔で、夜中に旅人や家畜を襲って食べるって教えてもらった。
「ねえ、あんた。どうやってこんなのと契約したの?」
「え? なんか普通に」
ネメシスは朝から神に祈りを捧げて、おなかが空いてるのかパンをもぐもぐと口いっぱいに頬張っていて、スープで流しこんでぼそっと答えた。
なんか普通に。普通ってなによ、普通はこんなでっかくて強そうな悪魔と契約なんて出来ないのよ。
私は理不尽だって思ったわ。子供じみてるでしょう。でも実際子供だったから、自分の努力して手に入れた悪魔よりもずっと強そうな化け物を持っているネメシスを狡いって思ったの。
「欲しければドロテアにあげるけど」
だからネメシスの提案を許せなかったの。私は拳を握って殴りかかって、ネメシスの顔を叩いたわ。その時よ、私は両足の膝から下を持っていかれたの。
言ってなかったわね、私の足、膝から下がないから木で支えてるの。若い頃はまだ歩けたけど、こんな年になったら杖無しでは一歩も歩けないから、ほとんどの時間を椅子に腰かけて過ごしているわ。
おかげで孫娘からはお婆さんは椅子の上で暮らしていると思われているし、ネメシスのことを忘れたくても忘れられなくなったわ。だって足を食い千切られたのよ。
がぶって、お皿の上のパンでも食べるみたいに。
ネメシスが契約している悪魔はそいつだけじゃなかったの。影に棲みついてる悪魔に空からじっと見張ってる悪魔、部屋の隅で姿を隠している悪魔、ネメシスのスカートの中に隠れているなんでも食べる悪魔。他にもいくつかの悪魔と契約してるって教えてくれたわ。
その中には私の足の代わりをしてくれる悪魔もいた。ネメシスが仲直りの証にって私に貸してくれたの。
「よかったね、歩けるようになって」
ネメシスはそう言って微笑んだわ。あの顔、今でも夢に出てくるのよ。
知ってる? 足が無くなるって、両親が吊るされるよりもずっと辛いの。もっとずっと怖いの。
怖くて悔しくて痛くて辛くて、きっと死ぬまで夢に見るの。毎朝子供みたいな悲鳴をあげながら起きるのよ。
「ドロテア、イザベル、ミリアム、モリー、そろそろ魔王の降臨を試してみましょうね」
不幸な事故があっても私は修行をし続けた。畑仕事を免除されたから、むしろ修行の時間が増えて、1年も経った頃には修道院の孤児の中でも五本の指に数えられる悪魔使いになったわ。
相応の努力をしたわ。修道院中の本を読み漁って、高度な魔術儀式も試して、背中の魔痕も次々に増やして、淫行が悪魔との対話を高めると聞いて修道士に身を捧げたりもした。
マザーからも次の段階に進むよう促されて、私は決して高いわけではないけど低くもない、中二階みたいな場所で競うことに夢中になった。
「ねえ、みんなはもし魔王を呼び出せたら、どんな魔王と契約したい?」
「私は力の魔王よ。全身の骨を折ってもらって、最後に首の骨をゆっくりと折ってやるの」
「私は飢餓の魔王ね。長い時間かけてなぶり殺しにしてやるわよ。ドロテアは?」
「私は大火事を起こす魔王がいいわ。お父さんとお母さんを殺したやつらを、町ごと焼き殺してもらうの」
私たちは誰が書いたかもわからない辞典を開きながら、毎晩のように魔王に託した夢と復讐を語り合って、自分の人生を壊した連中の惨たらしい死を願った。
悪魔がいるんですもの。魔王とだって契約できるって信じてたわ。
その時間は魂が繋がってるような結びつきを感じられたし、向上心みたいなものが満たされたの。私たちは同じような目的意識を持った同士であり、同じ屋根の下で暮らす家族であり、悪魔的な意味でも4人が互いに深い関係にある姉妹でもあったわ。
励まし合って慰め合って、そうやって高め合ったのよ。
「そういうわけで、魔王との契約を試せるようになったの」
「ふーん、すごいね」
ネメシスは相変わらずなに考えてるかわからなかったけど、なんとなく悪意がないことは理解できるようになったわ。悪意がないと言うより、悪意を抱くほど私たちに関心がない、っていうのが正解だと思う。私は未だに、この年になって老婆になっても、未だにあの子のことはわからない。なにを考えていたのか、なにを思っていたのか、私たちのことを少しくらいは好きだったのか、今になっても少しもわからない。
思い返してみれば、あの子のことをなんにも知らなかった。
たまたまなのか意図があったのか私と同室で、いつもぼーっとしてて、なに考えてるかわからなくて、少し近寄りがたくて、時折心が冷たくなってしまうくらい恐ろしくて、そしてやっぱり理解できない普通じゃない女の子。
「ねえ、あんたはもし魔王と契約するなら、どんな魔王がいい?」
「うーん」
ネメシスは珍しく考え込んで、そのまま両手を組んで考え続けて、その日は夕食にも顔を出さずにベッドに寝転がって考え続けて、次の日も神への祈りを忘れるくらい考え続けたの。
そんなに考えても何も出ないわよ、って言いたかったけど、止めても聴くような子じゃなかったし興味もあったの。
この化け物みたいな女が、考えて考えてその結果、どんな答えを出すのかって。
「うーん」
ネメシスは考え続けながらグラスに水を注ぎながら、ふと水差しに視線を落とし、目線を何度も上下させて、なにか閃いたのかそのまま部屋を出ていって、本を大量に抱えて戻ってきて、食事も眠るのも忘れたように夜まで本を読み漁って、時折あちこち見回しながらまた考え込んでいたの。
「あんたねえ、そろそろ寝なさいよ」
「いや、もうちょっとで、なんか。先に寝てていいよ」
「言われなくても寝るわよ」
その日は私はさっさと眠ることにして、ネメシスは上のベッドで、なにやらごそごそ動いていたわ。きっと紙になにか書いていたのよ。
「……で……箱に……から持って……」
「……出来なく……想像……だったら……」
深い眠りの中で、なにかが喋っているのを聴いたような気がしたけど、あれはおそらく魔王の声だったんだわ。
魔王って意外とかわいい声してたのよ。どう言えばいいかしら、声変わりした直後の男の子みたいな声なの。恐ろしくて人間に罰を与えるのに、無邪気でちょっと濁ったけど半分透き通った声をしているの。
その翌日からよ、修道院全体がおかしくなってきたのは。
建物が崩れたとか、みんなの人が変わったとか、そういうことじゃなくて、上手く説明できないけどとにかくおかしくなったの。常に悪戯をされてるみたいだったの。
例えばテーブルに並んだお皿から料理が消えたり、食べ終わったはずの鍋の中に全く別の料理が入っていたり、来たばかりの子どもが割った花瓶と同じものが急に何個も現れたり、物置のドアの鍵だけ妙に古く錆びていたり、夜中に全く同じ顔の子と出会ったり、何日も前に死んだはずの番犬が元気に走り回ってたり、見たことも無いような妙な機械が転がっていたり。
「どうなってるの、これ……」
ある日、目を覚ました私の前に奇妙な光景が広がっていたの。
窓があるはずの場所に鏡で映したようにそっくりな、私たちの部屋が続いていて、おそるおそる扉を開いたら、誰もいない以外はなにひとつ変わらない修道院があったのよ。
まるでどこか別の場所から運んできたみたいに。
「ドロテア……ネメシスはどこ?」
いつの間にかマザーが後ろに立っていて、ベッドの上からいなくなっていたネメシスがどこにいるか尋ねたわ。
わかるわけないじゃない、あの子のことなにもわかってないのに。
「ネメシス! あなた何をしたの!?」
マザーがなんでそんなに慌ててるのかすぐにはわからなかったけど、部屋から出て一瞬で理解した。
部屋の外にあるはずの廊下がなくて、修道院全体がバラバラに千切られて空中に浮いていたの。頭がおかしくなったと思ったわ。悪魔と契約した影響で、幻覚でも見てるんじゃないかって。
だって有り得ないでしょう。修道院だけじゃなく、空の端から端まで、修道士から孤児から、ふもとの村人から、ありとあらゆる人間が、絞首台から伸びた縄を首に掛けられて吊られているだなんて。
「ドロテア、前にどんな魔王と契約したいって聞いたよね」
宙に浮いた修道院の真下で、右腕でフォークとナイフを抱えたでっぷりと太った熊の肩の上に座ったネメシスが、肩にいつだったか窓辺に止まっていた変な鳥を乗せて、パンをもぐもぐ食べながら微笑んでたの。
「色々考えて、色々検証してみて、ようやく今朝思った通りの答えが出たんだ」
「……熊と絞首台ってこと?」
「違うよ、朽ち縄様と大食い様は試しに借りてきただけ」
絞首台と熊は朽ち縄様と大食い様という名前らしいわ。ふざけた名前でしょう、まるで子供がつけたみたいな名前。普通は、例えばハデスとかサタンとかそんな魔王っぽい名前だと思うじゃない。
そんなことより問題は、あの子が借りたって言ったことよ。
「借りたって、誰から……?」
「私から」
ネメシスが鳥に千切ったパンを与えながら答えた。不気味な鳥だけど、パンを食べると意外と愛嬌があったから驚いた。
鳥の話は今はいいの。ネメシスは自分から借りたって答えたのだけど、私にはさっぱり理解できなかったわ。説明を受けた今の私でもよくわからないもの。
「ちょっと待って、説明するから」
ネメシスは頭の上でパンと両手を合わせて、空からボトリボトリと雨粒みたいにみんなの死体と瓦礫が落ちてきて、今度は胸の前でパンと手を合わせると、死んだはずのみんなが空から現れて、悲鳴を上げながら地面に叩きつけられて、また死んだの。
いよいよ頭がおかしくなると思ったわ。マザーは腰を抜かして狂ったように笑い出して、そのまま地面を虫みたいにのたうち回って、かと思ったら大声で泣き出した。
狂ったマザーは、その直後に熊に食べられたんだけど。
「ヴバァァァァァァ!」
「よかったね、大食い様。それで、ドロテア、うるさいのもいなくなったから説明してもいい?」
ネメシスは微笑んだの、私の足の代わりを用意した時みたいな、なんの悪意もない顔で。
あの時ネメシスが言った言葉は、一言一句しっかり覚えてるわ。
私はあの子に比べたら全然平凡で普通だったけど、それでも結構優秀だったのね。マザーが褒めてくれたのもお世辞じゃなかったのよ。
「まあ、座ろうよ。簡単に説明するのも難しいから、ちょっと長くなるし。ドロテアは足が悪いでしょ」
そう言うと私の尻の下に椅子が現れて、目の前にはテーブルとお皿の上に乗ったヴェラベッカが現れたわ。混乱しててすっかり抜けてたけど、あの日は聖夜だったのよ。神の代弁者って言われて磔になって死んだ人の誕生日だったの。世界で一番有名な誕生日ね。
その日は家族みんなでヴェラベッカを食べるのが、修道院でも私の故郷でも風習だったし、一年で一番楽しみな日だったわ。
この時ばかりは味なんて全然わからなかったけども。
「まず紹介するね。こちらはミミクリ様、私の魔王です」
ネメシスが右腕を横腹に寄せるように折り畳んで、掌を肩のあたりで上に向けると、ベッドくらいある木箱みたいなものを被った人間っぽい巨大な生き物がのったりと歩いてきて、木箱を開いて巨大な舌を出しながら上下に振ったの。
「ミミクリ様は宝箱の魔王で、宝箱になんでも持ってこれるの。遠く離れた場所にある物でも、人でも、食べ物でも。私が欲しいと思って、実際にそこにあるものはなんでも」
ネメシスが右腕を掲げると、ミミクリ様と呼ばれた木箱の化け物が地面に寝そべるようにうつ伏せになって、犬みたいに頭というか木箱を撫でられて、わんって鳴いたのよ。
魔王ってわんって鳴くのよ、ちょっと腹が立ったわ。
「でね、前に水をグラスに注いでて思ったの。グラスが私として、水差しが魔王だとしたら、この水差しに当たるものが色んな種類あったら便利でしょ。便利でしょっていうか、多分だけど1種類だと人間って滅ぼしきれないの。みんなは力の魔王とか飢餓の魔王とか炎の魔王とか色々言ってたけど、力があっても手の届かないところはどうしようもないし、飢餓が起きても溜め込んだ食糧はどうにも出来ない、炎に至っては川を挟んだらおしまいだし。それに魔王がいるなら神様たちもいるに違いないから、神様もどうにかしないといけない」
ネメシスが雑な身振り手振りであれこれ説明してくれたけど、言葉は耳に届いてるけど私の中にまで届いてくれない、そんな感じだったわ。
だって色んな種類の魔王があったら、とか意味わからないでしょう。今でもわからないわよ。なに言ってるのって、鼻で笑うわよ。
「で、ミミクリ様と正式に契約する前に色々試したの。なんでも持ってこれるっていうのは、例えば過去とか未来からも持ってこれるのかなって。パンを食べた後に食べる前の時間にあったパンを持ってこれるのかとか、物置のドアノブを何十年も先から持ってこれるのかとか。それが出来たら、次は生き物は持ってこれるのかとか、死んじゃった犬とかこの先生まれてくる赤ちゃんとか」
いくつかは覚えがあったわ。修道院で起きた不思議な出来事に思い当たるものがあったの。
「で、それは出来たんだけど、ここからが本番。例えばそうだね、人生で1回だけ登山に行くとして、東の山と西の山があって、どっちかの頂上に旗でもなんでもいいから刺すとするよね。未来の私がもし東の山に行ったら、西の山の頂上には旗がない。だけどもしも、西の山に行った方の未来、こっちからも旗が持ってこれたら旗は2本になる。あっちに行ってみよう、こっちにしよう、あの時こうしていれば、この時こうだったら、世界は未来も過去も今この瞬間も、無限に枝分かれしていて、そのひとつひとつが世界として存在してたら、パンもナイフもお金も武器も、なんだって好きなだけ持ち込み放題だ」
ネメシスの手から何十個ものパンに何十本ものナイフ、何百枚もの銅貨、幾つもの剣や斧が溢れるように落ちてきて、それを私は茫然と眺めてたわ。
このあたりで、もう完全に理解するのを諦めていたのね。
「もちろん魔王も例外ではなかった。ミミクリ様を選ばなかった別の世界の私から魔王を借りれるとわかって、ミミクリ様を選んだけど朝食を食べなかった世界の私が、また別の世界の私から暴力様を借りて、あ、暴力様っていうのは剛腕の魔王で単純に強いんだけど。見せた方が早いよね」
ネメシスの手から巨大な4本の腕を持った髭の豊かな大男が現れて、
「こちらが暴力様です。魔王の中でも純粋な膂力では一番なので、色んな世界の私がお世話になってるの」
手をひらりと振り回して、暴力様と呼ばれた大男を消してしまったの。
「色んな世界でそれぞれ違う魔王と契約したり、色んな世界から魔王を借りたりしながら、666の魔王をすべて借りて神様をどうにかしたのね。もちろん何回も失敗したし、上手くいかない世界のほうが遥かに多かったんだけど、でもどこかで必ず上手くいく道があったから。全知全能の神様も大したことないね」
そう言って笑いながら、地面から湧き出るような腐臭と血の臭いを漂わせて、両手足を千切られて、鼻と耳を削がれて、瞼を縫い付けられて、ほとんどの歯が折られた芋虫のような巨体の中年男が現れたわ。
今まで見てきた中で一番みじめで惨たらしい姿だって思った。どんな罪を犯したらこんな酷い目に遭うんだろうってくらい、痛々しい姿をしてたんだもの。
「ドロテア、これがみんなの親や兄弟を見殺しにしたくせに、えらそうに許しだけは与えてくれる全知全能の神様だよ」
初めて見た神様の姿は酷くみじめで惨たらしく、かといってこいつを信じた人たちがどれだけ人生を狂わされた考えたら、少しも同情できなかった。
魔女狩りで吊るされた人たちも、魔女狩りで吊るした連中も、みんなこいつを信じて、神への信仰として祈り、感謝し、疑わしい者を殺していったのだから。
「それでね、これは神様がいなくなった世界の魔王から教えてもらったんだけど、人間ってどうしようもなくて、神様がいなくなっても勝手にそれっぽい神様を想像して崇拝するし、詐欺師が神の代弁者を称して宗教を作るし、悪人を片っ端から殺していっても悪い奴はいつの間にか出てくるし、全滅させる以外なにやっても変わらないってことがわかったの」
ネメシスが呆れた顔で首を傾げて、全知全能の神様の頭の上に腰かけて、
「だからさあ、みんなで魔王とか諦めて、このままのんびり暮らそうよ」
そんな身勝手なことを告げて、いつものように微笑んだの。悪意もなにもなく、ただただ本心か思い付きでそのままに。
私? もちろん怒ったわよ。
私たちはそれまで、復讐するためにここまで頑張ってきたんだから。痛みに耐えて魔痕を刻んだのも、吐き気と気持ち悪さに耐えて生贄の儀式を行ったのも、色欲に溺れた修道士に身を捧げたのも、すべてあいつらに復讐するためだったもの。
だからネメシスの提案を許せなかったの。私は拳を握って殴りかかって、ネメシスの顔を叩いたわ。前にも同じように叩いたけど、あの時とは意味合いが違う。これは誇りと意地を乗せた1発だったの。
左腕の肘から先は持っていかれたけどね。
あの子はそういう奴なのよ。きっと頭の中の線が1本も2本も足りないんだわ。
ネメシスと出会ってからというもの、目が覚める時は必ず悪夢を見たわ。
真っ暗な闇の中であの不気味な鳥がグワッグワッて大声で鳴いて、背後から伸びてくる無数の腕が私の大事なものを全部奪っていくの。お父さんもお母さんもマザーもイザベルもミリアムもモリーもシビルもグロアもカメリアもドリーンも、ひとり残らず連れていって、私はひとりぼっちになって泣き喚いて目を覚ます。
でもまだ夢は醒めてなくて、覗き込むように緑色の髪の毛を垂らして、やつが微笑んでいるの。
「わあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「うるさい」
叫び声を上げながら目を覚ます私を、ネメシスがぴしゃりと額を叩いて起こした。
窓の外では首に縄を掛けられた修道士たちと、神の信徒たる教会の司祭たちが同じく首に縄を掛けられて吊るされていた。
「落ち着いて聞いて、ドロテア。魔女狩りの連中がここまで来たの。もちろんみんなを捕まえて殺すためなんだけど」
「なんで? 悪魔を崇拝してたから?」
「そう。ミミクリ様に教えてもらったんだけど、この修道院は魔女を育てて売り払う施設なのね。魔女狩りにたまに本物の魔女が混ざってたら、なんていうか説得力が増すでしょ。そのために育てられて、教会から援助を受けて成り立って、16歳になったら町に放り出して、魔女狩りの連中に追いかけさせる。悪魔と契約させるのは、より魔女らしくさせるためにね」
ネメシスはいつものように淡々と秘密を告げて、私の契約していた小鬼を引き剥がして、私に向かって静かに微笑んだの。
いつもより少しだけ優しさを感じたわ。でもきっと気のせい、或いはただの気まぐれね。
おまけみたいな気まぐれで一緒に山を下りて、山のふもとの町で大食い様が暴れて、食べ物も家畜も人間もなにもかも食い散らかして回って、その混乱のどさくさに紛れて逃げた。
私は疑われることもなく、手足に大怪我を負った負傷者として運ばれて、怪我が治ったら木製の義足と鉄製のフックを用意してもらって、久しぶりにゆっくりと眠ったわ。
夢の中では異教徒の肌の色も服もなにもかも違う大商人が口から金貨を吐き出し続けていて、それを両手で掬い上げるんだけど、手から毀れる金貨が1枚、また1枚と私の上に転がって、やがて重さに耐えきれなくて寝返りを打ったところで目を覚ましたの。
その後は大金持ちになって、足が悪くても暮らせる庭付きの館を立てて、雇った使用人と恋に落ちて、息子が生まれて、勿体ないくらい出来た嫁がやってきて、孫娘が生まれて、ようやく復讐に囚われてた人生に光が刺した気がしたわ。
「魔王はいないわ、もちろん悪魔もよ。大昔に神様が勝利して、ひとり残らず地上からいなくなったの。クラッターバック家の家名に誓って、嘘偽りないことを誓うわ。だから安心して眠りなさい」
「はーい」
孫娘を部屋に戻らせて、テーブルの上のヴェラベッカを齧った。
私はちょっとだけ嘘をついた。
魔王はいるし、悪魔だってきっと今もいるに違いない。神様は勝利なんてしてないどころか、両手足を失って、鼻も耳も削がれて芋虫みたいな姿で転がってた。
神様がいなくなっても教会がいくつ壊されても魔女狩りは止まらないし、新しい妄想と信仰は増え続けるし、人間は全滅させない限り悪をやめることが出来ない。
今こうやって生き延びてるのは、きっとあの子の、魔王の気まぐれで、もしかしたら他の世界のように滅ぼされてしまうのは本来ここだったのかもしれない。
「母さん、こんな夜中にお客さんが来てるんだけど」
「お客さん? 誰かしら?」
「わからないけど、若い女の子だよ。瞳が緑色で髪が赤錆色で伸ばしっぱなしの」
「……帰ってもらって」
なにしに来たのよ、どういうつもりなの。
息子に伝言を告げて、暖炉に薪をくべて炎をじっと眺めていると、暖炉の横からすうっと、まるで亡霊か妖怪の類みたいにネメシスが入ってきた。
息子から聞いた通り、まだ年若い、20歳かそこらくらいで成長の止まった姿をしている。
「あんた、相変わらずなんでもアリなのね」
「いや、家に入れてくれないから」
「その姿のことよ。なんなの、ババアを笑いにでも来たの? それとも嫌なことでも報せに来たの?」
「うん。それでね、ちょっと訊きたいことがあって」
ネメシスがテーブルの上のヴェラベッカを一口齧って、
「ドロテア、あなた今夜死ぬんだけど、明日この世界滅ぼしていい?」
「え? 私、死ぬの?」
え? 私、死ぬの? それでこいつ、そんな大事なことをこんなにさらっと伝えてくるの?
「うん。それでね、私たち友達じゃない。友達が生きてる間は人間滅ぼすのやめようって決めてたんだけど、今日で死んじゃうから明日からどうしようかなって」
ああ、この子、私のこと友達だと思ってたのね。普通は友達の腕1本と足2本、持っていったりしないんだけど。
悪い冗談であって欲しいけど、この子が昔のままなら冗談を言わないことは私がよく知ってる。
「冗談、とかじゃないのよね」
「もちろんだけど」
そう、本当に死んじゃうのね。悔いばっかりだけど、死ぬんじゃしょうがないわね。
「孫がね、最近お友達が出来たの。それに息子の嫁のおなかにね、弟か妹がいるの」
「あ、そうなんだ。生まれるまで待つ?」
「もっと待ちなさいよ! あんたね、人間滅ぼしたいの?」
こいつに人間らしい情緒を期待した私が馬鹿だったわ。そうよね、中身はすっかり、いや、元から悪魔か魔王と違わないもの。
「孫が死ぬまで、もし孫に子供がいたらその子供が、その子にも子供や孫がいたらその孫が生きてる間は、いいえ、私の血筋が途絶えても、この世界を壊さないで。一生のお願いだから」
「一生のお願いって、もうすぐ死んじゃうけどね?」
「あんた、ぶん殴るわよ。もうね、右腕持っていかれても平気なんだから。死を覚悟したババアに怖いものなんて無いのよ」
ネメシスがくすりと微笑んで、テーブルの上のヴェラベッカをもう一口齧った。
「いいよ、友達のお願いだからね」
それからゆっくりと目を閉じたの。
少しだけ夢を見たわ。真っ暗な夜の空から、幾つもの光の柱が降ってきて、欲深い連中や信仰心を抱えた連中が吸い込まれていくのを椅子に揺られながら眺めて、なにもかも息子たちに渡して手放しててよかった。
そんな風に思って、夢の中でも静かに目を閉じたら、あの気味の悪い鳥が大口開けて泣き喚いてて、意外とかわいいものね、なんて思いながら死んだわ。
梅漬け梅おにぎり梅昆布茶
大学生になったら何か始めよう、せっかくひとり暮らしを始めるんだから今までやったことのないことをしよう。
そうだ、どうせ人生も世の中も泥みたいなのだから、せめて作り物でもいいから愉快な世界で過ごしたい。
仮初めでもいいから違う生き方を見てみたい。
いや、実は高校の頃からそう思ってたけど、うちの高校には演劇部も映研もなかった。
それでもどうにかやってみたいと台本を書いて書いて書き続けて、朝の通学時間も昼休憩も家に帰ってから寝るまでの時間も、書いて書いてひたすら書き続けて、積み上がったお話の数は300本。
その結果、公演できなかった文化祭、誰も入らなかった演劇同好会、気がつけば友達が一人も出来なかった高校生活……。
梅ノ木文(うめのきあや)、作家志望! 大学こそは好きなことをやってやる!
そう決意して入った演劇部で、私は今日も今日とて台本を書いているのだけど……
「馬鹿! しね! 二度と顔見せるな!」
タブレットのキーをコツコツと叩く私の目の前で、部内のカップルその6だかその7だかが、喧嘩系格闘イベント・ブレイキングアップのオーディションも真っ青な勢いで喧嘩をしている。
女子の方の右のショートフックが顎に入った辺りで、よし今だマウントとってパウンドだ、とか考えながら見物していると、立ったままの左のローキックでテクニカルノックアウト。
罵声を浴びせて女子が出ていって終了、で決着してた。
こいつら、夜もさぞ激しかったんだろうなー、なんてどうでもいいことを思い浮かべながら、引き続きタブレットの画面に視線を落とすと、イライラとフラれた悔しさと行き場を失った性欲をごちゃ混ぜにして鍋で煮込んだような顔をした男子が、なんかぶつぶつ言いながら立ち上がり、
「梅ノ木! 見てないで止めろよ!」
なんか私に苛立ちを投げつけてくる。
しかし私は忙しい。別に意識高い系でもないけど、お前らみたいな部活しに来てんのか、くっそ長い前戯しに来てんのかわからん連中と違って、私には締め切りってのがあってだね。
「知らないよ。痴話喧嘩ならよそでやって、邪魔」
そう、見たくもない部内の痴話喧嘩なんて、ネタにも出来ない上にめちゃくそに邪魔なだけ。じゃあ、もうそれって存在価値ゼロじゃん。
部内カップル。
演劇部において最悪の概念のひとつ。
運動部ならどれだけ好いた惚れたのやったやられたので揉めても、男女が同じ場面でセットになることが少ないからまだいい。
単独行動できる系の文化部でも、空気がカメムシの巣みたいになるだけで問題ではない。
しかし、男女がどうしても同じ舞台に立って、しかも別人になりきらないといけない演劇というジャンルにおいては、最悪に致命的なバッドトラブルをもたらす、空を飛ぶゾウのうんこみたいな存在なのだ。
おまけにそのうんこは、仲良くしててもそれはそれで周りは距離感に困るし、ギスギスしてたら歩く地雷原みたいな感じになって非常に困る。
公演当日の本番に私生活のくだらないうんこを持ち込まれた日には、睡眠時間削って書いた台本とか、単位とバイトの間で頑張ってきた役者陣の努力とか、舞台成功のために頭とセンスをフル回転させてきたスタッフの苦労とか、そういうのを全部水の泡にしてくる。それもジャグジーのフルパワーな勢いで。
公害でももうちょっと気を遣うんだから、せめてバッドな部分を隠すくらいはして欲しい。
「なんで喧嘩してるか知らんけど、ちんこのお相手探しに来てんなら飲みサーにでも入ってきなよ」
正直言って迷惑だし邪魔だし時間の無駄。ゴミ以下の不良在庫。
もうね、私はそんな連中に辟易してる。
辟易しすぎてゲボ吐きそうだし、うっかりメンヘラ文豪にだってなりそう。
思い起こせば1回生の春、入部早々3回生の先輩カップルが喧嘩して空気が最悪だった。
初めて台本が採用された1回生の夏公演の頃には、同期のカップルAとB、それに先輩カップルCが揉めて空気が最悪だった。
意欲的な話を書き上げた1回生の秋の学祭も当然空気は最悪で、学年を超えて相手を変え続ける性欲モンスターがまた新しい関係を形成して、同期から上まで繋がる竿姉妹とか穴兄弟がちょくちょく誕生して、部内の人間関係はまさにクソ煮込みうどんだった。
ヤの人の盃は血よりも濃い水なんて言うけど、演劇部のただれた人間関係は血よりも濃い関係だ。同じ釜の飯を食う同志であり、同じ穴と竿を使う同志でもあるわけ。
私はこいつらを、ちょっとおしゃれに劇団テルソリウムと呼んでいる。
知ってる?
古代ローマで使ってた棒に海綿くっつけたもので、尻を拭いた後で塩水に浸して他の人も使う公衆衛生なんぞやなケツ拭きロッド。それの人間版。
そんな地獄の1回生を乗り切って2回生の秋、我が演劇部は壊滅寸前のピンチに陥っていた。
部の清涼剤だった先輩が夏で引退して、あっという間に空気に耐えきれなくなった同期が辞めて、後輩もどいつもこいつもって感じに青春を謳歌して、つい先程1組の穴と竿が退部した結果、
「これで部に残ったのは3人だねー」
部室の隅っこで小さくなって、海綿人間どもの喧嘩を見届けていた唯一残った1回生、桜淵陽菜に話しかける。
桜淵ちゃんは非常にいい子で、なにがいいってちゃんと秩序とか倫理を持ってる辺りが素晴らしい。
おまけにやる気もあるので、他の性欲モンスター共と違って、なんかもう生きてるだけで100点オーバー。
そしてもう一人、今日は来てないけど同期の桂田君が残っている。
桂田君は高校の頃から付き合ってる遠距離恋愛の彼女がいるので、仮にそこで喧嘩をしても物理的にそんなに影響がない素晴らしい人材だ。
しかも大道具担当の裏方専門なので、公演当日にメンタルに左右されない点も素晴らしい。
ふたりともこのまま末永く、私の足を引っ張らないでいて欲しい。
出来れば永久に。
「桜淵ちゃん、今から飲みにいこーぜー」
とはいえ先輩2人に同期0人は気の毒過ぎるので、飯でも奢ってあげようって気になったのだ。
というわけで駅前の劇団員御用達のバー『ハムレット』に来ている。
ちなみにハムレットはシェイクスピアから来てるのではなく、マスターが作るハムのオムレットが安い上に絶品だから。
なので見当違いに近所の売れない劇団員が集まるようになって、いつの間にか演劇関係者が頻繁に出入りする店になったらしい。
テーブルの上に私の頼んだチーズとハムのオムレットとウィスキー、桜淵ちゃんのホウレンソウとハムのオムレットとジンジャーエール、それにミックスナッツとチョコレート。
「先輩、これからどうするんですか?」
桜淵ちゃんが呆れたようにオムレットを食べながら、私に瞼半分くらい閉じたジト目を向けてくる。
「どうするって、そうだねー。これが芝居だったら、辞めてった連中に胸襟開いて熱いメッセージでもぶつけて説き伏せて、みんな戻ってきて大円団、ってとこだけど」
「でも、どうせそんなつもりはないんですよね?」
当たり前だ。正直言って、あいつらに戻ってきてほしいって欠片も思ってない。創作と恋や性欲を天秤に掛けて、創作が負けるような奴に用はない。
これまでもこれからも用はないんだよね。
私は黙って頷いて、オムレットを齧ってウィスキーをひとくちふたくち。
桜淵ちゃんは引き続き呆れたような、そこに困りと不満をスパイスしたような顔でチョコを摘まんでいる。
「心配しなくても大丈夫だよ。私が役者ひとりでも成立する台本書いてあげるから」
「いや、だったら先輩も舞台に立ってくださいよ」
「やだ!」
もちろんそんな提案は却下だ。世の芝居馬鹿の中には台本書いて演出もやって役者もする、なんて物好きなハードプレイヤーもいるけど、私はそのタイプではない。そのタイプではないっていうことは、それを面白いと思わないってことなのだ。
はっきり言って、私は自分の書いた世界が好きだ。当然だけど、面白いとも思っている。
だけどそれでは物足りない。全然物足りない!
私は自分で世界を作りたい、でも同時に世界の壁を壊したい。
自分の考えた世界を自分で演じても、それはどこまで上手に演じても、自分の頭の中に思い浮かべたものの再現でしかない。
そんなもので満足できるほど、私は自分にも自分の人生にも期待してない。
私の考えた世界を、私以外の誰かの脳みそにぶち込んで体の隅々まで流し込んで、考えもしなかった発想と解釈を皿の上に乗せてもらって、それを目の前で見物するのが望みなのだ。
「だったらみんなに協力してもらえるように、もうちょっと優しくしましょうよ」
「私は優しいよ、公園で鳩にパンあげるし」
「そうじゃなくて、みんなにも優しくしましょうって話です」
え? 今でもちゃんと優しいよ?
桜淵ちゃんが言うには、私はあまり優しくない、らしい。
他人には全然興味がないし、色恋沙汰には耳を傾けないし、その手の悩みはくだらないと切り捨てる。おまけに不真面目な人には徹底して冷たいし、台本のネタにならないと判断したら一気に扱いが雑になる。あと根本的に恋愛に浮かれてる人たちを心の底から軽蔑してる。
「うわぁ、酷いやつだねー」
「先輩のことですよ」
どうやら私のことらしい。いや、まあ自覚はそれなりにあるんだけど。
でも、そこまでとは思ってなかったというか。
ウィスキーをロックのダブルで4杯5杯、いい感じに酩酊入ってきた私の前に、いつの間にか演劇部最後のひとり、桂田君がいるではないか。
「あれ? なんで桂田君がいるの?」
桂田君がため息混じりにレモンサワーを飲みながら、ぐでんぐでんになってる私を見て、再びため息をひとつ。
「迎えに来たんだよ」
迎え? 私をか? なんで?
「いや、大丈夫だよ。私の家、すぐそこだし」
私の家はハムレットから徒歩1分、道路を挟んで目の前のアパートの1階だ。どれだけ泥酔しても帰れなかったことはないし、そもそもまだ泥酔まで至ってない。
まったく桂田君め。性格がいいとは思ってたけど、ここまでとはねえ。
ん? もしかしてこいつアレか? アレなのか?
確かに付き合いも長いし、演劇部で苦楽を共にしてるし、公演前の徹夜で物理的に同じ釜の飯を食ったこともあるし、もしかしてそういうことなのか?
いわゆるラブってやつなのか?
だったらアイスピックで頭かち割るぞ。
目を覚ませ、馬鹿!
舞台上以外に恋とか愛とか持ち込むな! 死ぬぞ!
「いやいや、お前じゃねえよ」
頭の中で色ボケた桂田君をどうやって始末しようか考えていると、桂田君が桜淵ちゃんの鞄を持ってあげて、私の前にだいたい二人分の会計を置いた。
「あ?」
「じゃあ、俺ら帰るから」
「先輩、ちゃんと家に帰ってくださいね」
ちょっと待て。なんで桜淵ちゃんが桂田君と帰るの? どういうこと?
「え? 君たち、もしかしてアレなの? そういう関係なの?」
「アレが俺の考えてるのと同じアレだとしたら、まあそういう関係だが」
桂田君がしれっと答えるし、なんだったらさりげなく手とか繋いでやがるし、じゃあもうアレ確定じゃん。男女の仲ってやつじゃん!
「桂田君、お前、遠距離の彼女いなかったっけ?」
「1年以上前に振られたが?」
私の中の桂田君情報が1年以上アップデートされてないのも意外だったけど、でもそんな話を聞いた覚えもない。同じ釜の飯を食った仲間に対して水臭過ぎない?
「だってお前、そういう話題になったらタブレットとタバコ抱えて、ゴミ捨て場を見るような目でどっか行ってただろ」
そういえば、部活の連中とそんな話したこと1回もないような。
「ちなみに夏休み頃からです」
桜淵ちゃんが若干言いづらそうな顔で呟く。いや、別に私は部活内恋愛撲滅委員長とかそんなのではないから、特に怒ったりしないよ。
くそくっだらない揉めごとを持ち込んだら軽蔑するだけで。
「つまりふたりは、私がエアコン壊れた部屋で扇風機ひとつで滝汗かきながら台本書いてる間に、お互いに愛を確認したりキスしたりコンビニでコンドーム買ったり朝からセックスしたりしてたわけだ……」
「お前、めちゃくちゃ嫌な言い方するな。ほんとそういうとこだぞ」
「先輩、ほんとそういうとこ直した方がいいですよ」
だって、そういうことなんだろーがよぉー!
天井がぐるぐる回ってる。
私の都合と関係なく今日も世界は回っている。
二日酔いだろうが頭が痛かろうが、いよいよ部員が誰もいなくなろうが、私の視界がぐるぐるしていようが、それでも世界は回り続ける。
あれから私は完全に泥酔するまで飲んで、地べたを這いつくばる生き物に生まれ変わって10分くらい掛けて部屋に戻り、中身はよく覚えてないけど悪夢にうなされながら眠った。
枕元にはなんかべちゃっとしたものが落ちてる。きっと悪夢に出てきた悪魔か何かの仕業に違いない。
「……台本書かなきゃ」
無意識のうちに出てきた言葉は、それでもやっぱり創作意欲だった。
もしかしたら意欲とかそんな前向きなものではなく、意地とか義務感とかそういう呪いのようなものかもしれない。
どっちみち書く原動力だから構わないんだけど。
枕元のべちゃべちゃを雑ながらも念入りに処理して、自分の胃袋が空っぽになってて腹が減ってることを自覚してしまったので、パックのごはんをレンチンして、冷蔵庫の中に入ってる梅漬けと一緒に握る。
それと梅昆布茶。
自分の名前が名前なので駄洒落みたいで嫌なのだけど、梅は結構な創作の友だ。人によっては檸檬だったりキウイだったりするらしいけど、いつでもなにかに疲れてバテ気味の私は梅が丁度いい。
はて、私は何に疲れてるんだろう?
台本書くのに?
自惚れではなく無限に書ける自信がある。
だったら人間関係?
別に疲れるほど心を開いてないよね。
演劇に飽きた?
まだ飽きるほど場数こなしてないわ。
人生?
人生にはとっくに疲れてるけど、疲れてるのが普通だから多分そうじゃない。
駄目だ、これ答え出ないやつだ。
私は雑念を払うために梅昆布茶をすすり、若干ゆらゆらと揺れる頭を頬杖ついて支えながら、タブレットに文字を打ち込み続ける。
カタカタカタカタと小気味よくキーを叩く。私がこうやって文字を打ち続けて言葉に変えて、言葉を連ねてシチュエーションを作って、シチュエーションを束ねて物語を生み出している間に、あいつもそいつもどいつもこいつも、恋だの愛だの甘酸っぱい青春ごっこやって、呆れられたり別れたりして周りに迷惑かけまくってるんだ。
ふざけんな、そんなやつらが創作出来るとか自惚れんな!
満足してるやつらが、面白いもの作れるわけねえだろーがよぉ!
そんなどこから生まれるのかわからない謎のパワーで書き上げた台本を抱えて、3日ぶりに部室に行ってみると、私がちょっと缶詰してる間に恋愛研究会とかいう、世の中の浮ついた粘っこい上澄み液をかき集めたような団体に乗っ取られてた。
どうやら部員がひとりだけになったせいで、部として成り立ってないので廃部。
そのまま私は行き場のない野良犬のような状態になってしまったし、一応それなりに伝統ある演劇部は私の代であっけなく潰れてしまったのだった。
っていうのが、何年前だっけ? 10年くらい前? もっとだっけ?
あれから私は結局大して芽が出ることもなく、真っ当に自分の劇団を作れたわけでもなく、ギリギリ人間レベルにまで鍛え上げたコミュ力をフルに振り回して、どっかの劇団に台本を使ってもらったり自主製作映画で使ってもらったりしながら、あとは適当に生きている。
未だに人間の幸せなんてものには縁はなさそうだし、恋だの愛だのに溺れるつもりもないし、そんな暇があったら1本でも1ページでも話を書き進めていたいって思ってる。
仮にこのまま何も成せなくても、それはそれでひとつの人生なのかもしれない、って考えたりもする。
私もこんなでも、それなりに年を取ったから。
そう、年を取ると色々あるのだ。
色ボケ共が破局したり、子ども作っておいて離婚したり、生涯の愛を誓ったのにあっさり不倫したり、そんな本能に正直に生きてる知り合いを見る度に、こんなのになるくらいなら一生部屋で創作してればいいやって思えたりするのだ。
「というわけで桂田君、この度はご愁傷様でした」
私にとってはいつものハムレットの、彼にしてみれば卒業以来のテーブルに座って、ものすごく久しぶりに目にした同期の顔を眺めている。
くっそ疲れた顔してるなあ、離婚ってエネルギーめちゃくちゃ使うんだなあ、なんて考えながらニヤニヤと笑っていると、
「梅ノ木さんは、ほんと相変わらずだな」
桂田君が眉間にしわを刻みながら、瞼を押し下げて、目じりを中央に寄せて、ぎゅっと凝縮した般若のような顔をしている。
「それは年の割に若いってことかな?」
「性格が悪いってことだよ! なにがせっかく離婚したんだからネタ提供しろだ、この非常識台本バカ!」
「まあまあ、嫌な気持ちは浄化したほうがいいって言うじゃん。御祓いにでも行ったと思って、ぬかるみから上澄み液まで全部喋りなよ」
私はノートパソコンのキーをタタンと叩いて、かつての戦友の恥部を覗くために目をしっかりと見開いたのだった。
勇者に聖剣を渡すために魔王の城のすぐ目の前で50年孤立無援で待ち続けたら歴史に名を残す伝説の老人になりました
ここは魔王の陣営の奥深く、並大抵の人間の勢力では辿り着けないような凶暴で凶悪なモンスターたちの生息地。
神は私にこう言った。やがて魔王を倒す勇者がここを訪れる、その時にこの聖剣を渡すのだ、と。
遥か昔、人間が初めて完成させた鉄製の剣に破邪の加護を与えた聖剣。持っているだけで邪悪なものを寄せ付けないという、聖剣の名に違わぬ逸品だ。
最初はそんな大役を任された名誉に、胸の奥が高鳴ったりもしたが、1週間もすると神を呪うようになった。どうして私をこんな場所に残したのだ。周りは恐ろしい亜人とモンスターばかりだ。
毎日恐怖に震えながら、勇者が現れるのをただただ待ち続けた。
10年の時が経った。なかなか勇者は現れない。当然だ、魔王の軍勢は強い。聖剣の力で結界が貼られていて、モンスターも亜人も俺の小屋には入ってこれない。いつしかモンスターや亜人への恐怖感も薄れ、やがて向こうも食らうことを諦めたのか、近所の変人に話しかけるかのように挨拶をしてくるようになった。
20年の歳月が過ぎた。ここに来た頃は二十歳そこそこだった儂も、老いを実感するようになった。顔見知りのゴブリンはいつの間にか父親になっていたし、村の長老は別のトロールに代わっていた。所帯を持ったらどうだと言われたので、美人のエルフを紹介してくれと答えたら鼻で笑われた。儂の顔面は彼らの価値観ではブサイクらしい。
30年もの時間が経った。勇者に会うまでは死ぬわけにはいかない。そう考えた私は1日のほとんどを健康維持に費やすようになった。食事にも気を遣うようになったし、規則正しい生活と適度な運動を常態化して、年の割にあいつは元気だ、と噂されるようになった。いつしか村の年寄りや不摂生な若者をなんとかしてくれって頼られるようになり、週に何度かは健康教室を開いて、村の亜人たちとの仲はさらに深まった。
けれど、美人のエルフはまだ紹介してもらえない。
そして50年を経た私は、ひとつの確信に至った。
これ勇者来ねえわ、と。
鞘に納められた聖剣は、今では立派な物干し竿だ。タオル、服、褌、ありとあらゆる布切れを干すのに活躍し、時には獣肉や魚を吊るし、下から煙でいぶされる。嵐の日には雨戸が開かないようにつっかえ棒にもなったし、腕を怪我した時には添え木にもなってくれた。
思い返せば聖剣というものは便利なものである。包丁にも鉈にもなる。髪を切り、髭を剃るのにも便利だ。今では爪切りとしての役割も外せない。
それに結界のおかげで安全に時間を掛けて、ゆっくり親睦を深めてきた亜人たちとも、ある意味で聖剣よりも強固な絆が出来上がってきた。
ゴブリンのドナルドはいい年して無職だし歯もガタガタで3本しか残ってないし髪も剥げ散らかしてるけど来月40人目の子どもが生まれる、オークのフェルディナントはドブ川で拾ったパンティーをかぶって村中を裸で走り回る露出狂だけど嵐の日には誰よりも先に川の様子を見に行ってくれる、トロールのラジリーノフは他人の飯を勝手に一口ずつ食べておまけにその一口がダチョウの卵くらいでかいけど将来は魔王軍の幹部になるんだって今日も拳よりもでかいイボ痔をピカピカに磨いてる。
どいつもこいつも根はいいやつだ。もし勇者と魔王が手を取り合うことがあれば、彼らに故郷の町を案内してやろう、そう思うようになってきた。
しかし運命は皮肉だ、ついに私のところに勇者が現れたのだ。
「聖剣じいさん。こちらが人間の勇者だ。今日は魔王軍と人間の王国の共同開発の視察に来られたので、くれぐれも失礼がないように」 そう説明するのは魔王軍の幹部として勇名を轟かせる四魔四強のひとり、牛の頭に屈強な亜人の体、ミノタウロスのブエトーロだ。 普段は自由奔放過ぎるほど自由に振舞っている村人たちも、今日はちゃんと服を着ているし、直立して姿勢できちんと並んでいる。間違っても股間を掻き毟ったりしていない。 そんなことより共同開発ってなんだ? この牛男は何を言ってるんだ? 「ブエトーロ殿、共同開発とはいったい?」 「ん? 僻地の村はまだ知らなかったのか? 魔王様は20年前に勇者の勇気と力に敬意を表して、人間の王国との和平を約束された。その後、我らは人間の王国と同盟を結び、交流を深め、互いの技術と文化のさらなる発展のため、この度新しく横断鉄道を建設することになったのだ」 言っている意味はさっぱりわからないが、どうやら人間と魔王の争いは20年も前に終わっていたそうだ。嘘だろ、おい、ふざけんなよ。だったら、なんで連絡のひとつもこねえんだよ。神はどうした? 40年前に死んだ? 死んでんのかよ。じゃあ、しょうがねえな。しょうがなくねえわ。 天を仰いで苦悶の表情を浮かべる私に、ドナルドが3本しかない歯を剥き出しにした笑顔で、そっとリンゴを手渡してくる。お前は歯も髪も仕事もないけど、ほんとにいい奴だな。 「ご老人、その腰に提げているのが聖剣ですか?」 まだ30代半ばであろう、背が高くて顔立ちも整っていて声まで清潔感のある、まるで非の打ちどころのない男が話しかけてくる。 なるほど、こいつが勇者か。いかにも勇者って顔してやがる。 「あなたが勇者様ですか。これが神より授かりし伝説の聖剣です。あなたがこの地に来られるのを心よりお待ちしておりました。どうぞ、この聖剣で世界を平和に、あ、世界はもう平和になってるみたいですけど、魔王をたお、いや、同盟結んでますね、そうだ、勇者様に相応しい一振りとして、その腰に提げられてはいかがでしょう」 正直、聖剣を渡したところで、もう使う場面がないんだよな。むしろ、この聖剣が魔王との火種になるんじゃないか。なんせ伝説の聖剣だ。神より授かりし逸品だ。きっと凄まじい威力を持つに違いない。普段は大根斬ったり髭そったりしてるけど。 「ほほう、これはかなり古い剣ですね。攻撃力は22、店に売ればそれなりの金額で売れるでしょう」 「勇者殿は鑑定の目もお持ちだったか。まさに武芸百般、人間に生まれたことが実に勿体ない」 聖剣を眺める勇者と牛男を見上げながら、はて、攻撃力22というのはどのくらいのものなのだろうか。その辺のゴブリンが使ってる鉄の剣が3くらいだろうか。牛男の腰に提げた斧が5くらいか。 と想像を巡らせていると、 「ドナルド殿の鉄の剣、これは攻撃力25ですね。まあ、そこそこ普通の剣です。ブエトーロ殿の斧は、攻撃力80程かと。さすが魔王殿の幹部だけあって立派なものをお持ちだ」 ちょっと待て。ドナルドの剣が攻撃力25で、聖剣がたった22で、牛男の斧が80もあるだと。じゃあ何か、この神から渡せって頼まれた聖剣は、魔王から無条件で支給される鉄の剣とどっこいどっこいってことなのか。 そんな評価を下されると、これまで宝石よりも人生よりも輝いて見えた聖剣の放つ光が、途端に夕飯の後の消えかけの焚き火くらいにしか見えなくなってくる。 「あの、勇者様。この聖剣は正直いかほどの物なのか。忌憚のない評価を教えていただけますか」 私は勇気を振り絞って、聖剣の正しい評価を尋ねた。この時の勇気、これこそが勇者なのではないだろうか。違う? うるせえ、だったらこんな聖剣を持つ身になってみろ。 「まあ、拵えの荒い鉄の剣に結界をセットした程度のものですね。50年も前なら貴重だったかもしれませんが、武器としては兵士に支給される鉄の剣のほうが性能は優れています。結界を張る道具も一般人にまで普及されていますので、あえて今の時代に使う必要性は感じられませんね。まあアイテム欄をちょっとでも開けたい人向けの剣かと」 おい、勇者。こっちは50年も待ってたんだぞ、もうちょっと絹パンツに包んだような物言いをしろよ、この野郎。こっちをただのジジイだと思ってなめてんのか。健康体操で鍛えたこの拳で、ばっちんばっちんいわせたんぞ、この野郎。 「ちなみに僕の使っているエクスカリバーですが」 勇者様は勇者様だけあって勇者っぽい名前の武器をお持ちですなあ。さぞ、お強いんでしょうなぁ? 攻撃力は100くらいですかぁ? ああん? 「攻撃力は220です」 なんだよ、その馬鹿みたいな数値は。ふざけてんのか。作ったやつ出てこい。糞をぶっかけてやる。 「ちなみに僕が魔王との決戦のために鍛えました」 おめーかよ、自作かよ。なんだよ、もう。勇者だし、鑑定も出来るし、すごい武器作れるし、なんだよ、もう。帰れよ。ここはジジイと亜人の平和な田舎村なんだよ。てめーみたいなのの来る場所じゃねえんだよ。 「お前たち、今日は有効の証として勇者殿がひとり一本ずつ剣を作ってきてくれた。感謝するように」 お土産で懐柔しようってのか。なんて汚い野郎だ。きっと魔王にも金品で懐柔したに違いない。とんでもなく卑怯な野郎だ。人間の風上にも置けねえ、当然亜人の風下においても迷惑だ。 「どうぞ、皆様。大した代物ではありませんが、鋼鉄の剣です。ちなみに攻撃力は45です」 聖剣の倍じゃねえか、ふざけんなよ、この野郎。こっちは昨日まで神に授けられた聖剣だって、村の子どもたちに見せびらかして悦に入ってたんだぞ。今じゃ村で断トツ弱い剣じゃねえか。明日からどの面下げて、みんなと顔合わせんだよ。おまけにそんなゴミ武器渡すのに50年も待たせやがって、人生ぶち壊しだろ。 「勇者様、とりあえず聖剣もらってくれませんか?」 「いや、私には必要ないです」 おいおい、せめて受け取れよ。なんなんだよ、この野郎。冗談は顔と武器の攻撃力とスペックだけにしろよ。全部じゃねえか。 「勇者様!」 「大変申し上げにくいのですが、正直そんな大したことない剣なので」 「もう一声!」 「ぶっちゃけゴミ武器なので」 「ありがとうございます! 持って帰れ、クソが!」 私はこうして勇者に聖剣を投げつけたのである。50年分の積もりに積もった様々な感情をこめて。
それからどうなったかって? まあ、それから大変だった。
勇者になんてことするんだと激怒するブエトーロと人間の王国の従者たちに、10年借金取りから逃げ続けた債務者くらい詰められて、齢70過ぎにして号泣するほど怒られ、失禁と脱糞を同時にしてしまうという失態を犯し、おまけに横断鉄道の線路が通るということで小屋からの立ち退きを要求された。
しかし私にも誇りと尊厳がある。勇者が頭を下げて靴を舐めるその日まで、私は一歩もここから動かない。そう固く決意して、住んでいた小屋を団結小屋と称して、村の暇そうな無職連中を集めて座り込みと立ち退き反対運動を開始、5年間粘りに粘り続けた結果、線路を小屋の直前で曲げるという偉業を成したのである。
ちなみに開通した横断鉄道が曲がり切れずに脱線し、小屋を貫いていったのは今朝の話だ。
聖剣? ああ、もちろん鉄道がぶつかった衝撃でへし折れたが?
だがしかし、私の心は折れていないので、なんの問題もあるまい。
おまんじゅうVSボナペティ
8月21日、午前10時05分。外気温37℃。天気、快晴。
場所、新東京拘置所。本日の被死刑執行者1名。
死刑囚A、呼称番号42731番。プライバシーに配慮して、ここではA(仮名)とする。2022年2月22日、幼女誘拐殺人容疑で逮捕。同年11月11日、無期懲役判決を受けた。判決は妥当ではないと有期刑への変更判決を望み、何度も控訴審を繰り返した結果、10年前に余罪が発覚、死刑確定となる。
Aは本日午前9時に死刑執行を宣告され、出房。5分前まで教誨室で祈りを捧げ、唯一の肉親である弟に向けて遺言を書き、タバコを1本だけ吸った。甘味として用意された饅頭は食べなかった。前室で目隠しと手錠をかけられて、今現在10時07分、ガラス張りの執行室の中央に設置された踏み板の上に立っている。
Aは、今から首に縄を掛けられる恐怖を想像してか、小刻みに震え、呼吸を短く浅くしている。頭に袋を被せられ、足を拘束されると震えが大きくなり、膝ががくがくと揺れている。
首に絞縄が掛けられ、死刑執行の準備は完了した。
ゆっくりとドアが開いた。
「はいはーい! 本日の死刑執行生配信、はっじまっるよー! リスナーのみんな、ちゃんと見えてる~?」
死刑執行生配信が始まった。配信者は美少女死刑執行人として現在人気急上昇、最近はグラビアデビューも果たしたツヴァンちゃん、15歳。本日の正装はシスター&ピコピコハンマー。
「えーと、ツヴァンちゃん、今日もかわいい。神美少女。へへへ、ありがとー。今日もねー、記録係はイケメン眼鏡書記長のコシァンさんがゲストとして来てくれてまーす」
ちなみに私の名前はコシァン。世間ではイケメン眼鏡書記長と呼ばれている25歳独身。彼女募集中。
Aは何が起きたのか理解してない様子で、頭を左右に動かしている。
「こっちが今日の死刑囚さんでーす。死刑囚さん、気分はどうですかー? 元気? それともへこんでる?」
「え? えぇ?」
「ちゃっちゃと答えろやー!」
戸惑うAの左足にツヴァンちゃんのピコピコハンマーが振り下ろされた。ピコっというコミカルな音と鈍器の鈍い音が同時に鳴り、Aの足が九の字に曲がる。あやうく縄が締まりそうになって、慌てて体勢を立て直した。ヘビーリスナーにはおなじみの光景である。
「言い忘れてたけど、真面目に答えないとピコピコハンマーで叩くから! ちなみにピコピコハンマーの中心部はミートハンマーになってるので、普通に痛いですからね! はい、気分はどーですか!?」
「待ってくれ、なんだよこれ? なんなんだよ!?」
気分:混乱している。
「それでは第1問。お名前は!?」
「いや、なん……」
「名前言わないとピコピコハンマー、顔面に叩き込んじゃうぞ!」
「ぼ、ぼみあろん」
名前はボミ・アロン。漢字で書くと保実亜論。英語から和訳すると、吐瀉物の孤独。形容しがたい名前だ。
「第2問! 生年月日は?」
「2001年8月21日。って、さっきからなんなんだよ、これ!」
「わー、今日お誕生日じゃん! 誕生日と命日が一緒って、クレージー・ジョーみたいだね! ハピバー、アーンド、R.I.P」
補足説明:クレージー・ジョー、本名ジョーイ・ギャロ(1929年4月7日~1972年4月7日)はアメリカのマフィア。死因は暗殺。
「第3問! 家族構成教えて!」
「待ってくれ。なんなんだよ、これ! 俺は何されてんだよ!?」
「ちゃっちゃとテンポよく答えて!」
ピコピコハンマーが再度、ボミの足に振り下ろされた。今度はしっかりと耐えたので、痛みよりは縄が首に食い込む恐怖が勝ったようだ。
「わかった、答えるから! 父、母、弟」
「よろしい! ちゃんと答えないと、お前の遺体を剥製にして、前の棒からはコンデンスミルク、尻からはチョコレートが垂れ流されるモニュメントとして、お前の弟夫婦の住んでるマンションの前に公園作ってでも設置してやるんだから!」
ちなみに両親はすでに他界しているが、ボミはまだその事実を知らない。
「第4問! 今、何歳?」
「ごじゅ……51歳」
現在51歳。なお、本日が誕生日であり、今から死ぬ。
「第5問! 血液型は?」
「A型」
「犯罪者に人間の血が通ってると思うな! お前の血液は緑色だ!」
血液型A型、色は~~緑色~~。※追記。後で調べたら赤でした。
「第6問! 出身地は?」
「東京。だから説明してくれって! なんなんだよ!」
東京生まれ、東京で没す。
「第7問! 趣味は?」
「読書」
「ちがいますー! お前の趣味は誘拐ですー!」
趣味、誘拐。特に幼女を狙う傾向がある。
「第8問! あだ名は?」
「ねえよ」
「じゃあ、今から妖怪ロリペド人さらいね!」
ニックネーム、妖怪ロリペド人さらい。
「第9問! 山派? 海派?」
「山」
散骨希望場所は山。
「第10問! おっぱいとおしり、どっちが好き?」
「どっちかっていうと胸」
「幼女誘拐犯が寝言こいてんじゃねーぞ!」
ピコピコハンマーが左肩めがけて、横殴りに叩きつけられた。左半身は半死半生といったところか。
「ちょっとリスナーに質問募集するから、おめーはそのまま立ってなさい!」
もはや囚人以外の国民全員が知っていることだが、死刑執行は国民的娯楽のひとつだ。
暴露系配信者が政治家になったり、パッとしなかった政治家が国家機密漏洩してみた事件を起こしたりして30年、人類の倫理観は著しく低下し、ありとあらゆるものがコンテンツとして消費されるようになった。
その結果、刑法も面白おかしく改正され、生類憐みの令の復活、アメリカ式刑期加算方式の導入、拷問の再開、刑務所内医療の撤退、全独房ライブ配信の開始等、人類は一部の人権を完全に投げ捨てた。
そして5年前、人類は死刑までも娯楽とすることに決め、ドキュメンタリー系配信で再生数500億を叩き出した【死刑に立ち会ってみた】という不謹慎のバケモノまで誕生させたのだった。
「えーと、結構質問集まったよー。第11問! そのツラ、拝ませろー!」
頭に被せられた袋と目隠しを外すと、困惑している50男の顔をしている。心なしか入室した時より老けた感がある。
「アンケ取りまーす。この顔を見て犯罪者だなーって思った人は1、普通だなって思った人は2、イケオジって思ったら3ってコメントしてね。1、1、1、1、1……全会一致で1で犯罪者顔決定!」
客観的に見て顔は犯罪者。顔面偏差値は0点。
「第12問! 判決に不満ある?」
「あるに決まってるだろ! もともと無期懲役だったんだぞ、それが10年前に死刑に変更になって……」
「リスナーのみんなに説明しておくと、こいつは幼女誘拐殺人の罪で無期懲役だったけど、新しく出来た刑法を適用されて、10代の時にわんちゃんちゃんを蹴った罪が加算されて、無期懲役から死刑に格上げされたよ」
10年前に復活した生類憐みの令で罪が加算され、死刑に繰り上げられた。ちなみに遡って80年以内に愛玩動物に暴力をふるった者はすべて例外なく死刑であるため、現在死刑囚の人数は350万人に増えている。毎日死刑配信が行われているのは、そのあたりも関係している。
「誰だ、そんな法律作ったの! 家康かよ!」
「綱吉だ、ヴァカめ! 10点減点!」
ピコハンマーが右膝に打ち込まれて、両足が生まれたての小鹿のように振るえている。
「生まれたての小鹿チャーンス! このコーナーは死刑囚の足が、生まれたての小鹿みたいにプルプルしたら始まる人気コーナーだよ。おい、ロリペド人さらい! カメラに向かって意気込みをどうぞ!」
「いや、小鹿チャンスってなんだよ!」
小鹿チャンスで全問正解すると刑期が3日伸びるが、1問間違える度に踏み板の高さが10センチ高くなる。理不尽なほど難しい問題で限界まで高くして、首吊りで床が抜けた時の衝撃を増やして、いかに惨たらしく首が折れるかを楽しむ、来日したハリウッドスター並みの人気コンテンツだ。
ちなみに今回は、ここ10年以内に世間で流行っているゲームやアニメから出題され、当たり前だが正解率は0%だった。
後半戦のジェンガと同等のバランスで積み重ねられた10センチ×10段の台の上に、ボミことロリペド人さらいが立っている。
「ちくしょーが!」
「ずいぶん高くなったな、頭が高くて生意気だぞ! このロリペド人さらい!」
「人の命をなんだと思ってやがる!」
死刑囚が一番言ってはいけないセリフ第1位、人の命をなんだと思ってやがる。
「幼女誘拐殺人犯が言うセリフか!」
向こう脛にピコハンマーが打ち込まれる。痛みに耐えながらバランスを崩さないので必死そうだ。
「第13問! 最後の晩餐、なに食べたい?」
「鮭弁当」
「じゃあ、今からみんなは鮭弁当食べるので、おめーはそこで黙って見てろ!」
最後の晩餐は鮭弁当。ただし最後に見る晩餐である。ツヴァンちゃんも私も、刑務官も、全員が世間話をしながら鮭弁当を食べている。
「どーせなら焼肉弁当が食べたかったなー」
「それな!」
わざわざ記すことでもないが、刑務官の倫理観も著しく低下しているのは言うまでもない。毎日楽しく笑いながら臀部やこめかみを棒でしばく、現代はそういう時代だ。鮭弁当だって平気で食べるし、文句も平気で口にする。
「第14問! 遺族の皆様へ反省の言葉を5秒以内で!」
「え、えーと、あの、本当に申し訳なく思って」
「はい、時間切れ! 言えなかったので足枷追加しまーす」
遺族への言葉は、『え、えーと、あの、本当に申し訳なく思って(5秒)』
罰として重さ10kgの鉄球が結ばれた足枷を追加する。
「ラスト問題! 生まれ変わったらどうする?」
「まっとうな人間として生きたい!」
「おめーには無理だと思うなー!」
ツヴァンちゃんがボミを乗せた台を蹴飛ばすと、床がパカッと開いて、1メートル余計に追加された高さを、ボミが顔面むき出しで落ちていく。この瞬間が最も、配信画面上で投げ銭という名の悪ふざけが飛ぶ。
今回の合計金額は375万4400円。このうち70%の262万8080円が被害者遺族へのお見舞いとして、もろもろ諸経費を引いて20万円が私とツヴァンちゃんのギャラとなる。
遺体はそのままロープを切断して落して粉砕、火葬処理を施して、ある程度の量溜まったらブロック状に固め、麻婆豆腐くらいのサイズにカットして、小学生の秋の社会見学のお土産として配られる予定だ。
保実亜論(ぼみ・あろん)
幼女誘拐殺人・死体遺棄・不法侵入・お犬様への暴行の罪により死刑。享年51歳。獄中で出版された詩集『獄中のカナリア』は、都内の古本屋の100円コーナーでたまに見かける程度には売れた。
記録者 コシァン
「はい、今日もお疲れ様でしたー!」
「お疲れ様でーす!」
死刑執行後は、俺とツヴァンちゃんで打ち上げするのが毎日のルーティーンとなっている。仕事後の焼肉ビールほど旨いものは、この世の中に存在しないと思う。
「やっぱりちょっと飽きられてるな。500万行くと思ったんだけど、全然だったな」
正直、死刑執行生配信はコンテンツとしての勢いは落ちてきている。再生回数だけでいえば人気ゲームを実況したり、映画俳優が飯食ってるほうが回るのが現実だ。人類は死というコンテンツさえも食べ飽きてしまってきているのだ。
「でもさー、死刑執行よりゲーム配信のほうが人気出るって、人類ちょっとバグってない?」
「そもそもの話、面白くもなんともないからな。最初は物珍しさでバケモノコンテンツ化したけど、毎日誰かしらがやってたらパターンも似てくるし、アーカイブで見ればいいやーってなるよな」
「死刑執行方法がよくないんじゃない? ゾウに踏ませてみたとかライオンに食べさせてみたとか、そういうのやってみようよ」
「動物愛護団体が怖いんだよ。動物様は人間より権利持ってるから」
「ま、しょせん私ら人間風情だからねー」
焼肉屋の外では、今日も集団リンチしたり目隠しさせて銃で撃ってみたり、ドラム缶に押し込んでコンクリ流してみたり、そういう倫理観をドブに捨てたような底辺コンテンツが溢れている。
ちなみに2052年現在、世界で最も人気のコンテンツは、結局のところ、ネコチャンが寝ている動画である。
カトルカール
画面の向こうでは、恋人とそれぞれの元恋人がテーブルの前でケーキを囲んでる。
彼氏彼女がケーキの上の苺を取り合って、彼氏の元カレが少し控えめにメロンの乗った部分を切り分けて、彼女の元カレが、俺はいいって身ぶり手ぶりで勝手にコーヒーを淹れ始めて、4分の1くらいカットされたケーキが余計に2等分しづらくなって、結局ケンカになってる。彼女のほうが包丁を振り回し始めて、彼氏はもう嫌だって感じで彼女の元カレに全部丸投げして、自分は元カレと一緒に外に出ていって、なんでか知らないけどキスしてる。
それを目撃しちゃった彼女は、見せつけるようにこっちも強烈な濡れ場をおっぱじめちゃって、泣きながら腰を振ってるところを彼氏に刺されて死んじゃった。彼氏は自分の喉を包丁で突いて、彼女の元カレは逃げちゃって、テーブルの上にはぐちゃぐちゃになったケーキと、メロンの乗ったケーキが対照的に残ってる。
彼氏の元カレがぐちゃぐちゃになったケーキを食べて、カメラを止めて、エンドロールに知らない外国語の曲が流れ始める。
Il n'y a pas qu'une seule forme d'amour,mais il n'y a probablement qu'une seule réponse correcte à l'amour,et c'est dix milliards de fois plus délicieux de manger un gâteau propre que ça……
……うん、なに言ってんのかわかんない。
面白くもないし盛り上がりもないフランスかどっかの、よくわかんないモキュメンタリー風映画が終わった。
感想? 私は15点。くそつまんないし、意味わかんない。
「3点ね。安易にバイセクシャルと同性愛者を絡ませるところとか、マジ安直って感じでダメ。あと結局こいつら死んでるし、死に逃げエンドとか爆発オチよりクソ。典型的な勘違いオナニー映画ね」
ポニテがタバコに火をつけながら、不機嫌そうに言い捨てる。
なるほど、たしかにケーキが爆発して家ごと吹き飛んだ方がマシだと思う。
「だらだら長すぎ、78分もいらない、20分にしろ」
シニヨンが後ろに束ねた髪の下あたりをポリポリ掻きながら、気だるそうに溜息を吐いた。どうやら気に入らなかったみたい。
「だから言ったじゃん、怪獣映画がよかったのにー」
「みんなで決めたじゃん、全員が見たことないのにしようって」
ちなみに今のは怪獣映画好きのオサゲ。感想を言う気はないっぽいみたいで、ポニテからタバコをねだろうとして、デコピンされてる。
私はモニターの電源を切って、缶の底に残ってたコーラをずずずっと啜り、制服の胸ポケットに入ってたタバコを咥えて、
「ヘイ、ポニテ。あれやってよ、ハードボイルドなやつ」
タバコを悪戯っぽく上下にぴょこぴょこさせながら、シガーキスをねだる。ポニテは顔を真っ赤にして、キモイキモいと連呼しながらタバコを手にして、先端をぐりぐり押し付け、ダメ押しでキモッて叫びながらそっぽ向いた。
「毎回照れんなよ、処女気取りかよ」
「うるさい!」
小競り合いを始めるシニヨンとポニテを、まあまあと引き離しながら、ぐぎゅるるるとお腹を鳴らすオサゲを横目に、テーブルの上に残ったポテチのカスを指ですくって舐めて、
「よし、映画撮りにいこーぜ!」
親指を顔に向けながら、もう片方の腕でドアを勢いよくバァーンって開いた。
むわぁっとした全身に絡みつく湿気と刺すような強烈な日射し、一言でいうとクソ暑い。ファッキンホットってやつ。ハンディカメラを持つ手にじわっと汗がにじむ。この暑さ、カメラ大丈夫かな?
「充電器、よーし! 電池、よーし! SDカード、よーし! 缶ジュース、よーし!」
「食べ物、なーし」
オサゲとシニヨンが荷物確認しながら、重たそうなものを容赦なく私のリュックに放り込んでくる。といっても、そんな大した荷物はないのでギリ耐えれるけど。
「で、映画撮るってなに撮るの? ジャンルは?」
ポニテが私のリュックに、工具箱をまるごと入れながら撮影にやる気をちょっとだけ見せてる。でも、やる気なんてちょっとあれば十分。0は何倍しても0だけど、1は4つ集めたら400になるから、10倍だぞ10倍。
私はそうだねーとちょっと考えて、現状のメンバーで出来そうな選択肢を頭の中の引き出しから取り出して、
「やっぱロードムービーじゃない?」
「それ、運任せでてきとーに撮ってりゃ、なんかいい感じの出来るでしょってやつでしょ」
「そうともいうね。でも、なんかいい感じのができるんじゃない? なんせJKですよ、あたしら。JK様ですよ」
女子高生は生きてるだけで無敵だって、どっかの小説家も書いてた気がするし、美人は歩いてるだけで十分絵になるから、まあほんとどーにでもなるでしょ。
「じゃあ、とりあえずJKらしくタピっちゃう?」
カップを持ってストローを吸うパントマイムをしながら、暑さでゆらゆらと揺れるコンクリとガラスだらけのビルの群れに目を向ける。
セミの声は聞こえないけど、がっつりと夏の暑さ。温度計ないからわかんないけど、たぶん猛暑超えて酷暑とか、そんな暑さ。空はこっちのほうは快晴、あっちのほうは曇天、そんなアンバランスな感じ。天気予報は晴れのち雨、雷も伴って激しく降るでしょうってところ。
「じゃあ、撮るよー。ポニテ、とりあえず歩いて。てきとーに撮ってくから」
「なんで私が」
「一番背が高くてスタイルいいからに決まってんじゃん」
カメラを起動させて、しぶしぶ歩き始めるポニテを撮り始める。
まだ車もバイクも走ってないけど、交通ルールは守って歩道。でこぼこでところどころ雑草も生えてる。そのちょっと歩きづらい感じ、成長期感を醸し出しててよしって感じ!
団地と団地の間を歩くポニテ、交差点を渡るポニテ、坂道を上がるポニテ、高架の下を下るポニテ……
「やべー、絵面がマジつまんない」
いくら美人が歩いても30分も歩きっぱなしだと飽きてしまう。嘘だと思うなら、今すぐ美人がだらだら歩いてるだけのPVとか見て欲しい。30分もあればモニターぶん殴りたくなるから。
「だったら、シニヨンとオサゲも撮りなよ。バリエーション増えるでしょ」
「嫌だね、私は夕焼けと同時にかっこよく登場するって決めてるから」
「私、登場シーンはムーンサルトからのヒーロー着地がいい!」
「バカか! 骨折して死ぬぞ!」
ギャーギャー喚きながら歩き続けて、3人が言い争う様子もこっそり撮っちゃったりして、それにしてもタピオカ屋ないなーって辺り見回したりする。タピオカ屋はないけど、1か所理想的な物件を見つけた。
「へい、おめーら。私たちに今必要なものなんだと思う? そう、学校だ! 女子高生といえば校舎だ! 女子高生と校舎は、ベスパとシュガードーナツくらいの神った組み合わせだ!」
道路を渡った住宅街の向こうに見える学校らしき建物を指さす。3人とも黙って頷き、休憩もしたいしってことで全会一致、学校を目指そうってことになった。
学校目指して歩く3人の女子高生、きたねーおっさんだったら万札並べちゃうんじゃないって映像。
「いいねーいいねー、君たちぃ、青春って感じだねー」
「キモいおっさんの真似すんな」
なるべく脂ぎった喋り方をしてたら、ポニテに釘を刺された。
それにしても学校なんて久しぶりな気がする。まぁ、外自体が久しぶりだし、映画撮りに行こうって言わなかったらずーっと出なかったんだろうけど。
「そういえばさー、おめーら、勉強できたの?」
「私は出来たよ。聞いて驚くな、なんと学年1位だ」
シニヨンが指先でエア眼鏡をくいっと動かして、自慢げにふふんと鼻を鳴らす。
「私も学年1位取ったことあるよ!」
オサゲが続く。すごいな、こいつら絶対バカだと思ってたのに。
「家庭科様でな」
「書道様でな!」
前言撤回、やっぱりバカだった。
「私は不登校だったからわかんないな。中学の時はそこそこ出来たけど」
「ポニテ優等生っぽいのに意外」
「ま、気にすんな。今はみんな不登校みたいなもんだ!」
不登校が4人並んで学校の門をくぐる。学校は窓ガラスがところどころ割れてて、花壇は暑さで花も雑草も一緒くたに枯れ果ててる。校舎の入り口はベニヤ板で塞がれてるし、これじゃロードムービーじゃなくてゾンビ映画じゃん。
「いけ、オサゲ! バールアタックだ!」
「おりゃあああ!」
オサゲが私のリュックからバールを取り出し、ベニヤ板をガンガン殴って壊して、とどめに蹴りを3発。
「校舎に侵入成功しましたー。今から第1村人探しまーす」
「そこは第1学生とかのほうがよくない?」
「じゃあ、それでー」
私たちは意味もなく下駄箱を開いてみたり、職員室でくるくる回る椅子に座ってみたり、1度も入ったことのなかった校長室に入ってみたり、教室の窓際いちばん後ろの席で漫画の主人公っぽく佇んでみたり、とにかく撮れそうな構図は片っ端から撮った。
隅から隅まで学校ってものを堪能して、屋上からあっち側はビルや団地がうじゃうじゃしてて、遠くに海が見えたりして、反対側は地平の果てまで何もかも平べったくなってる様子も映したり。
あとは体育館だなーってことで校舎から出たところで、
「見ろ、おめーら! 第1村人発見!」
この暑い中、宇宙服のような恰好をした変な奴を発見した。
宇宙服っぽいやつが手になんか丸っこい機械を持って、ゆっくりと右往左往しながらも私たちに近づいてくるので、私もカメラを回しながら、宇宙服に近づいていく。
「えー、学校に来たら宇宙服きたやつがいました。ロードムービーは今からSFになるんでしょーか」
『人類、ここでなにしてる?』
宇宙服から人間と機械の中間っぽい、昔流行ったボーカロイドとかボイスロイドとか、そんな感じの音声が聞こえてくる。
ヘルメットは真っ黒なスモークが貼られていて、中身は見えない。でも、そんなことはどーでもいい。こいつが宇宙飛行士でも宇宙人でもコスプレおじさんでも、私はカメラを回すだけだし、こいつを映すとちょっとスパイスが効いて面白そうだから撮るだけ。
『私は記録映像を撮ってる』
どうやら宇宙服は、私たちと似たような目的で右往左往していたらしい。
「奇遇だなー。私たちもロードムービー撮ってる。てことで、お前、私たち撮ってもいいから、私たちにちょっと付き合え」
『それは私の任務の範疇ではない。邪魔をするなら排除する』
「別にいいぜー。映画撮ってるJK、最後は謎の宇宙人に始末される。ロードムービーのオチとしては最低だけど、オチがつかない映画よりは全然オーケーだ。なに出すんだ? 銃か? 火炎放射器か? 核爆弾か?」
宇宙服は私の勢いに呑まれたのか、それともシンプルに理解できないのか、戸惑った様子で体を左右に揺らしている。
「おおりゃあー!」
オサゲが叫びながら、私と宇宙服の間に後方宙返りしながら飛び込んできて、着地に失敗して盛大に地面に転がる。
そういえばムーンサルトしながらヒーロー着地とか言ってたっけ。思いっきり足首捻ってるけど。
「オサゲ、いいねー。かっこ悪い登場は後半かっこいいフラグだからなー」
「いたーい! もうやだー!」
泣きわめくオサゲと困惑している宇宙服に交互に撮影し、走って近づいてくるポニテたちにもカメラを向ける。
『理解不能、意味不明』
「見てわかんねーの? 映画撮ってんだよ、映画。へい、お前、名前は? なんていうの?」
宇宙服のメットをペチペチしながら名前を尋ねる。宇宙服はこの暑さの中でも異常にひんやりしていて、氷の柱に素手で触るくらい冷たい。
「おぉー、完全おたすけアイテムじゃん」
ポニテたちも好き勝手に触って涼を取り、暑さにバテかけてた体を冷やす。
『何してる?』
「いいから、名前だよ名前。なんかあんだろ? フェッセンデンとかパンドラムとかコヴェナントとか」
『人類の言葉に直すと端末N8型275』
なるほど、覚えてられるか、そんな長い名前。私の頭にはそんな容量ないんだ、せめて4文字以内にしろ。
「オーケー、エヌハチ。じゃあ、さっそくカメラ回すから、とりあえず自己紹介しろ」
謎の宇宙服ことエヌハチに向けてカメラを回す。
『私は端末N8型275、Nは日本地域のN、8型は人類の暦に合わせた数字、275は同個体の275番目を意味している。私はこのエリアの記録映像を撮りにきた』
「ほうほう。で、なんのためにそんな映像撮ってんの?」
『そう命じられた』
「誰に?」
『君たちが宇宙人と呼んでいる存在だ』
おいおい、宇宙人だよ。第1村人が宇宙人とか超大当たりじゃん。
思わずにやけた顔をポニテたちに向けると、こわばったような表情でエヌハチを見てる。気持ちはわかる、宇宙人ってのは特別な存在だ。特別に遠いし、特別に複雑だ。
「よし、エヌハチ。とりあえず一緒にタピオカ屋探そうぜ」
『なぜ?』
「なぜって、私が女子高生だからに決まってんだろ。宇宙人ってのは頭パーなのか?」
まったく勘の悪い宇宙人だな。そんな調子じゃ日が暮れちまうだろ。
タピオカ屋はないけど、宇宙服と女子高生の組み合わせは、なんていうか、一言でいうとカオスだ。
ビルの非常階段を上がるポニテと宇宙服、足が限界になったオサゲをお姫様抱っこする宇宙服、道端に転がってたバイクにまたがったシニヨンにひき逃げされる宇宙服、ゴミ箱に捨てられる宇宙服、ダンボールを敷いて行き倒れる宇宙服。
そんな映像を撮っている内に、空はどんどん雲が厚く黒く変化して、ゴロゴロと雷を轟かせながらプールをひっくり返したような大雨を降らせてる。
「よし、エヌハチ、お前ら! 踊れ!」
「なんでだよ!」
「サービスカットだよ!」
ずぶ濡れになった髪をくしゃくしゃにかき上げながら、雨の中で踊る3人と、右往左往するだけの宇宙服を撮り続ける。
次第にバカバカすぎて楽しくなってきて、私もみんなに混じって小躍りしながらカメラを回し続ける。
ゲラゲラ笑いながら踊り、腹が減ったってことで閉店したスーパーに立ち寄り、
「腹減ったんでスーパーに突入しまーす」
リュックの中から拳銃を取り出して、シャッターの鍵に向かってバンバンバンと3発、銃弾をぶち込む。
「開いた?」
「前に見た映画だと、こうやって開けてた」
シャッターを掴んで力づくで開けようとしても、ガシャガシャとなるだけでビクともしない。その様子を眺めているエヌハチの尻に当たる部分を蹴飛ばし、見てないで開けろって視線と指で合図する。
宇宙服の一部がパカッて擬音でも描かれそうな開き方をして、一瞬光ったと思うと、次に目を開けた時にはシャッターがどろどろに溶けていた。わーおこれが宇宙人の超科学ってやつ?
「便利だな。今日から泥棒にジョブチェンジしろよ」
シャッターの中に入り込んだ私たちは、真っ暗な店内をライトで照らし、鼻を突く臭いに眉をしかめながら缶詰コーナーを漁る。ほとんど誰かに持っていかれて無くなってるけど、まだちょっと残ってるのもある。
「いえーい、戦利品でーす」
その場でプルタブに指を引っ掛けて缶を開けると、どろどろに溶けたよくわからない物体が流れ出る。
「残念、うんこでしたー」
がっくりした様子のポニテたちにカメラを向けながら、よく見ると強盗団のピクニック後ってくらい荒れ果てたスーパーの店内をなんとなく映して、
「強盗団と遭遇しなくてよかったわ」
「まあね。でも、銃あるから平気でしょ」
「人殺しの映画だって思われたら、見る人の評価が変わっちゃうだろ。そういうシーンは入れたくないの」
安堵と暑さで、はぁーっと息を吐いて、ゆらゆらと体を揺らしながら外に出た。
あれだけ降ってた雨が止んで、空には見事な虹が掛かってるし、雲が端から少しずつオレンジ色に染まっている。
ああ、そろそろクライマックスかもしれない。もしかしたら私たちの旅は続くってなるかもしれないけど、ひょっとしたらジ・エンドってなるかもしれない。それは神のみぞ知る、いいや、宇宙人のみぞ知るってやつだ。
『もうすぐ時間だ』
「えー、マジかよー。覚悟はしてたけどさー」
エヌハチが丸っこいカメラらしき機械を空に向ける。雲と雲の隙間から、カラス避けみたいな巨大なグルグルマナコみたいなものが見えた。
去年のハロウィン、突然地球に宇宙人が襲来してきた。
宇宙人は、手始めに地表から50m以上にあるものと海の上にあるものをすべて破壊して、人類から移動手段を奪った。
そして365日かけて地球を滅ぼしますって宣言してきた。
最初はみんな、まだ現実が受け止めきれなくて、悪趣味な映画かなんかだと思ってた。テレビや動画サイトで、なにもかもボロボロに崩れていく映像を見て、よく出来てんなーって感心しながらポテチを食べたのを覚えてる。
でも、1週間もしたら地球上の半分の国が機能停止して、1ヶ月でインターネットも繋がらなくなって、世界のどこが無事でどこが駄目になってるか知るすべが無くなった。
そのあたりで現実なんだって理解して、そこからはもう無茶苦茶だった。
2ヶ月で電気や水道や物流が停止して、3ヶ月で警察や病院といったものがなくなった。学校もあっという間になくなって、私は中学校も卒業できないまま、最低最悪の春を迎えた。
私は自衛隊で働いてたおじさんから、自分たちの身は自分たちで守れるようにって、拳銃と機関銃と弾丸を貰って、街にあふれる泥棒や暴徒から逃げながら、かろうじて海沿いの街までやってきた。
そして引っ越し初日、隣町が地上から消えた。私の故郷と同じように。
宇宙人の攻撃は、毎日夕方になったら、陸地の総面積の365分の1をなるべく細かく振り分けて、地球上のいろんな場所を消していく、というものだった。これは宇宙人が3日目くらいに言ってた。
これは後で知ったんだけど、宇宙人が破壊した場所は毒が残ってて、コンクリートも金属も植物もプラスチックも生き物も、なんでもかんでもボロボロに崩して壊してしまう。毒は無色で、雨が降っても風が吹いても、水にも溶けず、そこから動かず、気化もせず、希釈もせず、その場にとどまり続けるみたいで、文字通り人類の逃げ場を奪っていた。
お父さんとお母さんとお兄ちゃんは、攻撃された場所なら安全だと思って毒の範囲に踏み込んで、ぼろぼろのぐずぐずに分解されて死んだ。
ポニテもシニヨンもオサゲも、みんな違う場所から逃げてきたけど、だいたい同じ感じで、家族と離れ離れになったり、色んな不幸が重なって置いていかれたり、この最悪な世界でひとりぼっちになってた。
不幸でかわいそうな女子高生が4人が逃げる場所もないとこで集まったら、そうなったら隠れて映画でも見て過ごすしかないじゃん。
レンタルビデオ屋でDVDを持てるだけ持って、私たちを襲うとするクソヤローに鉛玉をぶち込んで、乙女のまま童貞喪失しちゃって、とにかくひたすら映画を見た。怪獣映画もゾンビ映画も恋愛映画もアクション映画もアニメも時代劇も、とにかく時間が許す限り見て、寝落ちして、缶詰とか食べて映画見て、空腹と口寂しさを誤魔化すために煙草吸って、泥棒の頭を吹き飛ばして、お菓子食べて酒飲んで、また寝落ちして、ちょっと気が狂って爛れた関係になったりして、自分たちのいる場所がいつ攻撃されるんだって毎日震えながら眠った。
それで梅雨が終わって夏になって、見る映画もいよいよ残り少なくなって、じゃあ自分たちで映画撮ろうぜーって誰からともなく言い出した。
空がどんどん赤く染まっていく。雲が流れて空に浮かぶは、頭上を埋め尽くす無数のグルグルマナコ。
「えー、どうやら私たちの旅も終わりみたいです。あの目玉みたいなのが宇宙人の兵器です。私たちは勝手に神の眼って呼んでます。では、今から潔く死ぬか、みっともなく逃げ続けて死ぬか、決めたいと思います。へい、おめーら、絵的には潔く死んだ方がおいしいけど、どーする?」
カメラを3人に向ける。
「それでいいんじゃない? どっちみちオサゲの足じゃ走れないし」
シニヨンがオサゲの頭を撫でまわしながら答える。
「私のせいみたいに言わないでよ!」
「違うよ、一緒に死んでやるって言ってんの」
シニヨンとオサゲが抱き合ってる。いいねーいいねー、美しいねー。後でこれ見るやつがいたら、涙流してスタンディングオベーションしちゃうんじゃねーの?
「私たちが死ぬとこ撮りたいんでしょ。それに、あいつがどこから撃ってくるかわかんないし、バタバタするだけ時間の無駄でしょ。ああ、くそ、湿気ってる!」
ポニテがポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけようとして、なかなか火がつかないもんだから地面に投げ捨てる。
「おい、エヌハチ。タバコ拾え。シュールで面白いから」
エヌハチにタバコを拾わせて、3人を横に並ばせる。なんだ、この絵面。地球滅ぼしに来た奴に、地球を汚すなって怒られてんの。マジでどちゃくそシュールじゃん。
「ポイ捨てを宇宙人に怒られる女子高生の図」
「そこはふつう体育教師だろ」
リュックから新品のタバコを取り出し、ポニテとシニヨンとオサゲに渡す。ポニテがタバコに火をつけて、その火がタバコ同士で渡っていって、最後に私の咥えたタバコにまで辿り着く。きっと世界最後のシガーキスだ。
「愛してるぜ、おめーら」
「嘘つけ」
タバコをフィルターギリギリまで吸って、空を見上げたら、神の眼がひとつ赤く光ったような気がした。
轟音とも爆音とも違う、もっとあっさりして無味乾燥な音を響かせて、遠い場所のビルやマンションがボロボロに崩れていく。
私はぎゃーぎゃー喚きながらカメラを回した。なんて言ってたか自分でもわからないけど、たぶん恐怖でハイになって、頭のネジが何本もすっぽ抜けたんだと思う。
ビルが崩れ、高架が落ちて、学校が壊れて、私たちが過ごしていた秘密の場所のあった辺りも一瞬で粉々になっていく。
もしかしたら宇宙人は売れない映画監督で、なにもかもぶっ壊れるところを撮りたくて地球に襲来したのかもしれない。だとしたら、きっとそいつはどうしようもないくらい才能とセンスのない奴に違いない。
「どーよ、エヌハチ。ばっちり撮ってんのか?」
『問題ない。全て予定通りに記録する』
「そうかよ。これを撮りたいって思ったやつは、きっと最低最悪のクソヤローだな!」
そう叫びながら、感情の赴くままに撮影を続けるエヌハチにドロップキックをお見舞いする。エヌハチは天を仰ぐように地面に転がって、ずれたメットの隙間から大量のケーブルや電子回路が、死体に沸いた虫みたいにはみ出してくる。
その直後、エヌハチと周りの道路や電信柱が、ぐずぐずと鉄錆が剥がれ落ちるように壊れていく。
私はエヌハチの持っていた、すでに半分くらい崩れたカメラに向かって中指を立てた。
「どーだ、宇宙人! お前らなんかに私の死にざま見せてやるかよ! 私たちの死は全部私だけが撮っていいんだ、バカが!」
きっとそれが地球人の矜持ってやつだ。宇宙人にはわからないかもしれない。地球人にもわからないかもしれない。私だけのものかもしれない。でも私はそうなんだ。
なんとなく直感が働いてオサゲとシニヨンにカメラを向ける。
「やっぱ死ぬの怖いわ……」
「私も怖い」
そう呟いて抱き合った直後、上から看板が落ちてきて、ふたりをぺちゃんこに潰して、周りの建物も道路も、タバコのフィルターも、流れる血も何もかも粉々に崩していく。
なんだよ、これ。ふざけんなよ。これじゃただの事故死じゃんか。雑過ぎんだろ、宇宙人!
「カナ」
ポニテがカメラを握る私の手を掴んで、ゆっくりと自分の顔へと向けさせる。
「本名で呼ぶなって最初に言ったのポニテだろ」
「落ち着けよ。ここなら真上になんにもない。きっと最高で最低な死にざまが撮れるよ」
ポニテが半分泣きながらもう半分はにこりと笑って、私をそっと抱きしめて、ドンっと突き飛ばすようにして離れていく。
「じゃあね。えーと、なんかすごいかっこいいセリフ考えてたけど、ごめん、忘れた」
「なんだよそれ。監督泣かせ過ぎんだろ」
そこからは一瞬だったし、無限に長いようだった。この時間のことは、なんて説明したらいいのかわからない。カメラに映る最悪な映像を覗き込んで、3人の中で最初に出会ったのも、最初に見た映画選んだのも、最初にタバコを吸ったのも、最初にケンカしたのも、最初に抱き合ったのも、全部最初はポニテだったとか思い返してた。
涙が止まらない。悲しいに決まってるけど悲しいだけの涙じゃない。きっと私の中の全部が、今こうやって外に出てて、そう遠くない内に宇宙人に消されるんだ。
私は自分にカメラを向けて、ぐしゃぐしゃになった顔をぬぐって、
「えー、みんな死にました。たぶん私もあとちょっとで死ぬはずです。もし、このカメラとSDカードが生きてて、映画でも見てやろうって気持ちだったら、ポテチとコーラで観賞会でもしてください」
私はカメラと、部屋にいる時から撮れるだけ撮った映像を残したSDカードを、ジップロックに詰め込んでマンホールの中へと放り込んだ。地下が大丈夫かどうかはわからない。だけど、宇宙人の攻撃した場所は地平の果てまで広がってた。地の底まで続く穴ぼこにはなってなかった。
だからワンチャン、地下にカメラ捨てたらいけるかもしれない。ずっと前に穴掘って脱獄する映画を見て、穴掘って地下に隠れようって提案が出た時に思いついてた。穴掘って地下に隠れる案は、地上に出た時に死ぬから意味ないってことで却下したけど。
映画も撮り終えて、カメラも手放して、リュックから拳銃を取り出して、ようやく一息ついて改めて空を見上げる。
頭上には無慈悲に残酷に、私たちを見下すかのように神の眼が浮いてる。
目の前が真っ暗になって、頭の中で爆発するような音が響いて、私の世界が終わった。
地球は残り4分の1だけど、宇宙人はこの日、365分の1だけは見届けられずにきっと終わるんだ。ざまあみろ。
いも煮ピルグリム
この世界はすべて我らのものだ
広大な空と呼ぶ天蓋の端から端まで
地平の果てまで、我らの目の届く範囲にあるものはすべて我らのものだ
この世界に奪われてもよい土地などひとつもない
この世界に失われていい文字などひとつもない
この世界に犠牲にしていい民などひとりもいない
どれだけ痩せこけた荒れ地でも、どれだけ拙い言葉でも、どれだけ愚かな者でも、自ら手放していいものなどひとつとしてないのだ
金貨一枚、鉄釘一本、骨一欠片、この世界のすべては我らのものだ
誰にも渡してなるものか
どれだけ鉱石を積まれても、どれだけ美酒を注がれても、どれだけ契約を持ち掛けられても、この世界が我らのものである限り、譲っても構わない線など存在しないのだ
1本たりともだ
初代コロカシア修道会主教 プラータ・カルタブラ
最悪。思ったより遅くなっちゃった。
空を見上げれば青黒く、欠けた月が浮かんでる。
街の灯りはまだ消えてないから店は開いてると思うけど、このままだと空白地帯を通る時間が真夜中になっちゃう。
宿があったら朝まで時間を潰すのもアリだけど、宿代を取るかお金を取るか、悩ましいとこだよねー。
よし、とりあえず街に着いたら考えよう。宿があるかもわかんないしね。
私たちは旅をしている。
正確には私と、背中のキャンピングバッグとは別の、私の背丈程もあるキャスター付きハードケースの中で眠っている相棒とのふたり旅。
「水と食糧とランタン油、あったらでいいのでアルコール、それと布が余ってたら布も売って欲しいです!」
カウンターの向こうにいる店主に笑顔で話しかける。誰彼問わず笑顔で話しかけるなんてしたら、なめられてトラブルに巻き込まれちゃうけど、こういうお店でさしで接する時は相手の警戒を解くために笑顔で接するべし。半年くらい前に遭った旅人さんに教えてもらった旅の秘訣その1。
争いは起こらないのが一番。店主はクマさんくらい大きいし、カウンターの奥には私の背よりもずっと長い猟銃や大ぶりの鉈が何本も並んでる。お店もところどころ人の頭くらいの穴が開いてるし、たぶん前に強盗が来たりしてこうなったんだと思う。
「お嬢ちゃん、旅人かい?」
「まあ、そんなとこっすねー」
「そうかい、大変だな。ほら、これはおまけだ」
店主はそう言って、水筒に入った水と干し肉、少量の米、ランタン用の油、酒瓶が1本、端切れのような布が数枚、それと顔を隠せるような布製のフェイスマスクをカウンターに置く。これ着けて女ってバレないようにな、っていう意味だと思う。
私は思わず一礼して、言葉と一緒に感謝の気持ちを伝えた。
「構わねえよ。ところでお嬢ちゃん、この辺には宿がないんだ。かといって廃墟はやめといた方がいい。たまに妙な連中が勝手に使ってるからな」
「ありがとう、おじさん。まあ、その辺はなんとかします」
かつて宿というものは、お金を払って旅人の安全を買う、そんな場所だった。だけど、画一的に作られた部屋割り、知らない者同士が壁一枚を挟んで使っている状況、宿主がこっそり行う客に話せない秘密のアルバイト、そういった条件が重なって、今では安全とは言い難い罠だらけの場所となっちゃった。
民泊なんてもっと危険で、誰がどんな仕掛けをしてるかわかんないし、建物の中がどうなってるかもわかんない。まだホテルのほうが安心できる。
そういうわけで今日は出来そうな場所があったら野宿、もしくは朝まで眠気に耐えながら移動。
「できれば朝まで時間潰したいけど、そんな場所も……」
辺りを見回しても、数えるくらいの灯りのついた建物、それより圧倒的に多い数の廃墟と空き家。自警団っぽい人たちが鉄パイプや斧を持って歩いてるし、野宿は素直に諦めた方がよさそう。無理無理、怖いし。
ぐぎゅるるるる。
そうこうしている内にお腹の虫が自己主張してきた。まったくもー、お前ってやつは困ったお腹だぜー。
「というわけで、なにか食べるもの下さい」
灯りに引き寄せられる虫みたいに近くの建物に寄ってみると、そこはギリギリ潰れてない感じのバルだった。店内には気の良さそうなマスターとお客さんが数人、テーブルにはまだ料理が出ていないみたいで、お酒もそんなに置いてなさそう。お酒は飲めないから別にいいけど。
「えー、なになに、旅人さん!? ちっちゃーい! かわいー!」
まだ素面っぽいけどテンション高めなお姉さんが抱きついてくる。むぎゅうぅぅ、息苦しい。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「パタタ・ポム・カルトッフェルです。そのとおり旅人です」
「ねえねえ、ひとりで旅してるの? なんで? 危なくないの?」
「えーと、色々事情がありまして」
旅人が珍しいのかな? それとも変な人なのかな? よくわからないけど、いったん放して欲しい、動けないから。
「お嬢ちゃん、悪いが見ての通りの有り様でね。今日はみんなで芋煮を食べるんだ。それでも良かったら食ってくかい?」
「芋煮! はい、食べます!」
大当たりじゃん、芋煮。ここしばらく干し肉と乾パンしか食べてなかったから、お芋食べれるのってすごいラッキーだと思う。
しかも汁物でしょ、大当たりすぎない?
「じゃあ、決を採りまーす! ジャンヤの人!」
お姉さん含めて3人が手を挙げる。
「ゾゼヤの人!」
今度はマスター含めて3人が手を挙げる。
ん? なにこれ? なにやってんの?
「パタタちゃん、パタタちゃん。芋煮はやっぱりジャンヤだよね?」
なんでテーブルに料理が出てなかったのかわかった。
これは芋煮戦争だ!
【説明しよう、芋煮戦争とは!?】
芋煮とは非常に地域性が出る料理である。味はジャンヤかゾゼヤか、お肉の種類は、具だくさんかキノコたくさんか、それともシンプルに圧倒的お芋推しなのか、他の野菜は何を入れるのか。
非常に奥深く、バリエーションに富み、しかも不思議と譲られないものがある。
そんなお互い譲れない好みと伝統から起きてしまうのが芋煮戦争なのだ!
頭の中で誰かが代弁してくれた気がするけど、とにかく芋煮戦争が目の前で繰り広げられている。正直なところ、どちらにも素晴らしさがあるし、どっちもおいしい。
けれど私も譲れないものがある。
「ちなみに、芋はボタ芋ですか!?」
場が更にざわっとした。ふたつに分かれていた場が、一気にかき乱される水の一滴。いいや、これは芋のひとしずくだ!
「パタタちゃん、ボタ芋派なの? 芋煮といえばヌビ芋でしょ!」
「待て、ボタ芋は断然ありだろう」
「いいや、ドモ芋もいけるぞ!」
あえて説明するまでもないけど、ボタ芋はホクホクした食感が特徴的な、丸っこくて痩せた土地でも育つお芋の中のお芋。
ヌビ芋は小ぶりで粘り気があり、食べる人を多少選ぶけど、これもなかなかにおいしいお芋。
ドモ芋は他の芋よりも強い甘みがあり、焼くとおやつの代わりになる、これも素晴らしきお芋。
そして、どの芋もゾゼヤにもジャンヤにも合う。
これまた言うまでもないけど、ゾゼヤは豆を潰して発酵させたペースト状の調味料、ジャンヤも豆から作ってるけど液体状の調味料。ちなみにどっちもおいしい。
神の与えしお芋様と人類の発明品で争うなんて、人間はなんていうか、
「愚かだろ?」
「そう、それっす。いやいや、そんなこと思ってないです!」
マスターが不意にかけてきた声に、思わず素直に返しちゃった。もちろん馬鹿な争いしてるなんて思ってないよ、ちょっとだけ思ったけど。でも、ちょっとだけだよ。
「こうやって馬鹿なケンカしてればいいんだよ。なんせ今日は最後の晩餐だからな」
「最後? どういうことっすか?」
これ、私が混ざっても大丈夫なやつ?
明日、みんなでこの街を離れる――
マスターが寂しそうにぼそりと呟いた。
見る限り街は寂しそうだし、廃墟も空き家も多い。さっきの店の店主の言葉通りなら、治安もかなり悪そう。おまけに空白地帯も目と鼻の先、バルの中の和気あいあいとした雰囲気とは正反対に、安全とは程遠い場所。
きっとこの先も、今日よりマシな日が来ないまま滅んでいく街だと思う。
「お嬢ちゃん、この辺は宿もないだろ。どうせこいつら朝まで飲んでるから、適当にその辺で休んでもらっても構わんよ」
「マジですか!? ありがとうございます!」
これまで何人もの旅人を見送ってきたマスターが、私としてはありがたすぎる提案をしてくる。
この街って宿がないから、自警団に見つからないように空き家に忍び込む、夜の空白地帯を通る、選択肢がその2つしかないと思ってた。
ちなみに空白地帯のほうが正直ヤバい。ヤバいし恐ろしい。
なにが恐ろしいって、まず誰も管理していないこと。人の手から離れてるから、危険な野生動物もいるし、肉食動物に襲われても誰にも助けてもらえない。これがひとつ。
次に、旅人や輸送隊を襲う野盗の活動が活発なのと、街を襲撃する強盗団の類が潜んでいること。肉食動物はお腹を空かせてなければ襲ってこないけど、人間は満腹だろうがなんだろうが目の前に獲物がいたら狩りつくさないと気が済まない。ある意味で野犬や大猿よりも恐ろしい。
実際はもっと恐ろしいこともなくはないけど、とにかくこの2つだけでも危険極まりないの。
だから、せめて視界が確保できる明るい時間帯に、野盗や野生動物に遭遇しないようにルートを選びながら通り抜けるしかない。それでも危険度はかなり高いんだけどね。
「このままじゃ埒が明かない! パタタちゃん、せめてジャンヤかゾゼヤか決めてくれない!?」
「俺は絶対にゾゼヤ味にドモ芋だ!」
「ジャンヤ味にヌビ芋に決まってるだろうが!」
人には譲れないものがある。例えば芋煮の汁とか、芋煮の芋とか、芋の切り方とか大きさとか。それが、ここで一緒に過ごしてきた人たちで食べる最後の芋煮ともなれば、尚更そこの一線は絶対に譲れなくなる。だって相手に一番おいしいと思う芋煮を食べて欲しいもん。
でもね、みんなが同じくらい強い気持ちでいるから、絶対に譲れないんだから、争いに決着はつかない。
だけど私は争いを終わらせる。自分に嘘をつかず、誰も傷つけない方法で。
「はい、せっかくなんで色んな芋煮が食べたいです!」
争いが終わらないなら、終止符を打てばいい。私は最良と思われる選択肢を投げかけた。
どうせならみんなで楽しく食べたいよね。
「はいよ、お待ちどおさん」
テーブルに色んな種類の芋煮が並んでいる。結局、芋は芋でそれぞれ煮込んで、スープも何種類か作って、しばらく鍋で芋を浸け込んだ後、焼けた石を投げ込んで熱を加えた。マスター、料理上手。あとで何か教えてもらいたいな。
他のみんなには芋煮を皿にたっぷり、とまではいかないけど、なるべく多く盛って、私はちょっとだけお皿に乗せた。
お皿に乗ったお芋を前にして、指先を首の下に六角形を描くように動かし、静かに瞳を閉じて両手を合わせる。
「神よ、今宵も我らへのお恵みに感謝します」
私たちは食事、睡眠、その他いろんな場面で神様に祈りを捧げる。子どもの頃からそう教えられてきたし、世界には人間の存在を超えた神様みたいなものが存在してると思う。
人間に味方してくれるとは限らないけど、美味しい食べ物はたくさんもたらしてくれた。それだけでもある程度神だよね。
「そういえば俺たちも、以前は飯食う度に神に祈ってたなぁ」
「久しぶりにお祈りでもしとく?」
私の祈る姿を見て、マスターやお姉さんも同じように祈り始めた。
みんなで祈りを捧げて、美味しいご飯を食べる。かつてこの世界のどこにでもあった、平凡で平穏な光景が今ここにある。
「感謝します、お芋の神様」
「誰に感謝してんのよ!」
そう、こういうちょっとしたボケツッコミみたいなやり取りも。
この世界は壊れてしまった。でも、本当はもっとずっと前から壊れていたんだと思う。
私のお母さんのお爺さんの、そのまたお爺さんの大先生のお師匠様のお婆さんの、さらにお爺さんのもっともっと昔の時代、世界の半分が突然、炎をまとって移動する大地によって焼き尽くされたらしい。
世界もいきなり半分になると、まず元々住んでいた人と移民の間で争いが起きるし、次はどさくさに便乗した勢力同士の争いが勃発するし、世界が半分になるということは食料も土地も半分になるということなので、水と食べ物と資源と家をめぐる争いが上から下まで例外なく起きる。
争いはやがて地位、人種、性別、主義、信仰、あらゆる理由で起こることになって、明らかにキャパシティオーバーな世界は荒れるに任せて荒れ果てた。
そんな愚かな人類の頭をハンマーでぶっ叩くような大災害が起こり、世界は文字通り2つにも3つにも大地ごと割れ、それまでどうにか人類としての形を保たせていた首都を破壊し、文明を破壊し、技術を奪い、知識を奪い、食い扶持と尊厳を奪い、もうやけくそになってしまった人類は、いよいよ絶滅の危機に瀕するとこまで落ちぶれてしまったわけ。
そして5年くらい前、人類はふたつの選択肢を与えられることになった。
ひとつは赤子以外の人類をすべて滅ぼして、一度最初から何もない状態で始めてしまう。
ひとつは現行人類の中から次の時代に行ける者を選び、人類が今後も生存するのに必要な人材だけを生かす。
前者を選んだのが唯一残った宗教団体コロカシア修道会、後者が王族直属軍事組織クレデク騎士団。
どちらがマシかと問われれば後者なんだろうけど、99%の人類はどのみち殺されるので、どっちみち悪魔と変わりないよね。
そして彼らは行動に移った。
コロカシア修道会は配給と称して難民を集め、八方から町ごと焼き払った。
クレデク騎士団は選別と称して町を襲撃し、徹底的な人種管理の下、内側から町を掃討した。
その結果、町という概念は失われ、かろうじて難を逃れた小規模区画である街と広大な何もない大地、空白地帯が生まれた。
空白地帯には、偶然にも絶滅から免れたわずかな人たちが逃げ込んだけど、コロカシア修道会もクレデク騎士団も目的はなにがなんでも遂行しようとする連中だ。なんせ人類の99%を滅ぼそうとしているのだから、意気込みと目的意識が違いすぎる。
そして空白地帯を襲うのが武装集団による動く領土とも呼ぶべき集合体、通称イニャム。
空白地帯で最も恐ろしいのがイニャム、動物も植物も人間も建物も、通った場所をしつこく粘り強く隅々まで草の1本も残らないレベルで滅ぼしていく圧倒的な数の暴力。
今の世界は奴らに滅ぼされるか、奴らから逃げ続けるか、そのどっちかを繰り返しながら続いてる。
もちろん私たち旅人も例外なく。
「ねえ、なんか外が明るくない?」
「もう朝か? そんな時間じゃないぞ」
街の目と鼻の先にある空白地帯、そこから何かの群れが炎をまとって波のように動いていた。
炎の波は通った場所を焼き払い、ありとあらゆる生命を殺し、草の1本まで根絶やしにしていく。まるで動く領土みたいに。
「イニャム」
望遠鏡を覗き込むと、修道士姿の連中と軍隊を思わせる格好の連中が混ざっている。コロカシア修道会とクレデク騎士団の混成集団。滅ぼしても滅ぼしても滅びない人類に業を煮やした連中は、いったん自分たちと互いの保護対象以外を力を合わせて滅ぼし、最後に互いを滅ぼすことに決めた。多分そういう理由で組んでるんだと思う。
「全員、持てる荷物を持って今すぐ逃げるぞ。自警団の連中にも連絡しろ。急げ!」
マスターの指示で、みんなが鍋を叩いたり、大声を出したりして、街のみんなにイニャムの襲来を告げる。
前の店の店主が馬車を用意して、食糧や毛布、調理道具、他にもあれこれ、積めるだけ積んでいく。自警団も、空き家や廃墟に潜んでいた余所者たちも、全員慌てながらも逃げる準備をしてる。
何度も見た忌々しい光景、突然現れて、勝手にめちゃくちゃに壊して、滅ぼすだけ滅ぼしたら別の場所に移動する、最悪の災害よりも酷い惨劇。そういうのが嫌で旅をしてるし、そういうのが許せなくて旅をしてる。
「パタタちゃん、今すぐ逃げるよ!」
「お姉さん、最初に私の旅の目的聞いたでしょ?」
こんなところで旅を終えるわけにもいかないんだよ。私にも目的地があるんだ。
「あいつらが大嫌いなの。だから、あいつらの親玉をぶっ殺してやろうと思って、ここまで旅して来たの」
自分の背丈ほどもあるハードケースを開く。
この中には普段は眠っている私の相棒がいる。
殉教6号、正式名称コロカシア6型対物火砲。これが私の相棒の名前。
150センチのハードケースの中で本体、銃床、銃身、スコープ、弾倉、脚の6つに分解された敬虔なコロカシアの信徒。
組み立てれば全長2メートル70センチ、重量50キロを超す人類史上最大級の怪物となる鉄と硝煙の狂信者。
それ故に、なによりも強く、どこよりも遠く、意地よりも重い。
そして誰よりも無残な最期を遂げる殉教者たちの最後の一振り。
「パタタちゃん、なにそれ!?」
「あいつらをぶっ殺すための相棒です!」
スコープの向こう、領土のど真ん中に修道服の老いた男が見える。お前らなんて人間じゃない。コロカシアの信徒でもない。ケダモノですらない。ケダモノ以下のくそったれだ!
馬鹿でっかい轟音と共に弾丸が飛んでいった。
「主教様。どうして世界は私たちのものなのに、神様は世界を壊すし、修道会は人間を殺すんですか?」
「カルトッフェルくん、大変いい質問だ。初代主教プラータ・カルタブラ殿は、この世界はすべて我々のものだと公言した。誰にも奪わせないし譲らないと宣言した。事実、彼は神が世界の半分を焼き払っても信念を曲げなかった。きっとまだ立ち上がれたからだ。立って顔を上げて吠えることが出来たからだ。しかし現状、我々にはもはや、そんな意地すら残っていない。打つ手もなくなった。腹が減って綺麗事を吐く力もなくなった。終わったのだ。終わっているのだよ、カルトッフェルくん。人類は詰んだのだ。狭い世界で自らを食らい合い、結果このざまだ。それでも我々は未だに支配する側に立っている。ゆえに滅ぼすのだ。せめて次の人類がうまくやるために、一切合切すべて滅ぼすのだよ」
「わかりません」
「そうかね。カルトッフェルくん、君はまだ若い。年齢的には幼いと言ってもいい。そうだね、旅に出たまえ。旅をして世界を見て、それでもまだ私たちが間違ってると思ったら、その時は君が2代目プラータ・カルタブラになりたまえ」
撃ち込んだ弾丸は30発を超えた。
スコープの向こうでは大混乱が起こっている。手を組んだ敵同士が、予期せぬタイミングで攻撃を受ける。頭を撃たれて手足だけになったバケモノは、統率を失って自滅するか、立て直すしかない。
領土は驚きで群れに代わり、群れは疑心暗鬼で群れでなくなり、ただ数が多いだけのなにかに成り下がる。
どれだけ目的意識が強かろうと、統率がなければそれは意思がただ集まっているだけに過ぎない。だから足が止まる、仮に止まらなくても確実に動きは鈍る。どっちみち絶好のチャンスが訪れる。
「マスター、頃合いっす! 逃げます!」
急いで馬車に相棒を積んで、奴らが踏みつぶした土地とは別方向に逃げ出した。馬車は景気よく駆けだし、街はどんどん遠ざかっていく。
しばらくスコープ越しに動きを探ったけど、どうやら奴らの追撃はなさそう。頭を失ってどうしていいかわからなくなってるみたい。慌てて後退しながら、物陰を探して右往左往してる。
あいつらは慣れ過ぎたんだ。数と武器で一方的に圧し潰してたから、弱いものでも追い詰められたら牙をむくっていう、当たり前のことすら忘れてしまったんだ。
「バーカ! バカ馬鹿ヴァーカ! そのまま震えてろ!」
私は中指を立てながら、イニャムに向かって叫んだ。
同じ馬車に乗ったお姉さんが、興奮の混じった黄色い歓声を上げて抱き着いてくる。むぎゅぅぅぅ。
「すごい! パタタちゃん、意味わかんない! でもすごい!」
「お嬢ちゃん、このまま俺たちとどっかに移住しないか?」
それも悪くないけど、私の旅はまだ途中なんだよね。もし無事に旅を終えたら、その時は終身名誉お芋大臣に任命してもらって、毎日お芋料理を食べさせてもらおうかな。
「気持ちと芋煮だけもらっておきます!」
「おう! いくらでも食べな!」
「いただきます!」
私は鍋に残ったすっかり冷めた芋煮を口に放り込んで、じっくりと甘じょっぱさを味わった。
私たちは旅をしている。長い長い旅。
いずれ石碑に名を刻み、歴史に足跡を残す、そんな旅を——
死者に花束を、生者には銀の杭を
「この世で最も偉大なものは神、あるいは人類の頭脳であるのは疑うべき点は無いが、ではこの世で最も恐ろしいものは何か、と問われたら、君ならなんと答えるかね?」
そう問いかけられたら、人間はなんと答えるだろうか。
銃、確かに恐ろしい。でも拳銃よりも猟銃、猟銃よりも機関銃、機関銃よりもクラスター爆弾と威力、殺傷力、攻撃範囲、上を挙げればきりがないし、では究極的には核兵器ということになるが、人間が一瞬で死んでしまうという点では拳銃と同程度といえなくもない。
であるならば、そういった恐ろしいものを用いる軍人、強盗、マフィア、独裁者、そういった使用者こそが恐ろしいといえるが、これも全てにおいて先程の解釈が成り立ってしまうので、答えがひとつに絞れない。
そして目の前の男は、そんな安直な答えを望んではいない。彼は知的で理性的で、ごくたまにユーモアを口にするような、インテリジェンスの側に立つ人間だ。
求めているのは理路整然としたインテリジェンスだ。もしくは彼を満足させるユーモアだ。
「そうですね……」
この言葉に意味はない、単に答えを選ぶまでの時間稼ぎの、要するに繋ぎだ。こういって一拍置くことは存外役に立つ、例えば、例えるまでもなく今まさにこういう時とかに。
「蜘蛛ですね、あくまで私ならという前提条件付きですけど」
蜘蛛は確かに恐ろしい。まず見た目がキツイ、この世で最も醜悪な姿をしていると思う。第2第3の理由もあるけれど、この一点だけで恐ろしいものと定義するには十分だ。
答えを聞いた男はこの答えがユーモア寄りのものだと察して、大袈裟に喜劇俳優のような両手の肘から先をくるりと回転させて上に立たせる仕草をしてみせる。
どうやら正解とまではいかずとも、教授を多少満足、それこそ暇潰しの会話の無意味な時間潰し程度には満足させたようだ。だとすれば有り難い。生徒としての仕事は果たしたことになる。
「おお、確かにあれは恐ろしい。人間の本能に迫るグロテスクな外見をしているからね。しかし実に平凡な答えだ、15点。街頭アンケートなら及第点だがね」
平凡だったか。それはそうだろう、私が咄嗟に出した程度の答えだ。私は決して優秀な学生ではない、学力という点では上には両手の指で数えられないほどの学生が在籍しているし、思考力という点でも三角錐の下底の辺りをうろうろしている、というのが自分の自身への評価だ。
「私ならこう答えるだろうね」
男は伊達で掛けている単眼鏡のテンプルを指で摘まみ、くいっと動かしながら、本気なのか立場的なことを考慮してなのか、まあそうだろうなという答えを投げてみせた。
「吸血鬼、と」
ショウファー・フィリップソン教授。
吸血鬼学の専門家で大学教授、私たちのゼミの担当教授でもある。吸血鬼というのは、いわゆる吸血鬼だ。100人が100人、吸血鬼と聞けば伝承や物語で刷り込まれたイメージを思い浮かべる、あの吸血鬼だ。
人間の血を啜り、太陽の光を嫌う、あの吸血鬼だ。
私たちの通う大学のある町ブルートスタッドは、吸血鬼伝承の根強く残る町だ。町の名前でもある血の町に相応しいといえば相応しいし、名物である血と一緒にひき肉を腸詰にしたソーセージのことを考えると少しどうにかするべきといえる。
そんな血の町では雪の積もる時期になると盛大に真っ赤な葡萄酒を振る舞って吸血鬼への祈りを捧げ、一方で各戸建ての玄関には必ずニンニクを吊るすという祈りとは対照的な習慣も残っている。
フィリップソン教授もこの町の住人であり、彼らと同じように吸血鬼を信仰する者であり、同時に吸血鬼を正しく理解して解明して明確に伝えるための学問の徒でもある。
その教授が最も恐ろしいものとして吸血鬼を挙げるのは、予想している中でも一番最初に出てくる、当たり前すぎて平凡ともいえる正解の示し方だ。
私がふうんと無意識に嘆息したのに気づいたのか、フィリップソン教授はこほんと咳払いして、
「さっきのは嘘だよ、エミリア君。最も恐ろしいのは、せっかく夕食を作ったのに僕の帰りが遅いからという理由でスープを冷ましてしまった時の妻だよ」
などとお道化てみせた。教授なりのユーモアであり、今日はそろそろ帰るという合図だ。
「であるならば、急いで帰り支度をしないといけませんね。これは提案ですが、まず最初にパンツを履いてみてはいかがでしょう?」
「君の言うとおりだ、エミリア君。このまま外に出てしまったら、僕の行き着く先は自宅ではなく拘置所だ」
フィリップソン教授はつい半刻前まで、紳士らしからぬ暴れ方をしていた下半身を綿の下履きで隠し、枕元に転がる避妊具を包んだ紙屑を塵箱に放り込んだ。
そう、先程の学問とユーモアの境界にあるような質疑応答は、いわゆるピロートークだったのだ。
こんな色気のない情事の後の会話など、この教授でなければ、そして気の利いた言葉のひとつも出さない男を許す私でなければ成立しないだろうと自負している。自慢にもならない自負だが。
そんな縋るにも頼りない自負は、数日後には打ち砕かれることになるわけだが。
そう、フィリップソン教授が死んだのである。
第1発見者は彼の妻で、すっかり冷めきった夫婦関係を表すかのように、彼女は友人宅で夜更けまで愚痴を溢し、酒に酔った勢いで明け方に友人夫婦を連れて帰宅した。おそらく不甲斐無い亭主に向けて、嫌味のひとことでも投げつけてやろうと考えていたのだろう。その際に万が一の時の護衛、もしくは健全な夫婦の見本として連れていたのが友人夫婦。そういう馬鹿げた愚挙に付き合う夫婦が健全かどうかはさておき、彼らの存在がアリバイの証明となり、実にスムーズに通報から事情聴取、そして葬儀までを終えることが出来たのだった。
むしろ彼らが居なければ成立しなかっただろう。なんせ見つかった遺体は、窓も扉も鍵の掛かった密室状態だったにもかかわらず、まるでマフィアに処刑されたかのように喉笛を横一文字に、それも骨を寸断する勢いで深々と斬られていたのだ。
いくら冷めたスープのような関係とはいえ、一度は情を抱いた相手がそんな惨たらしい姿を晒していては、仮に死体に慣れていたとしても正気ではいられない。事実彼女は気が狂ったように取り乱し、今も病院のベッドの上で寝込んでいる。
私はというと、人伝に教授の死を知って、その直後に食堂で流れていたテレビのニュースで詳細を知ったという経緯であったため、彼女よりは多少心の余裕があったというか、現実味が無さ過ぎて冷静になったというか。
実際は喉元にナイフを突きつけられたような冷たい不快感を抱いたものの、それが却って自分を落ち着かせようと頭が動いてくれたので、静かにドリンクを飲み干して、未だに涙の一滴も流さずに済んでいる。
薄情といえば薄情だが、何度か同衾したくらいの、それも後ろ暗い関係性だ。どうして彼が、などと泣き叫んだりしない程度には弁えている。いや、弁えているのならば最初からそんな関係には陥らないのだが。
幸いなのは教授が今時珍しく、携帯電話もメールも使わない類の人種であったことだ。おかげで私たちの不健全な関係は、おそらく誰にも知られておらず、それを証明する証拠らしい証拠も残っていない。
どころか、大学からは勉強熱心なゼミ生として認識されていて、こうして彼の研究室に立ち入って、資料を閲覧することを許されているのだから、勉強は真面目にしておくものだ。
さすがに大学は少々不用心すぎやしないか、とも思わなくもないが、密室での発見で凶器も彼自身が握っていたためか、あっさりと自殺と断定されて、速やかに葬儀も終えたのだ。部屋の主はすでに土の下で眠っているし、彼の研究を引き継ぐ正式な後継者もいない。せめて興味を以って学んでいた学生に解放しよう、というのはむしろ大学の配慮かもしれない。
配慮に反して、研究室を訪ねたのは私ひとりだが。
「まあ、気味が悪いだろうし……」
そう、数日前に亡くなった男の研究室でのんびり資料を閲覧しよう、などと考える者は普通に居ないのだ。私はどうやら普通というカテゴリーからは外れているようだ。
光栄だ、おかげでこうして静かに教授との、格別そう多くもない思い出を反芻することが出来る。
【吸血鬼の繁殖活動は他のどの生物とも決定的に異なる。彼らは別種の生物の血液を吸うことで、自らの生命を閉じ込めておく器とでもいうべき肉体の予備を用意するのだ。その対象は血を吸える程度の大きさと、噛んでも死なない程度の頑丈さと、自分がしたのと同様に誰かに噛みついて血を啜ることを可能とする機能さえあれば、人間であっても獣であっても構わないという。僕はまだお目にかかったことはないが、中には鮫を予備とした吸血鬼もいるそうだ。俄かには信じがたい話だと思うかもしれないが、僕は実際に吸血鬼と会って、言葉を交わしたことがある。僕の持つ吸血鬼に関する知識は、実のところ彼女、偉大なる吸血鬼の女王から教えてもらったものに過ぎないのだ。研究者としては反則をしたというか、運動競技者がステロイドに手を染めた時のような後ろめたさを感じてはいるが、世間一般に語られる吸血鬼とのあまりの剥離から直接教えを乞うてしまったのだ。彼らは人間が思っているよりもずっとしたたかで、それでいて世界中の隅々にまで、細く薄い毛細血管のように命を拡げている。この世で最も偉大な存在を神であるとするならば、最も厄介な存在を選ぶのであれば吸血鬼と断言する】
「まるで夢物語か小説の執筆者のメモだ……」
教授の机の引き出しの中に残されていた手書きのノートに記されていた、おおよそ正気とも事実とも思えない記述に視線を落とし、しかし彼は冗談は言うけれど嘘を吐かない男であったことを思い出す。いや、嘘を吐かないというのも私に対してであって、妻や周りの人間に生徒と枕を交わしていた等と正直に話していたわけでもあるまい。
けれど、わざわざ自分の研究室の、誰が読むでもないノートに嘘を書くとも思えない。教授が趣味で娯楽小説を嗜んでいたのであれば話は別だが、彼は読書家ではあったが、むしろ小説には疎かったと記憶している。読んでもせいぜい学問のために、各地の著名な吸血鬼小説に目を通す程度で。
【エミリア・ガーベンティン君、もし僕が不在となった時に、研究室を訪ねてくるほどに勉強熱心な学生がいるとしたら君くらいだろう。君にひとつ頼みがある。先に交換条件として、この研究室にある資料は好きに持って帰ってもらって構わない。これはそう悪くない条件だとの自負がある】
反射的にノートに挟まっていた便箋を握り潰す。
まさか自分の名前が記してあるとは思ってもみなかったのと、記したのがいつなのかは知らないが、先日までの関係性を考えるとあまりにも不用心だからだ。無神経とも言っていい。
「……驚かすなよ、教授」
くしゃくしゃに丸まった便箋を広げ直して、なるべく丁寧に表面を伸ばして、居心地悪く天井へと向けていた目線を文字の続きへと戻した。
【僕の死体はおそらく土葬にされているはずだ。この町にはとある理由から火葬の習慣がないから、おそらく高確率でそうなっているだろう。火葬しようとしても教会からも葬儀屋からも止められるだろう、誰もが知っての通り、このブルートスタッドでは死体を焼くことは暗黙の了解で禁止されているからだ。そこでだ、君には僕の死体を燃やしてもらいたい。死ぬ時には、仮に殺されるとしても後から血を吸われぬように工夫するつもりだが、確実にこなせるとは限らない。そして僕の死体を燃やした後、ブルトシュタイン城を訪ねて、僕が亡くなったことを伝えて欲しい。夜の0時以降なら入り易いはずだ。頼んだよ。ショウファー・フィリップソン】
これは面倒なことになった、直感でそう思った。
教授が殺された可能性もあるということだ。可能性でいうと半々だろうか、それとも自殺の方がまだ可能性は高いのか。自殺もさせられたと考えたら、殺されたと考える方が自然なのかもしれない。
そしてブルトシュタイン城、あの町はずれに佇む時間の流れに取り残されたような城は、私が知る限りは町が管理する廃墟で、観光名所にでもすればいいのに未だに立ち入りを禁止されていて、当然誰もいないはずだが、そこにいるらしい何者かはおそらく教授の死に関わっている可能性が高い。
可能性の話ばかりだが、少なくとも喜ばしいことが起きてくれる可能性は無さそうだ。
人生はいつだってそういうものなのかもしれないが、せめて城にファンタジーゲームみたいに金塊の入った宝箱でも置いていて欲しいものだ。
「……仕方ない、行くしかないか」
そこまでの義理があるかは自分でもわからない。
でも行くしかないように思うし、この遺言を受け取ってしまった時点で行かざるをえないような気もする。私はいつだって選択肢を間違えている気もするが、かといってそうじゃない選択肢を選んだとしても今より良い人生を送っていたとも思えない程度には、目の前の選択肢に重きを置いてない。置いてないというか、どっちを選んでも最良の結果など辿り着けるはずもない、そういう風に捉えている。
あの時、自分から教授の研究室を訪ねなければ、と思わなくもないし、でも結局はどこかでそういう風になっていたとも思う。教授でなくても、結局は別の誰かと後ろめたい関係になっていて、家族との修羅場みたいなものがない時点で今の選択肢の方が平和なのかもしれない。
「行くだけ、行くだけだから」
いつだって先の見えない毎日を送っているが、今回の先の見えなさはまた別の種類の怖じ気が漂っている。
殺されることはないだろうけど、少なくとも痛いのや怖いのは嫌だな、そう思うのだ。
✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝
ブルトシュタイン城。
かつてブルートスタッドを治めていた辺境伯、エッカルト・ゴドフリーが建てたとされ、この町の吸血鬼伝承では討ち取った吸血鬼から流れ出た血が町中の川と大地を赤く染めたことから、血の町の城、ブルトシュタイン城と呼ばれるようになったのだとか。
それも本当であっても何世紀も前の話で、辺境伯の死後は町の有力者が住み着いて管理していたが、それも100年以上前に放棄され、現在も取り壊すでも改装するでも名所にするでもなく、ただ薄気味悪く町はずれの高台の上に佇んでいる。
一応は歴史的建造物でもあるので、当然の如く、立ち入りは禁止されていて、日中は警官の巡回ルートに入っているし、夏でも上着なしではいられないほど冷え込むこの町で、わざわざ夜中に凍える思いをして訪れる物好きなど滅多にいない。
むしろ住人たちの吸血鬼への信心深さもあって、決して踏み込んではならない禁足地のような扱いで、もしかしたらそれが観光資源にすらならない最大の理由なのかもしれない。
深夜、日付が変わる頃、積もった雪を踏みしめるごわごわとした音を静かに鳴らしながら、私は教授のお願いの通りに城に向かっていた。もちろん教授の死体は燃やしていない。いくらなんでも墓を暴いて遺体を運び出して燃やす、などという墓荒らしのような真似は出来ないし、そんなことをする度胸がある者は勉強などせずに銀行強盗かテロリストにでもなっているだろう。
私みたいな小心者の小市民の学生に出来ることなど、せいぜい夜中の城に近づいてみるくらいのものだ。
吐く息が白々しい程に白い。月明かりに照らされた銀色の大地の上で、白く煙のように零れては流れていく。火葬場のある町であれば、教授はきっと今頃、こんな白い煙となって煙突から吐き出されていたのだろうか。
だとしたら冷たい雪の下で眠るのは少し可哀想だ、なんて思わずにいられない。自分が死ぬ時は温かい炎の中で葬られたい、そんなことを考えてしまう冷気と空気が、こんな夜にはある。
「おや、こんな時間に珍しいね? お客さんかい?」
不意に聞えてきた声は背後から、まるで耳元のすぐ傍で囁くような細く小さな声だった。
しかし慌てて振り返った私の視界に映ったのは、白い雪の向こう、途方もなく遠いようにも錯覚してしまうような距離に浮かぶランタンの灯だった。目を凝らしてぼんやりとした橙色の灯を見ると、こんな季節こんな時間なのに薄い長袖シャツとスラックスにジレを羽織っただけの、シックなアンティーク喫茶の店員を思わせるような恰好の30そこいらの男と、その隣に小柄な、まだ年端のいかない子どもを連想させるような少女が、どこかの国の民族衣装のような上下をひらひらとさせながら佇んでいる。
と思った刹那、目を離したわけでも閉じたわけでもなく無意識に瞬きをしたその刹那、少女の姿は初めから居なかったかのように雪の上から泡のように消えて、私の背後に回り込んで、ぽんと肩を叩いてきたのだ。それも振り向いた顔の頬に、人差し指が埋まるという他愛のない悪戯まで添えて。
「お客さんかい?」
「はい、客です……」
「ふぅん」
この少女は何なのだろう。誰、ではない。何、だ。
指先が冷たく、まるで体温を感じない。すぐ傍にいるはずなのに、そこにいる気配がまるでない。一瞬でも目を背けたら、そのまま見失ってしまいそうな不在性だけが浮かんでいるような、そういう人間がいる感じを一切伝えてこない異様さがあるのだ。
「ライエル、こちらのお嬢さんはすっかり冷えてるようだ。中に入れてあげよう」
ライエルというのはジレの男の名前だろうか。呼ばれた途端に静かに頭を垂れた姿が、視界の端に映り込む。
「よろしいので?」
覇気のある、けれど抑揚のない不気味さを含む相反した声だ。声の低さと掠れ具合から、実年齢は外見よりずっと上なのかもしれない。
「構わんでしょ。全身に糞でも擦り付けてあったらお断りだけどね」
少女は見た目こそ可憐さと儚げさを併せ持っているが、どうやら口汚さも持ち合わせているらしい。
「前に来た浮浪者は汚れ過ぎて犬の便所みたいな臭いをさせていたけど、君はどうやら風呂に入る習慣があるようだ。いいことだよ、人間、臭くなるのはあっという間だ。あえて激臭まとって鼻の弱い軟弱者を寄せ付けない作戦だ、私の股座なめたかったら醗酵ニシンを克服してから来やがれ、という主張を持っているなら別だけどね」
頼むから1回口を閉じて黙って欲しい。こっちはまだ感覚が追いついていないのだ、そんな久しぶりに会った悪友のような馴れ馴れしさで来られても困る。
「ようこそ、ブルトシュタイン城へ。私が城主のデュゼール・ブルトシュタインだ」
少女は右腕を斜め上から腰の辺りに向けて、水を掬うような埃を払うような仕草で振り下ろして、左手でスカートの中程を摘まんで少し持ち上げてみせた。
まるで歓迎の動作を真似たかのように。
「へー、君はフィリップソン君の生徒なのか」
城内の一室、応接室のようなソファとテーブルが置かれた部屋に招かれた私は、暖炉の炎が部屋を暖めるまでの間に簡潔な説明を済ませた。あくまで教授との関係は伏せて、勉強熱心な学生がたまたま誰に宛てたわけでもない便箋を見つけた、ということにして。
「道理で奴のニオイがすると思ったよ」
城主を自称する少女が、にやりと意味深な笑みを浮かべながら、鼻を鳴らすようにひくひくと動かす。
これは良い意味での匂いなのか、悪い意味での臭いなのか。服も下着も定期的に洗濯しているが、最近は慌ただしく時間が過ぎたせいか、コートとスカートは教授と最後に会った日のものをそのまま着て来てしまった。もっというとベッドのシーツも布団カバーも洗ってはおらず、異常に嗅覚が優れていたらそういう行為の付属品みたいなにおいも嗅ぎ取れるのだろうか。
「奴、50過ぎだったっけ?」
「え、なにが?」
「年齢だよ、年齢」
フィリップソン教授の年齢は確か52だ、嘘が無ければ。著者紹介でもそうだったので、公に対しての年齢詐称でもしてなければ。
「お盛んだねえ」
城主は左の親指と人差し指で輪っかを作りながら、そこに右手の人差し指をすかすかと行ったり来たりさせている。要するに下品を絵に描いたような所作だ。あえて説明するまでもなく、動作の意味は性行為を表している。
「主様、下品ですよ」
こほんと歯切れの良い咳払いと共に、暖められた部屋にニンニクの香りが充満する。
クラシカルなメイド服を着込んだ眼帯の、もう片方の目付きが異常に悪い若い女の手には、ゆらゆらと湯気立つ大盛りのペペロンチーノ。服装は城主の趣味なのか、そそくさとメイドの足元に駆け寄って、スカートの裾を脛が半分覗く高さまで摘まみ上げたりしている。
「グレンデール、品性というのは語り手に依存するものだよ。そんなわけだから、私が発する言葉は全て上品、極上といえなくはないかい?」
「確かにあなたはいつでも最高ですけど。ところで主様も食べますか? ペペロンチーノ」
「どうせならみんなで食べよう。アランドーラも呼んできて」
「私なら既に控えておりますよ、お嬢様」
燕尾服姿の口髭の男が、蝙蝠のように天井に逆様にぶら下がっている。
アンティーク喫茶店員といい、メイド服といい、燕尾服といい、城主の趣味なのか揃いも揃って個性的だ。教授の遺した記述からすると、彼女は吸血鬼研究者か吸血鬼そのものだと思われるが、もし吸血鬼だとしたらニンニクを好んで食すのだろうか。
だとしたら家屋の玄関にニンニクを飾る風習は、完全に逆効果であると言わざるをえない。
「さて、お嬢さん、遠慮せずに食べたまえ。毒なんか入ってないから」
フォークで麺が巻かれるたびにニンニクの香りが立ち込める。一体どれだけの量のニンニクを入れてあるのか、ラーメン屋も真っ青な強烈な香りだ。
「人間たちは吸血鬼がニンニクを嫌うと勘違いしているけど、私に言わせるとニンニクとジンジャーは入れたら入れただけ旨い。胡椒も振ったら振っただけ旨い。塩と砂糖はさすがに適量が正義だけどね」
「あの、あなたは吸血鬼なの……なんですか?」
咄嗟に言い直したのは、敬語を使わなかった瞬間の城主以外の瞳が狩人のような敵対心に満ちていたからだ。どうやら城主というのは自称でも、令嬢のお遊びでもなく、真実としてそのようだ。そして彼女、おそらく他の従者たちも吸血鬼であることも。
「ほひもん、きゅふへふひだ!」
「お嬢様、一旦飲み込んでからにしましょう」
燕尾服の口髭男がジンジャーの香るスープをマグカップに注いで、城主にそっと手渡す。城主はすかさず勢いよくスープごと喉の手前に溜まった麺を流し込み、再びペペロンチーノをフォークで巻き取って口の中に運んでいく。
「ぼふぁっほひてふぁいへ、ひみもふぁべふぁはへ」
「城主の先程のお言葉だが、もちろん吸血鬼だ。今のお言葉は、ぼさっとしてないで君も食べたまえ、とおっしゃっている」
城主の言葉を翻訳するのはジレを羽織った男で、どうやら食べ終わるのを待つよりも訳した方が早いと判断したらしい。なんていうか、当初想像していたよりも、言葉を選ばずに表現するとしたら、ずっと愉快な連中だ。
皿の上のペペロンチーノが無くなった頃、城主は銀製の装飾で彩られたグラスに注いだ葡萄酒の、赤い血のような水面をゆらゆらと揺らしながら、フィリップソン教授と自分たちの関係を語り始めた。
「奴は私の比較的新しめの友人でね、奴が大学生の頃からだから、たかだか30年くらいの間柄だよ」
「あなた、見た目10代前半くらいですけど……」
「吸血鬼は年を取らない。生命の循環とか食物連鎖とか、そういった理からは外れてしまったからね」
吸血鬼に老いは無い、と以前教授から教わったことがある。その時は極端に年を取るのが遅い、もしくは犬や猫のように毛並みと体力以外に老いを感じさせる要素が少ないのかと勝手に結論付けていたけれど、どうやらそういうことではなく、もっと単純に老いという概念が存在していないらしい。
更には何世紀も今の姿のまま過ごしているそうで、従者たちはその間に出逢って気に入ったものを選んだという。
「それって……吸血鬼は作れる……?」
「鋭いね。その通り、吸血鬼は作れる。厳密には他の生き物を吸血鬼に変える、だけどね」
城主が口角を上げてにやりと笑う。僅かに開いた唇の隙間から鋭い牙のような犬歯が覗いた。
【吸血鬼の繁殖方法に関する補足。彼らは別種の生物の血液を吸うことで、自らの生命を閉じ込めておく器とでもいうべき肉体の予備を用意すると記したが、血を吸われた生き物は非常事態の予備の肉体となるだけでなく、第2世代の吸血鬼であれば次世代の吸血鬼へと変質させることが出来る。始祖と呼ばれるごくわずかな第1世代の吸血鬼の王たち、彼らが膨大な時間と大量の血液を介して世界各地に散った第2世代の吸血鬼たち、そしてあくまで器としての役割しか果たせず、劣化吸血鬼とも呼ぶべき血を啜る伝染病のようなものしか作り出すことの出来ない第3世代以降の吸血鬼たち。始祖と第2世代は限りない長命の命を有するが、第3世代以降は老いもすれば自然と命が尽きる、人間や他の動物と同じように。それでも比較的長い寿命を持つことに違いはないが。なお世代を重ねるごとに器を作る能力は衰えていき、死んでいない人間であること、純潔であること、といった条件が付与されていく。現在、僕の知る限り、最も世代を重ねた吸血鬼は第10世代である】
教授の研究室から拝借したノートに改めて目を通す。
馬鹿げた妄想のような記述も、それが事実であるならば途端に恐ろしいものへと変質する。この文章が現実であるならば、一体この世界にどれだけの吸血鬼が存在しているのだろう。
「伝染病のようなもの、とは酷い言い草だね。否定はしないけど」
城主が横からノートを覗き込みながらくすりと笑う。
「まったくですな。私共は運がよかった、お嬢様に血を吸っていただけたのだから」
「確かに。主様じゃなかったら人間の世界にどっぷり漬かったまま、だらだらと長く生きる羽目になったでしょうね」
「同感です。城主のおかげで、あの研究家が定義するところの第2世代になれたわけですから」
従者たちが城主を囲みながら、その低く小さい頭をわしゃわしゃと撫で回す。まるで猫でも撫でているような、そんな愛情と敬意を蜜漬けの果実に含まれる砂糖のようにたっぷりと含ませた手つきで。
「感謝しなよ、お前たち。まあ、中には前の城主のように、感謝どころか深く醜く恨んでいる輩もいるけれどもね」
城主の目線が部屋の窓の外へと一瞬だけ移り、またすぐにノートへと戻る。
「奴も言っていたよ。えーと、確か、そうそう、こんな具合にね」
城主は背筋を伸ばして立ち上がり、まるで単眼鏡を掛けているかのように右手でテンプルを摘まむ仕草をしてみせた。
「僕は吸血鬼にはならないよ。僕は吸血鬼を面白いと思うが、それは僕が人間だからだ。君も人間を少しくらいは面白いと思っているようだが、人間になってみたらきっと興ざめしてしまうだろう。この世で人間ほどつまらないものはないからね……だったかな?」
「教授の言いそうな台詞ですね」
「まったく残念な男だよ。第3世代くらいにならしてやろうと思ったのに」
要するに従者たちよりはずっと立場も執心も愛着も下、けれど寿命であっさり死なせるには少々惜しい、そのくらいのものということだ。道端で稀に遭遇する野良猫に長生きして欲しい、それと同じくらいの。
「ところでお嬢さん、奴は死後に燃やしてくれ、と言ってなかったかい? それともすでに火葬は済んだのかな?」
「いや、実は……」
私は火葬にしていない旨、火葬をしようにもブルートスタッドでは火葬が暗黙の了解で禁じられていること、火葬場が無いこと、墓荒らしになる度胸は持っていないことを伝えた。
「ヨハネめ、まったくあいつはいつまで経っても生き意地汚いな。君も知ってるだろう、ブルートスタッドの市長で教会の司祭、ヨハネ・パウロ・グレゴリオマティス」
私もこの町で何年も暮らしている学生だ、当然市長の顔と名前くらいは知っている。敬虔な吸血鬼の信仰者で、死体を土葬する習慣も吸血鬼に死者を捧げて蘇らせた眉唾な伝承に由来するものだ、と教会関係者の葬儀の席で語っていた。
「薄々勘づいているかもしれないけど、あいつも吸血鬼だ。私に血を吸われた、いわゆる第2世代のね」
「薄々勘づいているかもしれないけど、あいつも吸血鬼だ。私に血を吸われた、いわゆる第2世代のね」
ヨハネ・パウロ・グレゴリオマティス15世。
かつて野盗としてこの土地にあった村を襲い、騎士団の追討から逃れるために教会の司祭を殺害して成り代わり、まんまと保護された果てに、おそらく世界で初めて吸血鬼に血を吸われた男。彼の血を吸った始祖曰く、語るには朝と夜が数回は浮き沈みを繰り返さねばならない長い長い物語があり、喉が渇いて仕方ないので経緯も流れも想像に任せるのだと。
「あいつは刑場帰りだからね。心因症でも患ってるのか、生者でも死者でも噛みついて予備の器にしておかないと気が済まない。いつまでも人間らしさを忘れないから、そのまま司祭をやらせてみたけど、どうしようもない臆病者だな、あいつは」
そう言い放って始祖と従者たちは笑い、各々が隣の物置部屋に立て掛けてあった円匙や鶴嘴を手にしたのだ。
「じゃあ、ちょっと墓荒らしにでもなってみようかね。光栄なことだから安心しなさい、なんせ吸血鬼様に墓を暴いてもらえるんだから」
✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝
ブルートスタッドの人口は現在およそ10万人、その中になんと3万人もの吸血鬼の器がいるという。
その中には太陽の光を嫌い、銀とニンニクの臭いを嫌うような、出来損ないの劣化物も少なからず存在するため、住民たちは風習として玄関にニンニクを吊るして襲撃から身を守る。
そして野垂れ死ぬ際には万が一にも血を吸われないように、自らの喉笛を掻っ切るという続きがあるが、一般的にこちらは血生臭すぎて伝わっていない。
「ということは、教授はやっぱり自殺だったんでしょうか?」
「さあね、自ら首を斬ったのであれば自殺だろうけど、そうせざるをえない状況を作り出されたのなら他殺だろうし、自殺に見せかけた他殺なんて場合もあるかな。なんせ吸血鬼は色々と暗躍するのに便利な生き物だ、例えば」
隣で雪を踏み鳴らしていた少女が真っ黒い猫へと姿を変えて、ひょいっと私の肩に跳び乗り、
「第3、4世代くらいまでならこういうことも出来る。猫、蝙蝠、梟、蛇、影に潜むことも壁を擦り抜けることだって造作もない。吸血鬼にアリバイなんて有って無いようなものだよ」
「重たっ!」
説明を終えるとすぐに少女の姿に戻ったので、一瞬にして肩が外れてしまいそうな、儚げな存在感が嘘のような氷の塊にも似た重みが圧し掛かる。
「びっくりさせついでに教えておくと、奴の妻、あれも吸血鬼だ。世代はだいぶ後の方だし、出来はいまいちだけどね」
驚き過ぎて肩から重みが消えた。単に吸血鬼が下りたから、ということなんだろうけど、それにしても教授の妻が吸血鬼だったとはどういうことなのか。教授は知っていたのか、それとも知らなかったのか、薄々察してはいたけど確証が持てなかったのか。
答えは明白だ。彼は死体を燃やしてくれと頼んだ、ということはだ、彼の死体を噛む者の心当たりがあるということだ。
「死にたての死体なら、私や従者であれば噛んですぐに吸血鬼に出来るけど、出来損ないなら一週間ほど仮死状態が続いてようやく蘇る。当然出来損ないが血を吸うのだから出来は劣悪だ、知世はおろか食欲と吸血欲くらいしか残らず、おまけに生前の負傷は治ることなく、むしろ時期によっては腐ってそのまま」
もしかしたら教授はそこまで見越していたのだろうか。自分に墓荒らしをする度胸などなく、当然ひとりで教授の死体に立ち会う勇気もなく、この吸血鬼たちに頼ってしまうことまでを。
「さて、お嬢さん、あそこに見えるのが教会墓地だよ。奴が自前の墓を構えていたら、そっちに埋葬されただろうけど、吸血鬼研究なんて特殊嗜好な分野はそこまで儲からない。埋葬されるのであれば十中八九ここだろうね」
参る者もなく雪に埋もれた墓地は、ただただ途方もなく広く、雪の中から僅かに突き出た十字はまるで、雪の上を這うように伸びる蔦のようで、ここに踏み入る気分を絶妙に削いでくれる。
「しかし私は忙しい、ひとつひとつ雪を掘って名前を確認するなんて面倒だ。そこでだ」
少女が懐から紐のついた鈴を取り出して、左右に振り子のように動かして甲高くも細い音を響かせる。
「デュゼール様、こんな夜分に何の御用でしょう……」
「久しぶりだね、ヨハネ君。10年ぶりくらいかな?」
新聞でもテレビでもよく見る顔だ。ブルートスタッド市長にして教会の司祭のひとり、ヨハネ・パウロ・グレゴリオマティス15世。不健康そうに肥えてはいるが、吸血鬼ということを考えれば、これが本当の姿かは定かではない。もしかすると世を忍ぶ仮の姿的なものなのかもしれない。
「ショウファー・フィリップソンの墓の場所を知りたい。とっとと案内しろ、この肥満体」
「わかりましたよ、わかりましたから蹴らないでください」
太っているのは事実そうらしい。牛のような尻を蹴られながら、慌てて教会から墓地の名簿を持ち出して、きょろきょろと左右を見渡しながら鼻息荒く位置を確かめている。
十数分後、私たちは重たい雪を掘り進み、冷たい石の上を更に凍えさせる塵のような雪を拭き払い、教授の名前をようやく発見した。
『ショウファー・フィリップソン、ここに眠る』
石にその名を刻み、眠ることを指し示す言葉。思わず下にいる彼のために、胸元で十字を切って祈る。
なにを? 冥福? これから燃やそうというのに?
安らかに? だからこれから燃やそうというのに?
来世の幸せ? そんな不確定な定かでないものを?
自分でも何に対してかわからない祈りを捧げて、そういえば葬式や祈りは死者の為ではなく遺された者の為にあるのだ、という説を思い出す。
彼が自分といて幸福だったとは思わない。そう思うのは自惚れだと戒める程度には弁えている。
では自分が幸せだったのかと問われると、やはりそうとも思えない。そう断言できる程度には後ろ暗さを秘めている。
「よし、ちゃっちゃと燃やすか」
「えぇ? 燃やすんですか?」
「お前な、その貧乏くさい根性、どこかで直した方がいいよ。死体なんていつまでも置いてても仕方ないでしょうが」
目を瞑って祈る私の横で、市長は少女に再び尻を蹴られながら、墓石を動かして埋められていた棺の蓋を開ける。そこにどぽどぽと油を流し込み、燐寸を擦って、薄めに見ても無残な遺体に火の粉を落とす。
油は火と合わさって炎となり、炎は空気を吸って勢いを増し、周りの雪は熱を帯びて水気を帯びて氷へと変わる。
「さようなら、フィリップソン君。話して退屈しない程度には楽しかったよ、人間辞めなかったのが残念だけど」
「さようなら、教授。私も楽しかったです、涙が出ない程度には退屈でしたけど」
「おやー、ちんちん咥え込んでおいて、そんなこと言うのかい? 若い娘ってのはおっかないね」
下品な吸血鬼め、と横目でじろりと睨みながら両手を絡ませて祈る。
何に? 強いていうならば、そう、彼の人生を支えた吸血鬼にだ。
✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝ ✝
「……で、わざわざお別れを言いに来たわけかい? 教授が教授なら、生徒も生徒だね」
吸血鬼は呆れたような表情を浮かべながら、まあいいやと呟き、ごそごそと服のあちこちを探って、1本の銀製の骨董品を投げて寄越した。それは人を襲うには頼りなく、身を守るには素手よりかは幾らか心強い程度の長さの、キャンプにでも使うような1本のピックだった。
「もうすでに知ってるだろうけど吸血鬼は世界中にいる。世の中にはそういう連中のコミュニティーも割とそこかしこにあって、もしかしたらそれが役に立つ、かもしれない。なんせ吸血鬼で私より偉い者はいないからね、全世界どこまで使える通行証みたいなものだ」
「ありがとう、ございます……」
「いいっていいって。えーと、誰だったっけ? そうそう、フィリップソン君だ。奴が教鞭から離れた時の退職祝い、そういうのにでもしてやろうと思ってた物だから」
吸血鬼はあまり過去に執着しないらしい。人よりも遥かに長い時間を生きるのだから、いちいち小さな感傷に浸るわけにもいかないのだろうか。
だとしたら教授が吸血鬼にならない道を選んだのも納得がいく。そっちの道を選んだ者を否定するまでには至らない程度の納得だけど。
【私たち人間は、ちっぽけで惨めで小さな傷のような感傷を、石のように積み重ねて生きて、そして死ぬのだ。エミリア・ガーベンティン】
酒とマサカリ~Bar&Hatchetation~
1911年6月9日、アメリカ合衆国アーカンソー州ユリーカ・スプリングズ公園。
その日、ひとりの破壊者が大絶叫をあげながら憤死した。6フィートの上背と175ポンドの巨体で酒場に繰り出し、酒樽や酒瓶を叩き壊して回る破壊者は、珍妙な異名で呼ばれる家で聖書を読み耽り、神の声を聴き、最初の夫の命を奪った上に自身の結婚生活を捻じ曲げた酒というものに対して偏執狂な逆恨みの感情を抱き、自らを神の犬と称して破壊の限りを尽くした。
そんな怪物のような女の死の報せに、ある者は安堵を浮かべ、またある者は涙を流し、またある者は実に彼女らしい最期だと酒の肴にしたりもした。彼女と共に禁酒運動に身を投じていた者たちは、あれほど能動的な破壊を繰り返したのだから、きっと今頃は天国で安らかに眠っているだろう、と彼女の死を悼み、胸元で十字を切って祈りを捧げたのだった。
しかし、病的ともいえる破壊衝動と恨み返しに熱を出した復讐者は、とてもじゃないが満足していなかった。
演説中にぶっ倒れて、心臓を止めようとする危機に瀕してもなお、彼女の頭に残っていたのは酒への恨みと飲んだくれ共への怒りだった。
(神よ、私はまだ怒り足りないのです。恨みを晴らし足りないのです。天国に行くのはまだずっと先でいい、もっと酒場を壊して飲んだくれ共の頭をかち割ってやりたいのです……!)
天を仰ぎ、次第に暗くなっていく視界の中で見たのは、十字に伸びる太陽の眩しさだった。
(ああ、神様! そこにいらっしゃるのですね! 私にもっと破壊を、復讐を!)
ゆっくりと細く伸びて消える光の中で、彼女の耳に届いたのは実に能天気で適当な返事だった。
「オッケー、レッツゴーォー!」
そして彼女の魂は、天国でもヴァルハラでも地獄でも墓の中でもなく、もちろん合衆国のどこかでもなく、もっと別の、今最も酒を渇望されている、飲んだくれ共が渇きに渇いた地の果てのような世界へと飛ばされたのであった……
……21年7月24日、アルコーリア州ガロンビーア市カストリーラ地区。
この日、カストリーラの町は狂宴の真っ只中にあった。
なにせ隣国との十数年に渡る、血で血を洗い、全てが底なし沼の底の更に下に沈められたような、見るも無残で語るも悲惨な泥沼の戦争が終結したのだ。
国力の乏しい共和国の中でも特に貧しかったアルコーリア州では、民はその全てを戦争に捧げ、溶かせるものは贈り物の時計であっても結婚指輪であっても、金属であれば窓にカーテンを掛けるための螺子の1本まで残らず溶かし、食べれるものは芋の蔓から木の根までなんでも食べた。動けるものは病人であろうと方羽の傷痍軍人であろうと前線へと送り、銃も剣も尽きたら石や棒切れを握ってまで戦った。
そんな糞のような戦争がようやく終結して、贅沢を禁ずるために期限付きで施行されていた禁酒法が撤廃された今、アルコーリア州の全土は災害級の狂宴に覆い尽くされていた。
そう、今はまさにゴールドラッシュ。かつて金が発掘された時に世界中からツルハシやシャベルを担いだ馬鹿野郎共が大挙したけど、今は黄金色の液体を売るために国中からアルコーリアに酒が集まっているのだ。
毎日どの時間でも町の何処かではジョッキをぶつけ合う音が響き、いつも誰かが酔っぱらって幸せそうな顔で道端に寝転んでいる。この町はつい数日前までは地獄であったが、今は程々に理性の弾けた天国と化した。さあ、どなた様も呑んでらっしゃい酔ってらっしゃい、大丈夫、みんな酔っぱらってっからさあ。
そんな駄目な台詞がスローガンに掲げられているかは知らないけれど、とにかく今この町で最も売れるのは酒だ。次に酒樽とジョッキとマグカップ。その次あたりでローストした七面鳥か油で揚げたニワトリか。
この私、ピルス・バレルズも奇跡的に五体満足で前線から戻り、思っていたよりは多めに出た報奨金を全額ベットして、ついでに相棒であった旧式の大砲も鉄屑屋に売り払って、残りの金を生活費まですべて注ぎ込んで建てたわけだ。
なにをって? もちろん決まってるだろう、酒場に。
カウンター6席、テーブル席4人掛けが2席の、決して大きいとは言えないこじんまりとした店。内容のテーマはシンプルイズベスト、中古の単身者用の住居の壁を取っ払って、バーカウンターとテーブルと椅子を並べて、食器棚と流し台を無理矢理くっつけただけの店内は、そこはかとなく薄汚れた拭けども磨けども黒ずんだままの古木の雰囲気がそのまま活かされて、備え付けの裸電球をぶらさげただけの照明は深酒した人がつい眠りこけてしまうような安らぎの空間を演出、明らかに店のサイズと合っていない大型冷蔵庫の中にはキンキンに冷えた瓶ビールがずらりと並び、店の外ででも飲んでやるという一本気のある飲んだくれ達の注文にも対応できる先見の明を光らせる。
物は言いようだな、だと? うるさい、これでも精一杯なんだよ。
そんな大衆酒場アンバーランスは今日も朝から晩まで、ほぼ24時間体制のぶっ通しの終わりのない地平線マラソンで営業中。
店主の体力が尽きるのが先か、客の胃袋がぶっ壊れるのが先かのチキンレースは、今のところ私の全戦全勝。夜明けにニワトリが鳴くまでには愛すべき酔っ払い共を追い出して、カウンターの中にあるソファに寝転ぶことが出来ている。
ちなみにアンバーランスは、いつ見ても惚れ惚れするような琥珀色と冷えたビールの持つ槍のような鋭さを意味しているし、酔っぱらって千鳥足のままアンバランスな足取りで帰れ、という隠された意味もあるけど、あんまり説明すると馬鹿が頑張って考えました感が泡のように溢れてしまうので、特に覚えておかなくてもいい。
店の名前と場所だけ覚えて帰ってくれ。
ジリリリリンと目覚まし時計が鳴る。
さあ、今日も愛すべきロクデナシ共のお出ましだ。
今日も酔っ払いを大量生産して、金鉱山くらい立派な売り上げをぶちかましてやろうじゃないか。
ふん、と気合を入れて鼻を鳴らし、鳥のマークが刻まれた酒樽が描かれたTシャツに着替え、カウンターの汚れを布巾で拭き取り、威勢よく店のドアを開くと、そこには身長の割には少し幼い、けれども鬱屈とした人生を何十年も生き患った感じの目の据わり方をした、まだ10歳かそこらの女の子が立っていた。
服装は町を歩けばたまに見かけることもあるような修道女服、けれども不思議なことに背中には斧に齧りつく不細工な顔をした犬っぽい何かが描いてあって、おまけに手にはキャンプ用の小振りな鉞が握られている。
(……こえー、少女兵あがりのガキかよ)
依存性の高い薬物と偏った教育で兵器と化した少年少女の怖さは、隣国のクソ共のせいで身を以って体験済みだ。なんせ善悪の垣根がぶっ壊れているし、生き死にのハードルが大人の兵士よりも随分と低い。おまけにこっちは銃口を向けられようが、ナイフを突きつけられようが、どうしても心のどこかで躊躇してしまう。
きっと托鉢かなにかだろうけど、私はそういうものとは今後一切関わらないと決めている。
バタンと無言でドアを閉めて、カウンターの中に潜ませている防犯用のナイフを腰の後ろにぶら下げて、カーテンの隙間から気配を殺しながら外の様子を窺うと、少女兵シスターはむっとした表情を浮かべてドアに近づいて、どんどこどんどこノックノックノックと握り拳の鉄槌を連打し始めたのだ。
それも少女らしからぬ、ウィスキーで喉を丹念に焼いたような声で。
「おはようさん、魂の壊し屋さん! おはようさん、魂の壊し屋さん! おはようさん、魂の壊し屋さん!」
クレイジーガールが声をしゃがれさせた。
どんがんどんがん、朝からやかましい。善悪だけでなくマナーと倫理観まで壊れてるじゃねえか、やめろやめろ、近所のモーニングの準備中の奥様方に怒られるだろうが。こっちはただでさえ朝っぱらから酒場やってるので後ろめたい上に、旦那様を片っ端から飲んだくれの酔っ払いにクラスチェンジさせてるせいで、余計に白い眼で見られたり、呆れを通り越して敵意まで向けられたりと日頃から立場が弱いのだ。そこに騒音なんて持ち込まれてみろ、店を叩き壊されてしまう。
だから、相手が自分より幾つも若いガキだろうと、私が選ぶべき選択肢はひとつだ。
「うるせー、ジャリビッチ! 帰ってミルクでも飲んでろ!」
怒鳴って追い返す、それ一択だ。他に選択肢はないし、世の中には大事なものが幾つもある。大人としての余裕というのもそのひとつだろうけれど、世の中にはさらに優先順位というものがある。
上から飯の種、尊厳と自由、そこから階段で地下道まで下がって道徳。
人様の飯の入った鍋に手を突っ込む奴は、本来であれば死あるのみだ。そこを怒鳴り返すだけで済ませてるのだから、私はきっと世間が思ってるよりも随分と上等な人間に違いない。
しかし上等な人間は、いつだって下等な人間には理解してもらえない。人間は自分と同じ目線の世界しか見えない生き物なのだ。
要するにジャリビッチの返答はこうだったというわけ。
「飲んだくれの末路から皆さんを救うために参りました!」
オールドジニーも目玉を回す馬鹿げたメッセージを掲げて、更に声をしゃがれさせたのだ。ちなみにオールドジニーは値段も度数も高いウィスキーの名前だ、時々別の酒場の前で呑んだ酔っ払いが目を回してる。
「いいか、脳みそハッピーガール。お前がどんな主義主張を持とうと、ご高説をぶち上げようと私は構わないけど、私の仕事の邪魔すんな! アジテーションごっこはお家でママとでもやってろ、クソガキ!」
「お酒ばっかり売ってるから世の中のことを知らないのね、かわいそうな壊し屋さん! ママも言ってたわ、教祖と活動家は若ければ若い方が目立つって!」
しゃがれ声の後ろで修道女服が衣擦れる音が聞こえる。スカートを捲り上げる音だ。
聞こえようによってはセクシーにも聞こえなくもない音に続いて、地面をボトリボトリと鳴らす鈍い音。こういう僅かに重量感のある音はやばい、十中八九グレネードだ。
窓ガラスが砕かれる音と共に、丸い球体が店内に飛び込んでくる。慌てて床を転がりながら、テーブルを引っ繰り返して盾にして爆発に備える。
けれどラッキーなのか、そもそもアンラッキーな状況の中に咲く一輪の花みたいなものなのか、球体は一向に爆発する気配もなく、静かに床の上でゆらゆらと鎖に繋がれた犬みたいに右往左往している。
……石だ。
正確には投げやすいように球体状に削って磨いた石だ。テストで石とだけ書いたらバツ印を点けられるかもしれないけど、そうなったら教師の正中線をドン突きしてやったらいい。
そんな手間暇かけて用意された石は、次々に店内に飛び込んできて、窓ガラスは片っ端から壊されて、おまけに棚に並べているグラスやカップまで叩き割っていく。
それも革命でも起きたのかってくらいの勢いだ。投げ込まれた石は両手両足でも数え足りない。
よし、✕そう。きっと警官も裁判官も正当防衛ってことで無罪にしてくれるだろう。
ひとしきり店内を滅茶苦茶にされて、誰も望んでない革命運動が止んだので、つい数分前まで窓だったものの外を覗き込むと、一仕事終えた後の工事現場作業員みたいな表情で汗を拭うロリータ投石機と、その後ろで馬鹿面で口を大きく開けて賛美歌を口ずさむ聖歌隊。なんていうか、愉快なピクニック・オン・ザ・地獄って光景だ。
「これであなたも他人を不幸にしなくて済むわ、感謝なさい!」
そう喚きながら、ドアを半分粉砕しつつも半分刺さって埋もれた鉞を光らせた。
「おかげさまで修繕費で貯金が大気圏までぶっ飛びそうだよ!」
犯罪者と貧乏人のやり取りの傍らで、ずっと流れ続ける聖歌隊の、素っ頓狂な讃美歌がうるさくて苛立たしくくて耳障り過ぎて、本能的に店内に転がる石球を掴んで投げつける。
ゴチンと地獄にお似合いな音を響かせて聖歌隊のひとりが引っ繰り返ると、頭を覆っていたベールが捲れて、ゾンビ映画でしか見無さそうな表情が露わになった。
「あぁん? あいつ、そこの路地の先の金持ちの女じゃねえか」
確か常連客の、なんつったっけかな、酒飲みてえみたいな名前の酔っ払いの妻だ。
▯ ▯ ▯ ▯ ……▭
モットー・ノミテーノはガロンビーア市の有力貴族のひとりで、あろうことか市政の運営者のひとりだ。
あろうことかというのは、本来であれば働き盛りで責任のある立場にいるはずの40代半ばの彼が、終戦後のゴールドラッシュの熱に浮かされて、琥珀色の液体の上に乗っかった泡のように、毎日朝も早くから酒場を渡り歩き、夜までひとつも仕事をせずに泡でも吹きそうな勢いで突き出た腹と余った贅肉を寝転がしている、もちろん地べたに、路上の。
当然彼は貴族なので、他の貴族も性質的には一緒なのか、もちろんのように地面に転がっているのは貴族だ。寝ている酔っ払いは貴族だ、寝ていない酔っ払いは平民だ、との言葉通り、酔い潰れるまで酒が飲めるのは貴族の財力の証明だ。
現在、このガロンビーア市の治安が悪めの歓楽街、カストリーラ地区では貴族の寝転びが一大ブーム。酒を飲めない奴は貴族じゃないと宣言したとかしてないとか。
そんなわけで今日もモットー・ノミテーノは、年こそ上だけど立場的には部下という一見めんどくさそうな関係の窓際貴族、ヨッパ・ラ・チャッタンと一緒に朝から飲み歩いている。
ちなみにヨッパ・ラ・チャッタンは、地面に寝転んだまま顔だけを起こして、そのまま天を見上げながら『起きて半畳寝て一畳、あれれぇ、天井が無限に拡がってるよぉ』という愛すべき妄言を繰り出したことで知られている、髭と窓際飲みの似合う50代の小男だ。
そんなふたりのように貴族たちが毎日酒ばっかり飲んでるものだから、それに呆れたご婦人たちが怒るのも、頭のおかしい活動家ロリータを担ぎ上げるのも、まあそれはそれで自然の成り行きというものなのだろう。私は酒を売る側だから、そんなもん知らん、と言いたいけれど。
酒が悪いのではない、酒を飲んだ時にだらしなくなるのは、元々のそいつの性質なのだ。貴族というものは生来の怠け者、平民も大部分は生来怠け者なのだ。
ただ戦地という極限状態だったから必死に働いていたのだ。頭の上にトゲトゲのついた天井をぶら提げられたら、誰だって頑張るし、そうするしかないのだ。だからそのトゲトゲ天井から解放された今は、みんなして酔っぱらっているわけ。
私は酒を仕入れて提供してと毎日忙しく旗ありてるけれど。
もちろん私も働き者ではない。この黄金熱の冷めない内に稼ぐだけ稼いで、あとは適当に旅でもしながら暮らしてやるつもりなのだ。
だから、こんなところで邪魔されてたまるか。ぶち✕すぞ。
……▭ 、;.o:。゚*・:.。
教祖と活動家は若い方が目立つ、という言葉通り、例のデストロイシスターは瞬く間にカストリーラ地区の名物少女となった。
襲撃を受けた酒場の中には、あえて仕事に支障をきたさない程度に一部を壊されたまま残して、でかでかと【ハチェットガールここで暴れたり!】と書き殴ってみせたり、少女に石で頭をかち割られる構図の写真を撮って土産として販売したり、斧とジョッキが一体化した妙な武器を開発したりと、いわゆる転んでもただでは起きない、だって酔っぱらってねえからな、ってところだ。
「あたしは納得いかない! どうしてどいつもこいつも、人の活動を馬鹿にするのよ!」
今日も暴走禁酒宣言ことキャリー・ザ・ハチェットは声をしゃがれさせる。ただし場所は酒場ではなく、その辺の空き地や公園のベンチやバス停の椅子の上だ。
度重なる破壊行為で警察に捕まり、だけどアルコーリア州には12歳未満の犯罪を処罰する刑法が存在しないために代わりに親や聖歌隊の奥様方が罰金を払わされることとなり、聖歌隊の面々も自分たちの懐が痛くなった途端に解散。残された親からも、先日いよいよ次に酒場に立ち入ったら勘当する、もしくはお前を✕して俺たちも死ぬ、と怒声混じりで説得されたそうだ。直接聞いたわけじゃないけど、きっと声は相当にしゃがれてたはずだ。
そうなると10歳のベイビーには成す術もない。おとなしく言うことを聞くしかないってわけだ。
「あたしは酒をこの地上から無くしたいだけなのに!」
「なんでだよ、馬鹿ガキ」
そのまま無視して通り過ぎるつもりが、弱った鶏みたいな声で鳴かれたもんだから、つい声を掛けてしまった。
そう、私は優しい人間、人間の優しさが即ち私なのだ。そんな優しい私だから、酒場を滅茶苦茶に壊したチビバスターにだって声を掛けるし、賠償金は貴族のご婦人たちから余るくらい払ってもらった。
世界は優しさで回っている。その優しさを回すのが酒なのだ。
え? 酒じゃない? 酒に決まってんだろ、目だって回せるんだから。世界だって回せるのだ。
「アメリカでも馬鹿にされて、こっちでも馬鹿にされて……どいつもこいつも!」
「アメリカ? どこだよ、そんな町知らねえよ」
「あんた、ステイツを知らないの? 世界一の大国よ!」
……なに言ってんだ、こいつ? 妙な社会活動といい、違法な薬でもやってんのか? きっと今頃、奴の頭の上では太陽がふたつ浮かんだりしてるのだろう。でも現実は月がふたつ、大きな輪のついた隣の惑星がひとつ、太陽もひとつ。この数は決して変わらない。
そんなわけで、非合法なもんやってる暇あったら、合法で健康にもいい酒を飲めって話だ。
「よくわかんねえけど、薬なんてやめて酒でも飲めよ。1杯までならサービスしてやるから」
「それよ!」
あん? どれよ?
「なんでどいつもこいつも酒を飲むのよ!」
違法薬中少女が、首を絞められた鶏のように叫換を発した。
「あたしの最初の旦那はねえ、酷いアル中だったのよ。結婚生活はすぐに破綻、すぐに離婚したけど、あの馬鹿は娘が生まれてすぐに死んじゃったわ。あれは失敗だった、あの忌々しい屈辱的な日々は私の人生を蝕んだわ。それでも精一杯生きてるうちに、ある日ね、神様がこうおっしゃったの! カイオワに行け、我は汝のそばにいる! それはまさに天啓だったわ、神様はおっしゃったのよ! 石を握れ! 投げつけろ! カイオワに行って酒場を粉砕しろ! それからあたしは手に握るのを石から鉞に変えて、徹底的に酒場を叩き壊してやったわ、だって酒は悪なんだもの! だのに壊しても壊しても、奴らは酒を売るのをやめてくれない! どうしてよ!?」
妄想もここまでくると病気だな。こいつに必要なのは医者の出す薬か閉鎖病棟かもしれない。
きっと戦争のせいで頭がおかしくなったんだろう。わかるわかる、あんなもんに巻き込まれて、酒もなしに正気でいられる奴の方がどうかしてる。
「おまけに志半ばで死んだと思ったら、こんなとこに生まれ変わって、ようやく酒のない場所に来たと喜んだのも束の間、戦争が終わってこんな有り様! 飲んだくれ共は一体全体、何様のつもりよ!」
「そりゃーおめえ、お客様だろうよ」
「神様はあたしに今度こそ、この地球上から酒をなくせとおっしゃってるの! なのに親も貴族たちも、ちょっと1回や2回や10回くらい賠償金払わされたくらいで辞めちゃって! あたしなんて前世で30回以上逮捕されたのに!」
私のつっこみはハイウェイの落とし物のようにスルーして、引き続き妄想を撒き散らしている。
こういう手合いへの対応は基本的に医者に任せるべきだけど、私はこういう時の最善の答えを知ってる。
言うまでもない、酒だ。酒がすべてを解決してくれる。
「ほら、妄想ベイビー。まあ1杯飲めよ」
そう言ってスキットルを取り出して、蓋を開け、ワイルドチキンの前に突き出してやった。
繰り返すが世界は優しさで支えられている。その優しさがなにかと言われたら、酒としか答えようがないし、酒以外の答えはない。
「これ、酒じゃないの! あたしを馬鹿にしやがって!」
「してねえよ。それよりだ、チキンガール。酒飲んだことねえなんて人生損してるぞ」
スキットルを放り投げながらトサカまで沸騰させた茹でニワトリが、さらに声をしゃがれさせる。
「酒飲みはみんなそう言う! こんな旨いもの飲まないなんて、人生損してるって! 飲んだくれの言い訳だ、そんなもん!」
「違うよ。飲んだこともないのに無くすべき、なんて言ってるのが馬鹿だっつってんだよ。ほれ、飲んでみ?」
1度でも酒を飲んだことがあれば、酒をなくすべきなんて馬鹿なことは口に出来ない。
無知は罪だ、でも私は無知を馬鹿にしない。酒の良さを知らないのなら、飲ませればいいのだから。
▭…… ▯ ▯ ▯ ▯
「さあ、安いよ安いよー! 飲んだくれる金があるなら、こいつでまず頭をかち割って天国に行きなさい!」
最近は鶏やアラームの代わりに、ハチェットガールのしゃがれ声が目覚まし代わりだ。
なにを思ったのかあのドチビ、よりによってうちの店や近くの酒屋の前で土産物の鉞を売り始めて、相応の活動資金を得たら、くるりと右向け右して店を壊しにかかるという、マッチポンプというかセルフプロデュース的な破壊活動をおっぱじめたのだ。
おかげで店は毎日のように何処かぶっ壊されてるし、酒屋からはあんな物を売らせるなって私に苦情が来やがるのだ。
「では、今から飲んだくれの末路から皆さんを救います!」
わあーっと土産物を買った客から喚声が上がり、うちの店のドアに投げつけられた鉞がぶっ刺さる。
もうこんなのいつもの光景で日常茶飯事になっちゃってるんだけど、やっぱり店主としては呆れずに怒らないとならない。売られた喧嘩はしっかり買わないと、ただただ迷惑しか残らないのだ。
「おい、クソジャリバーサーカー! 毎日毎日いい加減にしろよ!」
私が怒鳴り声と一握りの塩を投げつけると、頭のおかしい鉞投擲機は手当たり次第に石球を投げ返して、
「そろそろ警察を呼ばれる時間だから、ちょっと先回りして自首してくるわ!」
などと一方的に終戦を宣言して、警察署の方向に走り去っていった。
「ピルスちゃん、今日も大騒ぎだったね。あ、ビールひとつ」
「ありゃーババアになるまで同じことしてると思うね。へい、生いっちょー、おまち!」
私は私で店内に散乱するガラス片や木片を蹴散らしながら、今日も今日とて朝から飲んだくれている愛すべきロクデナシ共に、キンキンに冷えたビールを注いでやるのだった。
アンダードッグ&プッシーキャット
世の中に対して言いたいことなんて無いけど、ひとつだけ言わせてもらうとするならば、バンド活動だけはやめておけ、それだけだ。
そこでなんでだって問いかけてくる奴、絶対に向いてないからやめとけ。バンドマンは究極の社会不適合だ、他人の言葉に耳を傾ける真っ当な人間なんて、絶対に社会不適合者とは合わない。うなぎに梅干し、スイカに天ぷら、トマトにコーヒー、常識人にエレキギター。後ろに行くほど食い合わせが悪くなるけど、常識人とエレキギターより駄目な食い合わせなんて独裁者と核兵器くらいだと思う。
反対に最良の組み合わせは、私の知ったこっちゃない。私の世界にそんなもんはねえ。
……いや、あったわ。正義感とメリケンサック、もしくは安全靴。なぜなら鉄は最強だから。ロックよりもメタルの方が強い。硬度が違うし、社会不適合度も1ランク違う。
クズがロックスターのステータスなら、メタルのクズはデフォルト装備だ。ドラクエでいうところのヒノキの棒だ。オッケー、ちょっとスライム殴ってくるわ。
というわけで、今、私の目の前にはちょっと小ぎれいなアパートの窓ガラスに、ギターが思い切りぶっ刺さって、中の照明がちかちかと点滅している最低でロッキューな光景が広がっている。
わあ、素敵、エレクトリカルパレードみたい。なんて浮かれる乙女はもう10年近く前に卒業した。エレクトリカルパレード、1回も見たことないけど。
今は寝起きメビウスとストロングゼロ学園に入学してる。よくサラリーマンのみなさまが、仕事後のビールは最高だ、というけれど、ビールはなにもしてなくても最高だし、不思議とストロングゼロはなにもしてなかったら虚無だ。ゼロには何を掛けてもゼロ、つまりは虚無。それの強。まさにストロング虚無。
メビウス吸って、ストゼロ呑んで、ストゼロ呑んで、メビウス吸って、ストゼロ呑んで、だけども魔法は掛からないし、現実は何も変わらない。それを延々と永遠にループする、まさにメビウス。
虚無のメビウスループ地獄。
あ、ギターが重さに耐えかねて部屋の中に吸い込まれていった。現実、ちょっとだけ変化。
部屋の主は未だに出てこない。ここまで大変なことになってて、なおも居留守ぶっこいてやがるなんて、なかなか1本筋の通ったクズ野郎だ。イギリスだったらきっとスターになっていたことだろう、今から渡英して来い。フィッシュアンドチップスが本当にまずいのか確かめてこい。そして400字詰め原稿用紙100枚くらいにまとめて長編大作送ってこい。すぐに着払いで送り返してやっから。
部屋の主は私が高校生の時からやってるインディーズバンド、そろそろ10年選手になるというのに未だに誰もチケットノルマを達成できない、逆に才能に溢れすぎてんじゃないかって噂のバンド、ジャンルはゴリゴリのデスメタル、その名も【負け犬も歩けば棒が刺さる】のメンバーでギターの男。去年抜けたドラムの代わりに何故か入ってきた奴で、ドラムもドラムで朝は起きれず夜は酒で動けず昼は鬱でなにも出来ずな、なかなかどうしてな社会不適合者だったけど、こいつは金と時間と女にだらしないタイプのいわゆるアクティブなクズだ。
ちなみにドラムは今、どこか遠くの町の閉鎖病棟に入ってる。面会に行ったことはない。
「おい、クズ。出てこい、クズ」
ちなみにクズは奴自身の性質と生態を簡潔かつ的確に表した言葉だけど、奴の苗字は葛谷という、全国の葛谷さんには申し訳ないけど、そんな苗字に生まれてしまったからには清く正しく生きるしかないって思わずにいられない苗字・オブ・ザ・イヤー毎年連覇達成な苗字なので、クズはクズであるけれど決して悪口ではないのだ。
今は悪意でしか口にしてないけども。
私は私で毒島三日月という駄目な食い合わせみたいな名前をしてるけど、これは私のせいじゃない。親が悪い。もっというと社会とかそういうのが悪い。あと神とか。
なんせ毒の島と書いてブスジマだ。三日月と書いてミカヅキだ。そっちは普通なんかい。
あ、申し遅れました。毒島三日月です。名前は覚えなくていいので顔と音を覚えて帰ってください。こんな自虐的な挨拶も定番になって8年ほどになる。
ちなみにバンドメンバーは最初こそ正統派にギター、ボーカル、ベース、ドラムと揃っていたものの、気が付けばひとり辞め、ひとりふたりと入れ替わり、なんか急に増えたり、やっぱり減ったりして、結成時のメンバーは私だけとなり、なぜか今ではギターが4人になって、名前以上にふざけたバンドにいつの間にかなったのだ。
当然、そんなふざけた奴らがまともに活動できるわけもなく、ライブで全員揃うことなんて奇跡だし、私はドラムやったりベースやったり、本業のギターを弾くこと自体珍しくなったし、そのギターも勧善懲悪で鉄拳制裁といわんばかりに突き刺さってる。
メンバーや他のバンドから金を借りるだけ借りて逃げたクズをぶん殴るために。
私が貸した5万円を返してもらうために。
たかだか5万で人を殴るのか、なんて人は言うと思う。
でも5万円はそいつにとっては5万円かもしれないけど、私にとっては5万円ではないのだ。いや、5万円は5万円だけど、重みが5万円ではないのだ。
家賃1万8000円、スマホ代4500円、光熱費水道代1万円、タバコ代酒代3万円、食費2万円、その他保険とか年金とか猫の餌代とか諸々合わせて、しめて余裕の10万オーバー。そんな生活を送ってる貧乏ミュージシャンの5万円と世間の5万円が同じなわけあるかいって話だ。
だから頭をかち割ってでも取り戻さなきゃならないのだ。
「おい、出てこい! クズ、出てこい!」
私はギターの首根っこを掴んで振り上げて、舞い散る硝子がちょっと綺麗だなとか思いながら、再び鉄槌のような一撃を繰り出したのだった。
・ ・ ・ ・ ・ ・
吾輩は猫である。名前はカツオブシ。
毒島さんの部屋のベランダに住み着いて早3年、家主の失態も醜態も何度も見てきたけれど、今日の醜態は特に酷かった。
なかなか帰ってこないので胴を長くして待っていたら、ボロボロに壊れたギターを肩に担いで、あちこち痛んだスカジャン姿で戻ってきたと思いきや、まさかの部屋を間違ていたという大失態。
吾輩の食費を取り返しにいったはずが、窓ガラスの修理代、部屋の修理代、おまけにベコベコにへこませたドアの修理代で所持金はゼロを大きく下回ってマイナス、メンタルも大幅にマイナス、あと社会的な部分でもクズを下回るマイナス。暴力とだらしなさでは圧倒的に暴力の方が悪とされるのだ。
そんな悪の権化こと毒島さんは、狩りの前の猫のように頭を地面に擦りつけて、尻だけはちょっと持ち上げる姿勢で号泣している。泣いて許されるのは少女の頃だけ、というのは毒島さん本人の言だけど、当の毒島さんはとっくの昔に少女は卒業してるけど号泣している。
ちなみに今日から前科者に入学した。お祝いを下さい、出来ればちゅーるで。
「もうやだー!」
「もうやだーじゃないでしょ、なんで部屋間違えるのかね? 人間のくせに馬鹿なのかね?」
「そうかー、カツオブシー。お前だけは私の味方してくれるかー。かわいいにゃー、かわいいにゃつめー」
毒島さんは馬鹿だから猫語がわからぬ。今日日、人間だって母国語とちょっとの英語は喋れたりするのに、日本語しか喋れないなんて、なんて駄目な人間だ。学べ、猫語を。
「いいかね、毒島さん。まずは簡単な言葉から覚えるといいよ。リピートアフタミー、ちゃおちゅーる。セイッ!」
「カツオブシー、お前はいい奴だなー。猫だもんにゃー、人間は全部クソだけど猫だけは正義だもんにゃー」
駄目だ、学ばせる以前の問題だ。ちょっと小学校からやり直してきてくれないかね。
「よし、決めた! カツオブシ、私はもうバンドを辞めるぞ! 時間も法律も常識も約束も守れないような社会不適合者共、こっちから願い下げだ!」
かくいう毒島さんも、朝起きれなくて何度もバイトを遅刻したり、法律はまさに今日破ったところだし、常識があるかといえばそもそも初手でギターで窓を壊すなんて選択肢を取るのは非常識そのものだし、吾輩のごはんを豪華にするという約束は未だに果たせてないから、控えめにいってもクズなロックスターと大差ないのだけれども。
思うに社会不適合者は音楽か演劇か詩か小説をやってた方がいい。社会に合わなければ合わないほど、なんていうか味が出るから。その味が人体にとって有益かどうかはさておいて。
「そういうわけでカツオブシ、私は社会の歯車になるぞー!」
無理だと思うけど、まあせいぜい頑張りたまえよ。絶対に無理だと思うけど。
・ ・ ・ ・ ・ ・
「やってられっかよ、馬鹿がよお!」
貧乏人の嘆きは愚か者の涙、ズレた歯車の奏でる歯軋りはみなごろしのメロディ、今まで周りが社会不適合者ばっかりで忘れてたけど、私も立派な社会不適合者の一員だったのを嫌でも思い出させる社会への馴染めなさ。
まさか会話も成立しないほど相手がなに言ってるかわからないし、少なくとも仲良くできるとは思えない程度には相手がなに考えてるかわからない。
人によってはどんな相手でも上手いことあしらったりするんだろうけど、なんせ相手は私にだけ挨拶もしないし、話しかけても私にだけ返事もしない、けれども他の人たちにはペコペコと調子よくお喋りするような、なにひとつとして理解できない銀河の果てよりも遠くから来た宇宙人だ。
宇宙人むずかしい、宇宙人わからない。宇宙人と仲良くできる人間もわからない。私にわかるのはコードの押さえ方とギターでの殴り方だけ。
「にゃあーん」
カツオブシはきっと、大丈夫、毒島さんは頑張ってるからそのうちいい職場と巡り合えるよ、とかなんとか言ってくれているに違いない。だって毎日いいもの食わせてやってっから。
「あーあ、仕事したくねーなー!」
今日もそんなことを言いながら、スマホに向かってペチペチと心の澱のような文字を撃ち続けて、とにかく酒以外のカロリーになりそうなものをありったけ流し込みながらギターを弾き、ぎりぎりかろうじて楽曲の形にまで磨き上げて、愛すべきだけどそんな気持ちにもならない、どうしようもない社会不適合者たちと一緒にスタジオに入るのだ。
だってそうでもしないと、1秒だって正気を保てないから。
こんな社会やってられっか。私は歌って酒飲んでくたばるんだ。
アメフラシ症候群
9月20日未明、ひとりの囚人の死刑が執行された。
死刑囚631号
本名■■■■
(※テロリストに対する特殊措置第5番により氏名抹消済)
享年17歳。
罪状【愛を捨てたこととそれに付随する複数の殺人】
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看守は憂鬱だった。
自分の仕事を誉れ高き国家への奉仕と理解しているものの、それでも仕事に赴く時に少しばかり憂鬱の気配が紛れ込んでくるのは、おそらくどんな仕事でも同じだろう。医者であれ、教師であれ、清掃員であれ、缶詰工場であれ……当然、囚人たちが馬鹿なことをしでかさないように見張る看守であれ。
「我の祈りは天に還り、我の心は海に溶け、我の願いは地に根付く。神は迷える民を導き、金色に輝く世界に息吹を吹かせる。この日の光と月の光が我が心を癒し、我が身を潤し、我が掌に神の恵みをもたらし、今ここで生き永らえる奇跡を感謝する。健やかなる時も病める時も、すべての家族と友達と隣人と喜びを分かち合い、悲しみを分け与え、租と神へ残らず捧げよう。我が魂は天へ、我が体は神へ、我の罪は地の底へ、我の血は最後の一滴まで子々孫々へ、我らが永久に富み栄えていられることを……」
そんな日は朝から祖先と神への祈りを奉げ、心に平穏を取り戻す。
祈るという所作は誰が為にではなく己のためにある、看守は宗教や信仰心をそんな風に理解していた。一方で、労働は誰が為にある。特にこの国では、労働は己が食うため以上に子々孫々を活かすためにあり、直接的に金を生み出さない類のものであっても、自分より若い世代が健やかに育つためにあるのだ。
看守は年齢でいえばまだ若い、平均すれば子供の2人か3人を抱えている年齢の女だ。機能的な問題もあって看守自身に子供はいないが、他人の子供を見れば愛情や願いを覚えなくはないし、時には羨ましさを抱くこともある。
だからこそ理解出来ず、正直にいえば陰のような、うんざりした気分になってしまうのだ。
(犯罪者でも理解できる動機の持ち主なら、まだ同情も出来るし会話も出来る。けれど理解の埒外にあっては、会話するのも忌々しい、虫が背筋を這うような薄気味悪さを覚えてしまうのだ)
そう、理解できる犯罪者もいる。むしろ収監される犯罪者の大部分、おそおよ99%はそっち側だ。彼女たちは時に愛憎であったり、時に欲望であったり、時に衝動であったり、そういったものに突き動かされて、他者を害してしまった者たちだ。その対象は状況に応じて様々で、自分の親であったり、恋人や配偶者であったり、不幸にも他人の子供であったりするが、まだ血の通った人間と思えるのだ。
しかし、稀に、どうにも理解できない悪性の腫瘍のような奴が現れる。
特に最近収監された未成年の死刑囚、彼女は最悪だ。
容姿の造形は決して醜くない、どちらかというと平均値を上げる側だろう。だのに、鉛のような暗く重たい瞳をしていて、どうにも同じ人間だとは思えないのだ。
彼女の罪状は、すでに名前や戸籍と共に一切が記録から抹消されているが、まだファイルに残っている間に覗き見たので覚えている。覚えているというよりは忘れられない、というのがより正確だ。
それは実に悍ましい所業であった。
【75人の乳児と13人の看護師、医者2人】
この、裁判を待つまでもなく死刑を確定させてしまう膨大な量の罪は、彼女の鉛のような瞳のように理解できない不気味さを纏っているのだ。
人間の命は平等ではない。
この国では大人よりも子供を殺した方が罪が重い。男よりも女を殺した方が罪が重い。
30年ほど前まで辺境の小諸国のひとつでしかなかったこの国は、言葉にするとしたら富国強兵の概念で動いている。先進諸国が少子高齢化の傾向にあり将来的な国力を弱めている中、この国ではとにかく子供を増やすことに重点を置いた。合計特殊出生率は目標値で7以上、徹底的に管理された社会で子供を18歳まで育て、能力の高い優秀な人材のみを国家の要職や研究職、医者などに登用して、能力が平均を下回る男子は単純労働階級に、能力が下8割に相当する女子は出産者階級に組み込まれる。
その後の人生は生まれてくる子供たちの為に費やし、男は80歳まで、女は出産がいよいよ難しくなる45歳を過ぎれば80歳まで働き続け、看守のように機能的に問題が発覚したら男と同様に働き続け、国家の礎となって平穏で安楽な、幸福に包まれた死を迎えることになっている。
概ね非人道的な体制にある国家だが、国力の増強は今のところ成功しているといえる。いずれ訪れるであろう食糧不足や資源不足といった問題点はあるものの、経済面でも人口面でも国力に関しての成長は著しく、結婚相手も含めて将来を決められる仕組みは、ある意味で誰もが平等に生き易いと言えなくはない。もちろん政府の発表を真正面から信じれば、という前提があっての話ではあるが。
当然、そんな仕組みを窮屈に思う者が出てくるのも仕方ない。人間は上を見ても下を見てもキリが無い生き物なのだが、かといって命を奪っていい理由にはならない。特に堕胎も含めた子殺しは最も罪深く、どんな事情や情状酌量の余地があろうと確定で死刑となる。もちろん他人の子であってもだ。
一方で、特に知能に障害を持った赤子は、社会の負担と判断されて生まれた時点で処分されるのだから、子供の命ですら平等ではないわけだが。
「ねえ、看守さん。火を持ってないかい?」
簡素なベッドとテーブル、壁に備え付けられた鏡のない洗面台、あとは便器くらいの独房から、鉛のような瞳と口に咥えた煙草を格子の隙間から看守に向けてくる。煙草の持ち主はまだ若い、少女といっても大袈裟ではない年齢で、実際に看守よりも10年は年若い。なのに瞳は死んだ魚のように薄暗く、なんの光も宿していないように深く重い。
少女にはかつてあったものが今は無く、自由も名前も、本来の余命の大部分も失われているが、誰からくすねたのか煙草は1箱持っていた。
「煙草を手に入れたものの、マッチを貰うのを忘れててね。誰からって顔をしてるね? 同性愛者のキャステーコさんによろしく伝えておいてよ」
看守はその名前を耳に放り込み、ああ、なるほどといった表情を浮かべて、僅かな時間逡巡したように見せた後で懐からライターを取り出した。
「房内は禁煙なんだけどな」
「煙草くらいじゃスプリンクラーは作動しないよ。何度か試したからね」
「……まったく駄目な看守もいたもんだ」
「まったくだね。でも、おかげで煙草を吸える自由は手にしてる」
煙草の尖端がジリジリと音を立てて焦げる。メントールの香りが煙に混じってゆらりと燻って、格子を挟んで房内と廊下に満ちていく。その匂いを埋めるように、看守は看守で懐に放り込んでいた煙草を咥えて、きつめの臭いを撒き散らす。
「駄目な看守がここにもいた。妊娠する予定があるなら、煙草はやめておいた方がいいよ。胎児に悪影響だからね」
「ガキ殺した奴がよく言えたもんだ……残念ながら、そんな予定はないんでね」
「じゃあ、きっと看守さんは暇だね。少し話相手になってよ、暇でさ」
看守は暇ではない。とはいえ交代の時間まで廊下をうろうろと見回ったり、時間になれば格子の隙間から最低限の食事を放り込むくらいしかすることがないのも事実で、要するに何か問題でも起きない限りは時間を頑張って潰すしかなかったりする。
中には接吻をしたリ、指で股座を愛撫させたりする不届き者もいるようだが、看守はメントール好きの同僚と違ってそういう趣味はない。それこそ看守が今の仕事を始めた頃には、女囚の棟にも男性看守が出入りしていて、うっかり死刑囚との間に子供をこさえてしまったなんて事件もあったが、死刑は赤子も殺すことになり堕胎に該当するのでは、と揉めたことがあり、淫猥な時間潰しは随分と減りはしている。
ちなみに囚人、特に思想犯の穢れた遺伝子を残したくはないが、障害がない限り殺処分も出来ないため、大変に面倒だと判断されたが、旧来の堕胎の言い訳に従って未成熟な退治は命ではないと結論付けて死刑は執行された。
そんな過去の堕落者たちの反省も踏まえたのか、看守は反対側の空っぽの房に背を預けて、少女に見下すような蔑むような視線を向けた。会話には付き合うが、理解し合うつもりはない、そういった瞳だ。
「……で、なにから聞きたい?」
少女は鉛のような瞳以外は年相応の笑みを浮かべて、2本目の煙草の尖端に火種の残る吸殻を押し当てて、器用に焦がしてみせた。
「といっても別に聞かれたことに答える義理はないから、勝手に喋らせてもらうよ」
「好きにしろ」
本来は囚人、その中でも殺人を犯した者、特に犯行動機が危険な思想と思しき者と喋ることは禁止されている。それでも看守が話相手になっているのは、偏に目の前の少女の余命が短いからだ。死刑囚に食わせる飯はない、というのは概ね世論の中心を捉えた意見であるし、囚人と接する看守自身もそれに同調してもいいくらいには合理的に考えている。人間は水すらなくても数日、水と塩があれば数週間は生きられるのだ。死刑囚は概ね1ヶ月以内に刑が執行されるため、本来は食事を与える必要などないのだが、罪深い者でもその身が少なからず資源であることに変わりない。腎臓に心臓、肺腑、角膜、死刑囚に飯を食わせるのは健康な臓器を保ち、国外向けに高額で輸出するためだ。
そういう事情もあって、忌々しかろうが飯は食わせるし、飯を食わせたら少しばかりの情が湧くのが人間というものだ。
少女が犯行に及んだのは1週間前、早ければ明日の早朝、遅くとも2週間以内に刑が執行される予定なのだ。
「そういえば父さんと母さんは元気? そんなわけはないと思うけど」
「さあね、私は刑事でも検事でも裁判官でもないから知らないよ」
看守はひとつ嘘を吐いた。少女の両親は、娘の罪深さを知らされた時に自らの首に刃を突き立てた。どのみち死刑に処されるのであれば、自ら命を絶ってしまおうと考えたのだ。
彼らに罪があったのか否かは定かではない。定かではないが、罪深い思想犯を育ててしまった失敗は、今後も間違いを繰り返すと判断されるであろうし、その結果として処分されるであろうことも理解していた。この独裁的かつ徹底的に仕組みを重視する国では、失敗者に関しての情状酌量の余地など存在しない。罪人や失敗者がひとりやふたり減ったところで、問題にならない程度に人口は増えているのだ。
「生きてるわけないよ、嘘が下手だね」
少女はにやりと歪んだ笑みを浮かべて、煙草の煙を静かに吸い込んで、淡々と語り始めた。
「ボクの親は典型的な国家信奉者でね、ボクが無性愛者だと知ったら酷く落ち込んだだろうね。親や教師の前では適当に異性愛者のふりをして、隣のクラスの誰々君が気になるだとか、思ってもみないことを何度も口に出したものだよ。見本はそこら中にいたからね、真似るのは簡単だった。あいつらの中には18歳を待たずに妊娠して結婚したのもいたけど、そこまで真似ようとは思わなかったな」
この国の女子は18歳になると同時にAIが判定した、最も妊娠効率の良い相手と番いになり、3年に1人以上のペースで子供を産み続けるノルマを課せられるが、例外的に妊娠あるいは出産を経験していれば、そのまま婚姻関係を結ぶことが出来る。当然、ノルマを達成する限りは婚姻関係を継続出来るため、意外に学生結婚をする番いは多い。むしろ見ず知らずの相手に抱かれるくらいなら、手近なところでも構わないからどうにかしたいと思うのは、自然で当たり前な思考回路ではある。
「だけどボクは男に抱かれるつもりはなかったし、女を抱く趣味もない。そのまま18歳になるくらいなら死んだ方がマシだと思ったのだよ」
「だったら自殺でもすれば良かったんじゃないか?」
「……その発想はなかった。そうだね、もし今すぐにタイムマシンでも開発されたら、過去のボクに教えてあげよう」
少女は悪戯めいた反応を見せて、看守の不快感を更にもう一段階深めてみせた。
「もうひとつ、弾は惜しむなってのも伝えないとね。実は後悔してることがあるんだ、折角手に入れた銃弾を余らせてしまった」
「事件に使われた弾丸は35発だったな」
「神父様に使ったのも含めたら36発だよ」
聖職者心中事件。少女が事件を起こすのと同日に起きた教会の神父と未成年男子が心中した事件だ。教会の懺悔室に、鈍器で撲殺された13歳の少年と下半身裸で喉を撃たれた30代の神父の死体が転がっていたのを、教会に出入りする清掃員が発見した。少年の手には拳銃が握られていて、床には薬莢がひとつ転がっていた。顔の変形した神父の傍らには、少年の血液がついた鉄パイプが落ちていて、警察は銃の出処こそ不明だが、異常性愛者であった神父が暴力的な性行為に及んだ結果、少年に撃ち殺されたと判断した。聞き取り調査の結果、少年には同性愛の噂があり、教会に頻繁に出入りしていたことも確認された為、これは心中かもしれないという推測が挙げられ、もうひとつの大きい事件の影響もあって、そういうことだと片付けられた。
この国での同性愛者の扱いなど、こんなものなのだ。看守も今更、驚いてみせるようなこともない。
「……悪魔め」
しかし、それが第3者が偽装した殺人であるならば話は別だ。銃の出処である神父の死に同情する点はないが、矯正さえすれば精子提供者くらいにはなれたであろう少年の死は気の毒という他ない。
「少年の名誉に誓って断言しよう。あの神父様は変態で嘘つきだが、恋人に対しては正直で扱いは丁寧だったよ。それこそ死の間際まで、宝石商がダイヤを扱う時くらいに繊細だった」
少女は断言こそしないが、またひとつ罪を重ねてみせた。通報や密告を恐れたのか、邪魔されたくないと思ったのか、犯行のための道具を手に入れた後で、その場に居合わせた出処とそいつの弱味をあえて潰したというのだ。
神父から銃を手に入れるために少年を宛がったのだろう。銃があるとの確証を得た方法は判らないが、聖職者と反社会勢力の繋がりというものは、決して無くはない。事実、教会や慈善団体の事務所に麻薬や武器を隠していた事件も、両の指では足りない程度に転がっている。
「なあ、631号。ひとつ聞いていいか?」
「名前で呼んでくれてもいいんだよ、■■■■って。ちなみにキャステーコさんは、絶頂に至る時に呼んでくれたけどね」
「テロリストに名前を与えないのは、この国では当たり前のルールなんだよ。お前の名前も思想も身の上も、何処にも誰にも語られることはない。だからこそ聞きたいが、どうしてあの日に犯行を起こした?」
少女が75人の乳児と13人の看護師、医者2人の命を奪い、逮捕されて名前も戸籍も未来もなにもかも失った日、その日は他国の大統領含めた要人が訪問していた。そのため空港だけでなく駅や主要道路にも厳重な警備が敷かれ、報道機関も完全な政府の管理下にあった。元々観光地と労働場所が完全に分離されている国だが、その日は隔離といっても過言ではない程、負の側面は徹底的に隠されたていたのだ。
疲れ果てた労働者が仕事着姿で僅かな給金を質素なパンに換える姿、子供たちが学校で知能や運動能力や容姿で分別される姿、容量を上回る子供を抱えた苦労で病んでしまった母親、80歳を迎えて安楽施設の列に並ぶ老人、事故で指が飛んだだけで殺処分されてしまった負担品、そういった負の側面を隠されたのだから、狙ったかのように起こされたテロリズムなど報道されるはずもなく、新聞の片隅どころかインターネットの際涯にさえ載ることはなかった。
「そうだね、あの日でなかったらSNSくらいには載れたかもね。でもボクにはどうでもいいんだよね、そんなこと。だってあいつら訳知り顔で好き勝手に書くでしょ。彼女はきっと劣等生だったんだ、とか、これは国家に対する若者の抗議行動だ、とか、精神異常者だったに違いない、とか……うるせえ、ばーか、って話だよ」
少女は軽妙な語り口で鉛のような瞳を看守に向けた。冗談めいた口調に反して、その瞳はどこまでも深く暗い。
「強いていうなら、語られないからこそ狙ったんだよ。職業体験で働いた病院を選んだのは、知らない相手を殺すのは可哀想だから。まあ、その辺りは顔見知りと赤の他人のどっちを殺すのがより悪か、見解の不一致が起きやすい部分ではあるけどね」
「お前の働きぶりは評価されていたそうだな。熱心で健気で、慈悲深く、乳児への愛情に溢れていた。お前の異常性に気づけなかった医者を、間抜けと罵るべきなんだろうが」
「看守さん、お医者さんは悪くないよ。だって私は子供好きだからね、もちろん赤ちゃんも」
「……は?」
少女の回答を聞いた看守の顔に、明確に怒りの感情が浮かぶ。看守は看守らしい正義感の持ち主だ、隠れて煙草を吸うような狡さも、囚人の暇潰しに付き合う俗性も持ち合わせているものの、基本的には善良で真っ当な人間だ。
だからこそ許し難い感情も湧くのだ。
「看守さん、好きっていう感情と殺しても構わないって判断は両立するんだよ」
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「我の祈りは天に還り、我の心は海に溶け、我の願いは地に根付く。神は迷える民を導き、金色に輝く世界に息吹を吹かせる。この日の光と月の光が我が心を癒し、我が身を潤し、我が掌に神の恵みをもたらし、今ここで生き永らえる奇跡を感謝する。健やかなる時も病める時も、すべての家族と友達と隣人と喜びを分かち合い、悲しみを分け与え、租と神へ残らず捧げよう。我が魂は天へ、我が体は神へ、我の罪は地の底へ、我の血は最後の一滴まで子々孫々へ、我らが永久に富み栄えていられることを……」
憂鬱な日は祖先と神に祈りを奉げる。
銃の出処が教会だったと知ってしまってもなお、看守の神への信仰心は変わらなかったし、祈りという所作が誰が為にではなく己のためにあるという思考は、看守が今日も正常な人間であることの一助となった。
心の平穏を保つために、異常者には速やかに消えてもらいたい。そう思うのもまた正常な人間の正常な反応だ。
「やあ、看守さん。今日も話相手になってくれないかい?」
「……断る。お前と話していると頭がおかしくなりそうだ」
「その意見はご尤もだけど、それだと私が困る」
「困る? お前に困ることなどあるか? 刑が執行されるまで、房の中で飯を食って時間を潰すだけのお前に?」
「そこだよ。ボクは死を待つしかない、脱獄王でもなければ協力者がいるわけでもないからね。おまけにキャステーコさんが異動させられたから煙草も手に入らない。ただ、ぼーっと死を待つのは怖いんだよ? 代わってみる? 人を殺さないと代われないけどね」
少女はもう何度も咥え続けた煙草の、フィルターだけになった残骸のような姿を口に運び、せめて吸ったような気分になろうと試みた。
煙が揺れることもなく、なにか香ることもない。代わりに空虚だけが房の中に満ちている。
「かっこよく死にたいんだよ。堂々と、減らず口のひとつでも叩きながら、忌々しい顔で見送られたい」
少女の鉛のような暗い瞳が、真っ直ぐに看守を見据えている。
その瞳に根負けしてしまったのか、看守は懐に忍ばせていた煙草とマッチを格子の中へと投げつけた。
「■■■■? 変なことを聞きますね、我が校にはそのような名前の生徒は居ませんでしたよ」
「■■■■? 誰それ、知らない」
「■■■■? そんな名前の子、いたっけ?」
「帰ってください、話すことなんて何もありません」
「悪いことは言わない、その名前は口にしない方がいい」
この国の教育は正しく作動している。
看守が少女の母校やかつての友人たちに話しかけたのが、興味本位なのか理解できないことを再認識したかったのかは不明だが、教師から生徒、友人知人、近隣住民までこぞって少女の存在を無かったものとして扱う姿は、テロリストに名を与えない国の方針が正常に働いている結果といえよう。
「……薄情なものだな、同情するわけじゃないが」
これほどまでに一律に口を噤まれると、薄気味悪さのようなものを感じなくもないが、国としてはそれが模範的な姿なのだ。
疑わず、逆らわず、正しく社会を動かす。少女のような例外はあれど、国民の大多数が貧しいながらも限界まで働き、次代の子供を作り続ける。ブレーキのない糸巻き車のような社会の在り方が、この小諸国のひとつでしかない国を辛うじて支えているのだ。
「■■■■は良い子でしたよ。ああ、ご心配なく。語ったところで逮捕も処罰もされません、私は午後から安楽死になりますから」
そんな社会の中で、正直に語ったのが死を間近に迎えた老人だけだったのは、看守にとって意外だった。国が今の方針を定めてから30年、体の限界まで労働を課せられた従順な歯車が、どうしてこの期に及ん歯向かうような物言いをしてみせるのか。
「年を取ればわかりますよ。最期の最期くらい後ろ足で砂を引っ掛けたくなる、人間ってのはそういうもんです」
老人は最後の晩餐にと、安い珈琲にジャリッとした砂糖を溶かして、ゴキュリと不健康そうな音を奏でて飲み込んだ。
「私たちは残酷なことをしたのかもしれない。若い奴らから生き甲斐を奪っちまった。だってそうでしょう、恋も出来ない、仕事も選べない、子供を作り続けなければ連れ合いと一緒に居ることさえ出来ない。■■■■みたいに異性を好きになれない不能者には地獄でしょう。社会はああいう子に、せめて猫でも撫でさせて、人並みに胸張って生きれる場所を与えるべきだったんですよ」
「だからって人を殺していい理由にはならんでしょう」
「それもそうだ。でも看守さんだって、腹も立てば物に当たることだってあるでしょう? そいつの大きさは人それぞれだが、■■■■の場合は、それがちょっとばかり人より大きくて、思い切りが良過ぎた。賢いのも良くなかったですな、自分の未来が鉛色の絶望しかないって、小さい頃に理解しちまったんでしょう」
老人はくしゃくしゃな袋から煙草を取り出して、静かに肺の中に煙を吸い込み、火葬場の煙突のように吐き出した煙を揺らめかせた。
「やあ、看守さん。これはもしもの話なんだけどね」
少女は日に日に気さくに話しかけてくるようになったが、瞳はいつまでも変わらずに暗く鉛のようだった。いつからこんな眼をしているのか、誰にも何にも期待しない、生きることを放棄した眼だ。
「仮にもしも、どこか別の国で違う生き方を出来るとしたら、看守さんだったらどうする?」
「なんだその話、ガキじゃあるまいし……そういえば、まだガキだったな」
「そ、ガキのもしも話ってやつだよ。ボクはね、孤独な奴がいっぱいいる国に行きたいな。そこで狭いアパートに住んで、猫でも飼って、たまに近所の子供に向かって、うるせえクソガキ黙れ、って喚いたりして。そういうめんどくさいババアになるんだ」
少女は咥えた煙草を、口元を動かす度に上下させる。今日は機嫌がいいのか、それとも最早なにもかも観念したのか、この前のような空虚で陰鬱な気配は無い。
いや、少女は少女なりに精一杯に強がっているのだ。それが証拠にマッチを擦ろうとする指は小刻みに震えているし、ベッドの上は乱雑に散らかって、薄くて黴臭い布団を丸めたような形跡がある。
「……そうだな、友達になってやるよ、お前と」
看守はライターを取り出して、少女の口元に小さな火柱を立てる。
火のついた煙草が格子の外に零れ落ちて、格子に寄り掛かるように少女が体の上半分を傾ける。
「……効いたなあ。看守さん、そういうこと言うのは卑怯でしょ」
「大人ってのは卑怯なんだよ、覚えとけ」
看守は仏頂面に珍しく微笑みを浮かべて、懐から拳銃を取り出す。看守が携帯する拳銃は、本来なら鎮圧用のものだ。だから囚人が暴れた時以外に使用したら、何枚も始末書を書く羽目になるし、場合によっては退職なんてこともある。
けれど看守は躊躇せず、俯いたままの少女の頭をタンッと1発、鉛弾を撃ち込んで、床に落ちた煙草をゆっくりと吸ってみせたのだ。
「清掃費と弾丸代、給料から天引きしておくからね。あと今日は有休使っていいから帰りなさい」
独房と廊下の清掃代と1発分の弾丸代、少女を殺したことに課せられた罪は、おおよそ3日分の給金と同額の罰金刑だった。思想犯になると名前だけでなく、命の重みまで奪われてしまうようだ。殺人犯にならなかったのは看守にとって幸いではあったが、喉の奥から胃に掛けて、魚の骨でも刺さったような腑に落ちない気味悪さが残った。
看守はそのまま寮で大人しく過ごすのも癪なので、街のスーパーに出向いて鶏肉と安酒を買い、グリルにして氷入りのグラスで一献傾けた。
そうして煙草を取り出して、中身がないことに気づいて、くしゃりと握り潰したのだった。
蛇崩プロは諦めない~ゴルフと奇術と、時々、二八蕎麦~
何時いかなる時でも、どんな状況であろうと決して諦めない……
蛇崩プロというのは、そういう人である。
「いい天気だ、今日は絶好のゴルフ日和というやつだな」
晴天、微風、気温28℃、もしゴルフ日和という気候状況があるとすれば、今日がまさにそういう日だろう。しかし、だからといって勝てるというわけではないのが、ゴルフというものだ。
ゴルフというものは案外奥深いスポーツで、単に棒で球を飛ばせばいいわけではない。風を読み、コースの距離で戦略を考え、そこに技術と精度を積み重ねていく。そういう建築学のようなスポーツだ。
申し遅れた、私の名前は深泥池さん。平日は立ち仕事の接客業をこなし、土日はキャディーをやっている働き者、日焼けが気になるお年頃の25歳だ。
そして目の前で爽やかな好転を浴びているのが、プロゴルファーの蛇崩プロ。プロ生活20年、そろそろ体のケアが重要になってくるお年頃の45歳。
誰よりも弾を飛ばせるわけでもなければ、誰よりも正確な技術があるわけでもない、もし点数をつけるならあらゆる能力が70点、ただし執念という1点においては120点。蛇崩プロは決して諦めない姿勢で生き残ってきたタイプのプロだ。今日もきっと最後まで諦めずに堅実に勝ちを拾う、蛇崩プロというのは、そういう人である。
例え相手が誰であろうとも。
例え相手がマジシャンであろうとも。
「はっはっは、蛇崩プロ。絶好のゴルフ日和ですな、では先手は僕から」
この男は佐奇森というマジシャンで、マジシャンというのは日本語でいえば手品師だ。奇術師とか魔術師ともいうけど、とにかくそういう職業だ。
おそらくきっと、手品を用いた卑怯な手段を用いてくるだろう。例えばクラブに細工を施して、急激なカーブを描けるようにするとかそういう感じの。
私も蛇崩プロもそう考えていた、その程度の小細工を用いてくると。
しかし、それは甘い希望だった30秒後に思い知ることになる。
佐奇森の打った1打は平々凡々、飛距離もそれほどでもなく、落ちた場所も有利に働くような場所でもない。点数をつけるならば10点、そんな1打だった。
一方、蛇崩プロはナイスショット。距離、落下位置、転がり具合、どれもが良い感じの、まさに力量差を見せつけるような1打だ。
ところでゴルフというのはボールを打って、落下地点に移動して、ボールを見つけて、次の1打を打つ。そういうスポーツなので、打った後はボールを見つける必要がある。
しかし佐奇森の打ったボール、それが落下地点周辺の何処にもないのだ。そういうことは稀にある、思ったより飛んでいたり、思ったより転がっていたり、或いは何かしらの卑怯な手段を用いて実際よりも遠くに運んでいたり。
佐奇森はどういう手段を用いたのかわからないけれど、とにかくボールは思った以上に遠くにあった。蛇崩プロのボールよりも30メートルほど先、転がったにしてもありえない位置に落ちているのだ。
「貴様ぁ、一体なにをした!?」
「蛇崩プロ、私は何もしていませんよ。僕が何かしたというのなら、証拠を出して欲しいですなあ」
ゴルフというのは紳士のスポーツである。紳士に言い掛かりは許されない、紳士であればあくまでも証拠を構えて異議申し立てを行う、そういう必要があるのだ。
そして佐奇森が何かをしたという証拠はない。というよりは見つけられない、というのが正しい。なぜなら蛇崩プロはゴルフ以外は本当に何も知らないような人なのだ。流行りの曲も、セルフレジの電子決済も、なんだったらスマホの使い方も知らない。棒で弾を打つ以外のすべてを忘れてきたような人なのだ。
当然、手品の種明かしなど出来るわけがない。
「はっはっは、蛇崩プロ、また私のボールが遠くにありましたな」
「はっはっは、蛇崩プロ、私のボールはグリーンに乗りましたぞ」
「はっはっは、蛇崩プロ、お先に」
1番ホールは佐奇森が1打差をつけて勝利した。
手品を用いた常に蛇崩プロの1歩先を行く戦法で、このまま刻むようにじわりじわりと差をつけていくと思いきや、蛇崩プロの手品知識の無さを見抜いたのか、さらに大胆で卑怯な手段を発揮していった。
「はっはっは、蛇崩プロ、ボールがバウンドしておりますぞ」
2番ホールでは、硬いゴルフボールをスーパーボールのように不可思議なバウンドをさせてグリーンまで運び、本来6打はかかるところを2打で攻略。圧倒的な大差をつけたのだ。
「ボールが消えた! こんなの無しだろう!」
「はっはっは、蛇崩プロ、真摯なら証拠を出したまえ」
6番ホールでは空に飛んだボールを消して、いつの間にかホールインワンしているという反則以外の何物でもない技を使った。
「今度はボールが増えた! どれが俺のボールなんだ!?」
7番ホールでは逆に蛇崩プロの打ったボールを30個以上に増やして、どれが本物かわからないなら責任持ってすべて打つべきだ、という紳士の暗黙の了解を逆手にとって、200打以上使わせたのだ。
この時点で蛇崩プロの腕はパンパン、本来であればメンタルもバッキバキに圧し折れているはずだった。
しかし蛇崩プロとは決して諦めない、彼の辞書に諦めという文字は無いのだ。
「はっはっは、蛇崩プロ、もう諦めたまえ!」
「くそぅ、打っても打ってもボールが後ろに飛んでしまう!」
それにしても手品というのは多種多様なもので、10番ホールでは蛇崩プロのボールは常に後ろへ後ろへと飛んでしまう。ならばと機転を利かせて後ろを向いて反対方向に打ったら、今度は真っ直ぐ遥か遠くに飛んでしまい、結局このホールは佐奇森が飽きるまで100打も無駄打ちさせられた。
「くそぅ、俺の真上だけゲリラ豪雨が!」
「はっはっは、蛇崩プロ、落雷に気をつけたまえよ」
「くそぅ、俺のボールだけ戻ってきてしまう!」
「はっはっは、蛇崩プロ、ボールに好かれ過ぎですぞ」
徹頭徹尾こんな調子で、17番ホールを終えた頃には、まさかの500打以上の差をつけられてしまったのだ。
蛇崩プロの眼には涙が浮かび、ボロボロになった背中には哀愁が漂う。無駄打ちで潰された両手は最早振り上げることも叶わず、出来ることといえばパターで転がしていくくらい。
しかし、それでも蛇崩プロは諦めない。
「佐奇森、貴様のやっていることは正直さっぱり見抜けない。だがな、俺は絶対に諦めない。俺にはプロとしての誇りと矜持があるからだ。そう、あれは俺がプロを目指した高校生の頃」
ところで私、深泥池さんがどうしてキャディーをやっているかというと、まあ単に今住んでいる実家から近いからなのだけど、キャディーというのは、いわゆる年配のおばさんのする仕事かと思いきや、意外にも学生のバイトも多く、中には男性もいたりする。男女比でいうと1:9、圧倒的に女子社会な女子職場なので不思議に思って、バイト学生の富田林君に尋ねてみたところ、最近はコンプライアンスが色々厳しいので、男性ゴルファーが男性キャディーを指名することも少なくないのだとか。もしかしたら近い将来、キャディーの比率は5:5くらいになってしまうかもしれないけれど、だいたいコンプライアンスで叫ぶのは年配のおばさん連中なので、そうなった時には年配のおばさん連中を恨んでほしい。私はしょせん土日だけのアルバイトなので、別に恨んだりしないけど。
しかし急に明日から来なくていい、なんてことになったら流石に恨み言のひとつもいいたくなるし、もしかしたら恨み手裏剣のひとつでも投げるかもしれない。
そう、私は土日は愛想よくキャディーをしているけど、平日は忍者をやっているのだ、ニンニン。忍者の主な仕事は外国人観光客の体験教室が8割、企業スパイが1割、暗殺が1割。汚れ仕事とファニーな仕事の割合が二八そば的な感じで入り乱れているのだ。個人的には蕎麦は二八であるべきだと思うけど、中には十割蕎麦でなければ認めないという蕎麦原理主義過激派もいるのが困ったところ。
今は蕎麦の話はしていない、忍者の話をしている。
そう、私は忍者であるので、当然忍術も使える。手裏剣投げるのは朝飯前、投げた手裏剣で野菜を切って、火遁の術で火を起こし、あとは普通の手順で味噌汁を作ってしまう。そんな腕前の持ち主なのだ。
なので見るに見かねて、ちょっとばかり忍術を使ってしまっても仕方ないのだ。
「というわけでな、佐奇森! 俺は決して諦めないと誓ったんだ!」
「蛇崩プロ、僕はあなたのことを誤解していたかもしれない。ただしぶといだけの凡人、そう思っていた。しかしそうではなかった……ならば僕もマジシャンとして全力であなたを叩き潰してみせよう!」
なにやら向こうは盛り上がっているけど、こっちは蕎麦とか味噌汁とか考えていたから、さっぱり話についていけない。
そして話に夢中で私の一挙手一投足にまったく気づく気配がないので、静かに佐奇森の背後に回り、首に手をかけ、頸椎をコキャッと外して、昏倒したところを幻惑剤と覚せい剤とテトロドトキシンと、ハイチから取り寄せたゾンビパウダーを混ぜ合わせた秘伝の粉薬(ドクペ味)を飲ませて、頸椎を戻して立ち上がらせた。
「うあぁぁぁぁ……うあぁぁぁぁ……」
意識朦朧とする中、壊れた玩具の様にボールを打ち続ける佐奇森と、そんなことはお構いなしに一心不乱にパターで着実にグリーンへと近づいていく蛇崩プロ。なんというか兎と亀みたいな話だなあ、とか考えてしまったけど、仮に保育所で読み聞かせたら保護者の方々から鬼のようにクレームが飛んできそうなので、間違っても読み聞かせないようにしよう、なんて思っていると、
30打ほど使って蛇崩プロ、執念のチップイン。
一方、佐奇森は20打ほど空振りを繰り返して転倒、悶絶、そのまま気絶。途中で試合放棄ということで、蛇崩プロの決して諦めない執念が勝利を呼び込んだのだ。
忍者の力だろって? そんなことはない、蛇崩プロの諦めない姿勢が勝利を読んだのだ。
忍者の力なんて添え物、白ごはんにかけるフリカケ程度に過ぎないのだ。フリカケが主役か否かと問われれば、まあ十中八九主役であると答える主義者だけど。
「深泥池さん、今日もありがとう。君と組んだ日は、俺は不思議と絶対に負けない、そんな気がするよ」
「いや、実際に負けてないですから」
そう、屈強なグラディエーターとやった時も、天候を操る祈祷師と戦った時も、ヤクザと戦った時も、ロシアの殺人サイボーグと戦った時も、蛇崩プロは決して諦めなかったし、最終的に私の忍術で勝ちを呼び寄せたのだ。それは忍者の力だろうといわれると否定できないけど、しかしどれも蛇崩プロの諦めない姿勢があってこそ。
割合でいうと忍者2の蛇崩プロ8、まさに二八そば的な勝利なのだ。
そうだ、今日は二八そばにしよう。めでたいから天ぷらでも乗せて。
家出少女・オブ・ザ・デッド
夜の町を歩くのは様々だ。
仕事帰りの人、勤務中の人、部活終わりの学生、今から塾に通う学生、いかがわしい店の呼び込み、下心満載の下衆、暇人、酔っ払い、プッシャー、今夜あたり飛んでしまいたい人、実に様々で中には変なのがひとりやふたり混じっていても、多分そんなに気づかれないだろう。
でも変なのは自身の状況が変である自覚があるので、なるべく安全な場所に向かってしまう。
夜の町で最も安全な場所はコインランドリーだ。
コンビニのイートインもいい線いってるけど、飯を食べ終えたら出ないといけない。安全に対するコスパが悪い。
その点、コインランドリーは圧倒的にコスパがよい。洗濯をしている時間はもちろん、空いてさえいれば洗濯をしているふりでもして過ごせば、少なくとも夜の9時くらいまでは平穏に過ごせるし、24時間営業であれば朝まで過ごすことも不可能ではない。
もちろん警察から何をしているのかと問われることもない。答えは問うまでもない、一目瞭然、見ての通り。洗濯をしている、だ。
おまけに防犯カメラ完備で死角も皆無だから、捕まる前に稼ぐだけ稼いで国に帰っちまおうな外国人窃盗団でもない限り、小銭目当てなんかで大胆な無法を働きはしないし、そういう連中はもっと金の臭いのする宝石店やブランド品店を狙うため、結局コインランドリーが安全であることは揺るぎない。
「この世に存在してくれてありがとう・オブ・ザ・イヤーだ」
行く当てのない家出少女が砂糖多めの缶コーヒーを飲みながら一息吐く。
帰る場所もなければ帰るつもりもない、かといって生活を変えるつもりもない少女からすれば、この防御力高めの砦は実家よりも教室よりも安全で安心なのだ。
変な来訪者でもない限りは。
「……あ、人がイる。穴場だと思っテたのに……」
「そりゃいるでしょ、コインランドリーなんだから」
少女は夜9時過ぎの来訪者の、妙に片言な言葉に無作為に返事をしながら、視線をゆっくりと移して目を丸くした。目を丸くしたというのは比喩的表現というやつで、実際は怪訝な表情というか、眉をひそめるというか、どちらかというと目を細めた。
理由は簡単、そこにいたのが明らかに不健康な青白い肌の色をしていて、若干の腐臭を漂わせる小柄な女だったからだ。とにかく尋常ではないのは、裸足の足元からは体液のような生臭い汁が漏れていることだけでも十分わかる。
しかし生臭いものが危険かと問われれば、答えはノーだ。
「こ、怖くないんデすか……?」
「んあ? 別に?」
怖くないといえば嘘にはなるが、怖いといえば過剰になるのも、また一つの真理だ。
ゾンビである。
もちろん決して喜ばしいものではなく、ましてや出会いを祝してハグのひとつもかましたくなるものではないが、それでも非力で後ろ盾のない家出少女からすれば、露出狂や強姦魔の類よりは幾らか健全で安全で平和的なものだ。そのゾンビが女子であれば尚更。
しかもゾンビ女子は、いうほどゾンビという状態ではなく、肌は生気こそ失われているものの腐り零れているわけでもなく、発音はややおかしくなっているものの、片言の外国人程度の発声と考えたら十分に許容範囲だ。おまけに少女よりも頭半分ほど小さく線も細い、いざとなれば腕力でどうにか出来る体格だ。
それにだ、
「でも、ゾンビですヨ!」
「だから怖くねーって言ってんでしょ。ぶっころすよ」
家出処女は鞄から拳銃を取り出して、ゾンビ女子に向けてみせる。
パッと見は偽物、もしくはモデルガンと思われても仕方ない。一介の家出少女が持つには重たすぎる代物だ。
しかしこの銃は紛れもなく本物であり、撃てば鉛の弾丸が発射されるし、弾丸が当たれば人は死ぬ。引き金を引くだけで簡単に仕事を終えてくれる最低最悪の無慈悲な道具だ。
それが証拠に、少女の母親が懇ろになっていた反社の男、本来の拳銃の持ち主である彼は、自分が拳銃を隠させていた愛人の娘、つまりは家出少女に背後から脊髄を寸断されて大量の血を吐き出して絶命したのだ。
今頃、少女の母親は大慌てだろう。夜職を終えて家に戻れば、秘密裏に隠していた拳銃が無くなり、部屋の中には持ち主の死体がひとつ、おまけに娘は何処へと姿をくらましているのだ。どのみち事件に変わりはないが、外部の犯行なのか、内部の、いわゆる反社会的勢力同士の争いなのか、男の所属していた九頭竜組という名前だけは勇ましい田舎町の小さな組織内の揉め事なのか、それとももっと内部の、少女自身に因る環境への反抗ともいうべき犯行なのか、もはやあの流れに流されるだけの母親に判断できるとは思えない。
事実、母親は流れに身を任せて家を飛び出し、数日後に異臭に気付いた隣人の通報で暴力団員の死体が発見され、現在容疑者として報道されているわけだが、スマホの充電が切れたままの犯人はまだ知る由もない。
「なんでソんなもの持ってルの……!?」
「それを言ったらゾンビがいる方がおかしいでしょーが。拳銃とゾンビだったら、ゾンビの方がウルトラレアじゃん」
「なるホど……?」
「拳銃なんかノーマルよ、ノーマル。レアリティは星ゼロだよ」
それが証拠に少女の持っている拳銃は1丁ではない。死んだ持ち主は重度の拳銃愛好家だったため、数ヶ所に分けてコレクションを隠していて、少女の家に在ったのは東南アジアあたりの与太ったコピー品の自動拳銃と、レンコンを思わせる形の回転式拳銃、さらには過去に使われて本来川や海にでも捨てられるはずだったものまで数丁が100を超える実弾と一緒に隠されていた。
そんなものが家の中にあると考えるとぞっとする話だが、少女からすれば幼い頃から身近に、天井裏に当たり前にあるものだったので、いつか盗み出してやろうと考えていたし、それを実行した日に持ち主がやってきたのは誤算中の誤算ではあったが、目論見通りに盗み出して、今は鞄の中で静かに眠っているのだ。
隠すという点でもコインランドリーは都合がいい。大きな旅行に行くようなサイズの鞄を持っていても、洗濯物を入れているだけで無理が通るし、銃の上に数枚のシャツでも乗せておけばそれだけで道理が引っ込む。
温かい布に覆われた銃たちも、さぞ寝心地がいいことだろう。
「で、ゾンビが何の用?」
「実は……!」
ゾンビ女子は堰を切ったように語り始めた。
世の中にはゾンビ病という奇病があるらしく、つい数日前にゾンビ病に感染してしまったことで、家族も全員ゾンビ化を発症してしまった。ゾンビ化の進行はどうやら若いほど遅く、年老いてるほど早いそうで、彼女の両親は今となっては意思の疎通も図れず、うあぁぁと呻き声を上げて人肉を求める化け物と化したのだとか。
「私が母親の彼氏ぶっころしたり、中学校で虐めてきたやつの家に拳銃撃ち込んだりしてる内に、世の中がそんなことになってたなんて……」
「エ? なんか怖いコト言った?」
「んー? だからー、母親の彼氏ぶっころしてー、せっかく拳銃手に入れたから虐めてきたやつの家に鉛玉撃ち込んでやったり、頭吹っ飛ばしてやったりしてー」
少女が指を折りながら使った弾丸の数を数える。
彼女が使った弾丸は10を超えて、奪った命は5に満たない。それでも積年の恨みつらみや憎しみや悔しさを晴らすには十分で、彼女の小さな狭い世界の中には、もう明確な敵対者はいない。
後々、地獄で再会するかもしれないけれど。
「そういうわけで堅気の人生はドブに捨てちゃったから、どうしようかなーてところ」
「人生はちゃんと生きた方がイいよ! 人生は短いンだかラ!」
「ゾンビがいうと説得力大だね。辻説法して来い、本とか出せ」
もちろん少女にだって未来の展望がまったく無いわけではない。いつまでもこんな生活を送るつもりはない、いずれはどこか知らない土地に生活の拠点を築いて、細々とでも平穏無事に暮らしたい。しかし、それには部屋を自分の意思で借りれる18歳になる必要があり、18歳になるまでにはまだ3年以上ある。
今はまだ生き延びるのに必死なのだ。
拳銃という心強い武器はあるけれど、まともに住める場所はなく、金は銃の持ち主や襲撃した家から盗んだ70万円ほど。とても3年も過ごせるような金額ではなく、ゲームでいうと攻撃力は馬鹿高いけど防御力は紙切れ並みといったところ。
必死になっても生き延びれるかどうかも危うい状態だ。
「ヤクザの事務所でも襲うしかないのかなー」
「だったらサあ、私とラーメン屋ヤろーよ!」
「ラーメン屋ぁ?」
少女は少し上ずった声を出しながら、そういえばラーメンとかしばらく食べてないなー、なんて不意に思い浮かべたりしたのだ。
・ ・ ・ ・ ・ ・
ゾンビ女子には夢があった。
地元でそこそこ人気な家系ラーメンを経営する両親の背中を見て育った彼女は、物心つく時には家系ラーメンの虜になり、当たり前のように将来の夢はラーメン屋さんになった。なにせ初めて喋った言葉がアブラオオメニンニクヤサイマシマシだったとか。ラーメン屋を夢見るのは川の水が海に向かうほど自然な流れだ。
「そーいうワケで、私がラーメンを作ルよ! あなたはホールをお願イね!」
「まあ、あんたゾンビだからね」
ゾンビが注文を取るわけにはいかない。かといって元々のラーメン屋は食券制ではない、注文制だ。単に食券機を導入する余裕がなかったのか、直に注文した方が性に合ってたのかはわからないが、ゾンビ女子にとっては大きな壁として立ち塞がっていた。
それを打破したのが、たまたまコインランドリーで出会った家出少女の存在だ。
なんせ家出の経緯はともかく容姿は普通の女子中学生。おまけにゾンビである自分を怖がらない。共に働くにはこれ以上ないくらいの、いわゆるウルトラレアな人材だ。
おかげで諦めかけた夢への道が繋がった。その道は細い糸のような頼りない道かもしれないが、カンダタの掴んだ蜘蛛の糸のように、掴まずにはいられない細い細い糸だ。これを逃してしまってはまさしく、縦の糸はあばば、横の糸はわわわ。この腐りかけた両手でしっかりと掴め、ゾンビ女子は自らの未来に対して固く決意したのだ。
「で、あんた、ラーメン作れるの?」
ゾンビが作っていいのか、という言葉は一旦飲み込んだ。
少女としても金は要る、このラーメン屋で衣食住を凌ぎながら18歳まで生き延びれるのなら、それは少女にとっては願ってもないことだ。この際ゾンビ云々は目を瞑ろう。悪臭とか保健所とかゾンビの隠蔽とか、まだ見ぬ敵は山ほど立ちはだかるだろうけど。
「見てテよー」
彼女の目の前では、ゾンビ女子がぐらぐらと茹だった寸胴の前で、湯切りザルを片手に握り締めている。ちなみに正式名称はテボというらしい。おそらく覚えておく必要はないだろうから、少女は数分後には忘れてしまうだろう。
ザルの中に麺を入れて、沸騰した湯の中で熱を加える。
熱を帯びたゾンビは、なんていうか酷い臭いを発する。酷いという言葉を適切なものに言い換えるなら、保健所が飛んできそう、そういう実にやばい臭いだ。
「天空! 湯切り落とシ!」
必殺技のように叫びながら、ゾンビ女子がテボを勢いよく振り下ろすと、その勢いで肩関節が外れて、もげた腕がくるくると宙を舞って、厨房の床にボトリと転がり落ちた。
どうやらゾンビは加熱すると脆くなるらしい。学会に発表したら専門家に褒めてもらえる発見かもしれないが、少女は別にゾンビ研究家でもないし、むしろ目立つのは得策ではないと考えているタイプだ。出来ればこそこそと日陰に咲いた苔のように生きていきたい、そう思っているくらいだ。
「失敗失敗……!」
「いや、それ大丈夫なの?」
「大丈夫、ゾンビに痛覚ナいから!」
ゾンビに痛覚はないらしい。ついでに腕がもげても割と大雑把にくっついてしまうらしい。世の中でいらない無駄知識のベストスリーが一瞬で埋まってしまった。
家出少女は乗った船がどうしようもない泥舟だと改めて認識して、はぁーっと長く深い溜め息を吐いた。
空気を吐き出すと、鼻から吸い込む臭いが更に酷くなる。適切な言葉を選ぶなら、ヘドロを煮詰めたような激臭だ。激臭と湯気の中で目を凝らすと、なにをとち狂ったのかゾンビが寸胴で自分の腕を煮込んでいるのだ。
「……おいおい、なにやってんの?」
「豚骨や鶏がらノ代わりになッタら経費削減にナるなーと思っテ」
「いや、駄目でしょ絶対」
ゾンビの骨から出汁を取りゾンビが茹で上げる失われし生命の無限ループ【ゾンビラーメン死んどる軒】
いやいや、1発アウトだろう。家出少女は首をぶんぶんと、それこそゾンビだったら飛んでいきそうな程度には力強く振って、頭の中に浮かんだゴミのようなフレーズを消し去った。
その間も煮込まれ続けたゾンビの腕は、死臭をまた別の種類の悪臭へと変化させて、鼻を突き刺し目を潰すような刺激臭へと進化して、少女を本能的に店の外へと飛び出させた。
店内のガスは更に性質を変えて、周辺住民が慌ただしく外へと出てきて、なんだなんだと集まるほどに悪化して、いつしか可燃性のガスへと変質して、辺り一面広範囲をなにもかも道連れにして爆発したのだった。
少女は人が集まり始めた辺りで危険を察して逃げ出して難を逃れたが、集まった近隣住民はことごとく吹き飛ばされて、空気中に霧散したゾンビ女子の体液をまともに浴びてしまい、そのほとんどがゾンビと化してしまった。
ひとりの少女の夢は破れたものの、人類への悪夢と姿を変えて降り注ぎ、夢も希望もないゾンビパンデミックを引き起こしたのだった。
・ ・ ・ ・ ・ ・
この世で最も安全な場所はホームセンターだ。
コインランドリー? 馬鹿を言ってはいけない、世の中で最も大切なものは武力だ。武力とは即ち武器をどれだけ確保できるかで左右される。
その点、ホームセンターにはありとあらゆる武器に代わるものが揃っている。包丁にハンマーに釘打ち機にチェーンソー、他にも知恵と工夫次第で武器に出来るものは無数にある。防御を固めるためのものはもっと豊富で、園芸コーナーと家具と物置を駆使すれば文字通り要塞だって作れるかもしれない。
それにゾンビと戦うならホームセンターは定番中の定番、王道中の王道。つまりはここで迎え撃てということなのだ。
「……もう将来がどうとか言ってる場合じゃなくなったな」
ホームセンターの周りにはゾンビが大挙している。
人間が群れを作りたがる生き物だということを、家出少女は過去の学生生活から重々承知していたが、ゾンビになるとその性質がより強くなるようで、満員電車のように過密に群れている姿は人間ではありえない。中には満員電車やコンサートとか決してありえなくもないけど、それはそういう必要があるからで、意味もなくホームセンターの駐車場にぎっちぎちになっているのは不気味を超えて馬鹿げている。
「絵力えぐっ……」
などと呑気な感想を抱いてる場合ではなく、1階に築いたバリケードの境目では他の逃げ込んだ人間たちが各々武器を手に、ゾンビの頭を殴ったり突き刺したりしている。ゾンビは動きも鈍くて力も弱いけれど、なにせ簡単に死んでくれないので厄介だ。さらに飛び散った体液は普通の人間にゾンビ病を感染させて、瞬く間にバリケードの内も外もゾンビがわぁわぁぎゃぁぎゃぁがっしゃんがっしゃんと金網や壁を叩き合う無法地帯へと姿を変えた。
人間を撃つのは多少の抵抗があるけれど、不思議とゾンビが相手なら躊躇なく引き金を引ける。
家出少女だったヒヨッコは今や一端のゾンビハンターへと生き方を変えて、ガソリン缶や燃料缶をゾンビの群れへと投げ込んで、そこに銃弾を撃ち込んで爆発させる。
爆発オチなんて最低だ。でも爆発でもさせなければ、この混沌とした状況を脱することなどできないのだ。
少女、いや、ゾンビハンターはたまたま駐車場に放置されていたタンクローリーに弾丸を撃ち込んで、ゾンビも夢も希望も平穏な生活も馬鹿げた現実も、なにもかもを駐車場もろとも吹き飛ばしたのだった。
ふしぎな神様とチョコレートトッピングましましワッフル
山の天気は気まぐれだ。
今朝は雲ひとつないくらい晴れていたのに、昼を待たずに爪の先くらいもある大粒の雪を降らせる。こんな日は早く家に帰って、炬燵に腰から下を突っ込んで、鍋でもつつくのが一番だ。
私は両手に買い物袋を提げて、無邪気に雪を見てはしゃいでいる娘と並んで、山の集落と町を繋ぐ県道を歩く。
「こら、そっちへ行っちゃダメよ」
「はーい」
山道へと向かうまだ幼い娘に声をかける。
娘は来年小学校に上がる。この時分の子どもは好奇心の塊だ。なにか気になるものを見つけたら、すぐにそっちへ走っていってしまう。
「ねえねえ、お母さん。なんであっちに行っちゃダメなの?」
「それはね……」
山には神様がいて今日は入ってはいけない日なのだと教える。
そう、山には神様がいる。
こんなことを言うと頭がおかしいと思われるから、娘以外には、夫にさえも言えないけれど、確かに山には神様がいる。
20数年前、この時期この場所で、私は確かに神様と会ったのだ。
あれは夢でも幻でも、子育てに疲れる女の妄想でもない。
まぎれもなく現実だ。
1999年12月12日――
忘れもしない、その日この場所で、私は神様と出会った。
中学校からの帰り道、太陽が傾いて空が橙色に染まる時間、この時間が1日で一番嫌いだった。
学校が特別に好きというわけではない、友達が多いわけでもない、親が厳しくて怖いというわけでもない。ただ、家に帰る、そのことが憂鬱で仕方なかった。
山と学校のある町を繋ぐ県道も、この時間に歩くのは怖くてたまらない。
朝はキラキラと輝いた路面も、赤と橙とアスファルトの色が混ざり合って、酷く気味の悪い色に見えた。家に帰ることがそう見せるのか、それとも太陽が隠れるこの時間がそうさせるのか。
私の暮らす家は某県の山中にひっそりと存在し、【家】と呼ばれる宿泊施設に【先生】と呼ばれる大人が数人、そして近い年の子どもたちが集められて暮らしている。家の周りには畑や材木置き場。それが複数集まって、ちょっとした村くらいの規模になってる。
お父さんともお母さんとも年に数回しか会うことが出来ず、朝は日の出前に起きて畑仕事や食事作り、朝7時を過ぎると1時間かけて学校まで通い、学校が終わると掃除洗濯に畑仕事。遊ぶ時間はもちろんなく、家にはテレビもラジオもCDも漫画も、クラスメイトが当たり前に持っている楽しみなど1つとして無く、口に出来るものも家で育てた米と野菜、あとは水だけ。
家は神様の加護で清められていて、外の世界は穢れた場所。
だから飴玉ひとつ、雑誌の切り抜きさえも持ち込むことは許されず、規則を破った子は容赦なく鞭で打たれる。
物心ついた時からそんな生活を送っていたからか、私はずっと家が嫌いで、先生が怖くて、神様はなんて残酷なんだ、と心の中で恨みを積もらせていた。
今まさに目の前で降り積もる雪のように。
1999年12月12日、今日は朝から喉が裂けてしまいそうなほど空気が冷たく、雪が当たり前に降るこの土地でも珍しい大粒の雪が降り注ぎ、私の足取りはいつもよりもずっと重く、ずっと遅く、ずっとずっと億劫だった。
そのため雪が足首よりも深く刺さる帰り道を歩く頃には、私の足は完全に止まってしまい、こんな時間には停まることのないバス停に座り込んで、ただただ憂鬱に身を任せて気分を沈めていた。
私の憂鬱は鞭だけではない。15歳の私は当然来年には16歳になる。
16歳になると家を出て、男子は遠くの場所にある工場で働くことになり、女子は教父様とみんなから呼ばれる一番えらい人の住む、山中の奥に建てられた【館】で暮らすことになる。
館は世界で最も美しい建物で、その美しさに見惚れた神様が夜な夜な天上の世界から降りてくる、と先生たちは言ってた。
そして16歳になった女の子たちは神様に見初められて、お腹に神の子を宿す。神の子を産んだ女の子は、神の子の母として特別な家で暮らすこととなり、神様に見初められなかった子は20歳になると他所の家の男の人と結婚することになる。
私たちは未来さえも神様の手の中に、ぎゅっと握り締められていた。
そんな茨の野のような未来は、とても明るいものには見えず、だからといって神様を疑うには家の教えが身に沁みつき過ぎていた。
だからこうして、憂鬱に身を任せて、じっと雪を眺めるしか出来ないのだ。
だけど、いつまでもそうしているわけにはいかない。
本格的に日が傾き、分厚い雲の向こうにある太陽が山の陰に隠れてしまうと、辺りはあっという間に真っ暗になる。
そうなると最終のバスがやってきて、そのバスには先生と親しい大人が乗っているから、家に連れ戻されてどんな仕打ちに遭うのか、とてもじゃないけど考えたくもない。
鞭では済まないかもしれない。
規則を破った上に反抗的な子は、足や背中に焼きごてで印をつけられるのだ。
あの時の肉の焼ける臭いを嗅いだら、普段は強気で体格のいい男の子が子どものように泣き叫ぶ姿を見たら、とてもじゃないけど先生に逆らおうなんて思えなくなる。
決められた未来さえも受け入れてしまう程、それはそれは恐ろしいものに見えた。
私は観念してバス停を離れて、とぼとぼと雪の中を歩きながら、家まで続くいつもの通り道を進む。そんなつもりになっていた。
実際は真っ暗で道標もない雪の中を、闇雲に歩きながら、普段は入ってはいけない禁忌とされている山道を進んでしまっていた。
そのことを教えてくれたのは、もちろん自分自身ではなく、先生やバスの運転手でもなく、心配で探しに来た家の子たちでもなく、ただそこに現れたひとりの少女だった。
「ヘイ、ミソカヨー。そこから向こうは神の領域だよ」
山道の向こうから声をかけてきたのは、真っ暗な夜でも見惚れてしまうくらい髪がさらさらで長く、目は丸くて愛らしく、手には甘い匂いのする小麦色の塊を持った、冬に似つかわしくないセーラー服に薄手のカーディガンを羽織った少女だった。
家の子たちの中にも、学校のクラスにも、こんな魅力的な風貌の少女はいない。そう思わせるには十分すぎるほど、少女の顔は色濃い線を引いたように私たちとは別物だった。
クラスの子がこっそり読んでいた雑誌に映っていた美少女、それが目の前に突然現れても、ここまで美しくはない。それくらい別物。
「あなた、誰? どこの子?」
少女は私の問いかけには一切答えず、手に持った甘い匂いのする塊をもぐもぐと口に頬張る。
今までの人生で嗅いだことのない甘い匂い。地面が雪で埋もれてにおいが消えているから、余計に強く甘く漂ってくる。
羨ましい。私も気兼ねなく甘いものを食べたい。
「おいしそうでしょ。マネ〇ンのワッフル、このあたりにお店ないからさー、遠出して買ってきたんだよね」
聞いたこともないお店の名前も知らなかったお菓子。家の外の子の暮らしは全然知らないけど、もしかしたらお菓子を買うために遠出するのも当たり前なのかもしれない。
それにしても多すぎる気もするけど。
少女はワッフルがぎっしり詰まった袋を抱えて、チョコ味だったり色んな種類のワッフルを齧る。
私たちには禁止されている食べてはいけないもの。
神様の加護のない穢れた食べ物は、なんでいつもあんなに美味しそうなんだろう。
涎が溢れそうになる。唾を飲み込む喉が止まらない。腹の中から地響きのような音が鳴りやまない。
「おやー、ボクのワッフルを横取りしたいのかい? 普通ならその図々しさに片腹痛さで腸捻転を起こしかねないところだけど、ボクは他の神と違って優しいからね。ひとつおすそわけーしてあげよう!」
わけの分からないことを口走りながら、少女はワッフルをひとつ、私の前に差し出してくる。
だけど、私はワッフルを食べられない。だって神様が禁止してるから。
「いらない。神様に禁止されているから」
私が首を横に振ると、少女は上半身を70度くらい横に傾けて、ううん、と唸り声を上げた。
「ボクはそんなこと禁止した覚えはないけど?」
「あなたじゃなくて、神様が禁止したの」
「んんー?」
少女は傾けていた上半身をバネのように跳ね上がらせて、頭を元の位置まで戻し、私の鼻にずぼっと指を差し込んだ。
「いいかい、人間の娘。人間が神にどんなイメージを持とうと、どんな勝手な解釈をしようと自由だけど、言ってもいないことを言ったとされるとボクの評判が悪くなる。そんなことを吹聴してる虚言癖ヤローのところへ連れていけ」
こうして私は、雪の中で出会った少し頭のおかしい絶世の美少女を、家まで連れていく羽目になったのだった。
「昔から人間は、神や仏を利用し続けてきたんだ。戦わないと極楽へ行けないぞーとか、悪いことをすると地獄に落ちるぞーとか、必死に修行したら現世の罪を洗い流してくれるぞーとか。まったく、ボクたちは1度もそんなことを言った覚えはないんだけどね!」
なに言ってんだろう、この子。自分を神様だと思ってるなんて、頭の病気か何かなのかな。
「自分が神様だとか言わない方がいいよ。頭がおかしいって思われるから」
私だって、みんなとちょっと違う感じで神様を信じてるせいで陰で色々言われるんだから。
でも、このくらいかわいかったら、そういうのも許されるのかな。世の中ってどこまでも不公平だ。
「私もあなたみたいな見た目だったら、本当の神様の話とか聞いてもらえたのかな」
「んんー? 本当の神様って?」
私は家から教えられた神様について、ちょっとかいつまんで話した。
家が神様の加護で守られていること。
外の世界は穢れていて悪魔が暗躍していること。
今年の7月に空から恐怖の大王が降ってくるって予言されてたけど神様が倒してくれたこと。
女の子は16歳になったら神様に見初められて子どもを宿すこと。
神様に守り続けてもらえるように毎日朝から畑仕事をしてること。
親が神様のために修行してるから滅多に会えないこと。
「なるほどねー。そんな奴はボクの知ってる限りいないけど、君たちはまたずいぶんと低俗で能なしの偽物を信じてるんだね」
昔、小学校でも同じクラスの子に偽物だと言われた。
そんなの本物の神様じゃないよ。悪い奴に騙されてるんだよ。カルト宗教だよ。
そんなこと言われたって、神様を信じていない子にはわからないよ。
私だって神様の子なんて生みたくないし、なんでこんな生活させられてるんだろうって思うけど、でも神様ってそうなんだからしょうがないじゃない。
「だってそいつ、ただのロリコンくそ野郎じゃん。そんなのがボクと同じ神だなんて、鼻で笑いすぎて蓄膿になっちゃうよ」
少女は指先で鼻を摘まむような仕草をして、袋の中からワッフルを取り出す。
「ほら、正真正銘本物の神様からのプレゼントだよ。後からワッフル代として魂をよこせ、なんて言わないから、遠慮なく食べるといいよ。ほらほらー」
「いいって。家に帰ったら口の中検査されるから、そんな甘ったるい匂いさせてたら鞭じゃ済まないもの」
まだ自分が神様だって言い張ってる。
でも、もし本物の神様がこんな感じだったら、今よりは少しは神様を好きになれるかもしれない。
「そういえば、君、名前なんて言うの?」
「■■七」
自称神様の少女に教えてあげた。
私は自分の名前が好きじゃない。7月7日の七夕生まれで、七がいっぱいあるから七と書いてナナ。
だって、そんな適当な名前、酔っ払いが思いつきで付けたみたいだから。
「ふーん。悪くない名前だね。100点満点ってわけでもないけど」
県道から外れて、車1台ギリギリ通れる幅の細い道を山に向かって1時間。そこに私たちの家がある。
家の周りは暗く、街灯も最低限しかなく、立派な3階建ての横に長い白い家が、雪に埋もれた畑の中に佇んでいる。
部屋の窓からはぼんやりと黄色がかった光が漏れ、山から下りてくる風の音は、まるで生き物の声みたいにも聞こえる。
まるで外の世界から隔絶されたような、私たちを守ってくれる神様の家。
そんな神様の家で、いつもより遅れて帰ってきた私を待っていたのは、男の先生による容赦ない平手打ちだった。
口の端が切れて血が流れるほどの平手打ちの後は、雪が降りしきる中での正座と反省。
先生がいなくなってから出てきた少女は、呆れたような、憐れむような目で私を見下ろし、
「まったく人間というのは年々アホになっていくなあ。君が怒られてる間に色々見せてもらったけど、こんなカルト宗教、とっとと縁を切った方がいいよ」
肩をすくめて右手で何かを切るような仕草をしてみせる。
そんなこと言われても私はここで生まれて、ここで育ったのだから、何をどうしろというのだ。
「こんなイカレポンチ共に神なんて語られたら、私の株価は大暴落だな。明日には地面に穴掘らないと確認できないかもしれないなー」
少女はおどけながら、まだ自分を神様だと語るのだ。
だったら私を助けてよ。神様なら、なんとかしてよ。
「だから人間はアホだって言うんだよ。君たち、神を便利な道具かなにかだと勘違いしてない? 人間は人間の都合でしか生きてないでしょ。神は神の都合でしか動かないわけよ。祈り? 願い? 修行? 信仰心? そんなのは神とは一切無関係、知ったこっちゃない。だって君たちもその辺のスズメや山鳩の願いを聞いてあげたことないでしょ」
一瞬、かわいらしい顔とは対照的な、ぞっとするような瞳を見せてから、少女は袋の中のワッフルをまたひとつ齧り、
「だけどまあ、ちょうどボクの都合があるんだよねー」
齧りかけのワッフルを袋に戻して、にやっと笑みを浮かべた。
「そろそろ腹ごしらえしとかなきゃって思ってたんだ」
館までの道を歩きながら、少女は教えてくれた。
神は人間の食べ物も口にするけど、それで腹が膨れることはない。少女は甘いものが好きだけど、それはあくまで味覚を満たすためで、食事としては神の栄養になる食べ物を食べないといけない。
老いも病みもない神であっても、食べなければ飢えて死ぬ。
飢えと死からは逃れられないのだと。
「あの世へウェルカムってやつだね! 飢えだけに!」
しょうもない冗談を口にしながらケラケラと笑う。
高く積もった雪をかき分けて、館の裏の窓から、こっそりと中を覗く。
部屋の中には布の1枚も纏っていない教父様が、泣き喚く女の子を組み伏せて、腰を前後に動かしている。
ベッドの上には赤い染みが点々と散らばり、床には乱雑に置かれた服に使い方がよくわからない棒状のもの、テーブルには青臭くて甘い匂いをさせる妙な煙草、注射器、アルコールランプ、スプーン、手錠、すっかり見覚えのある鞭。
女の子にも見覚えがある。今朝16歳になって館へと移り住んだ1歳年上のお姉さんだ。優しくて真面目で、外の学校でも周りと上手にやっていけるような、そんな子だった。
そんな子を無理矢理組み伏せているのは神様ではなく教父様。
神様が館の美しさに見惚れて天上の世界から降りてきて、女の子を見初めて神の子を授ける。
私たちはずっとそう教えられて、本当にそうだと信じていたのに――
「わあ、えげつないね。尻に入れてるよ、尻に。あの中年男、アダルトビデオかなにかの見過ぎだなー。ほら、ボクの言った通りだろう、正真正銘のロリコンくそ野郎だ」
少女は館の中を指さして、空気も読まずに自説の正しさを言い放つ。
「うるさい!」
私は思わず大声を上げる。
もうなにが正しいのか、なにを信じていいのかわからない。
「うるさいって、本当のことを言われて怒ったらダメだよ。本物の神はボク、あれはただのロリコンくそ野郎。人間の小娘に発情して、ちんちんおっ勃ててる奴なんて、神なわけないでしょ。それは認めなきゃー」
「神だ神だって、この世に神様なんているわけないじゃん! お母さんもお父さんも家の人たちもみんな嘘つきだ!」
涙と吐き気が体の内側から溢れるようにこみ上げてくる。
「嘘つきはみんな死んでしまえ!」
「大丈夫だよ。君の願いとは無関係に、ボクは大食いだから」
少女はあっけらかんとした表情でそう告げて、夜中の大声に駆けつけた館の人間の腕を掴んで、ずるりとなにか影のような塊のようなよくわからないものを引っ張り出す。
駆けつけた男は意識を失ったように地面に転がり、少女は苦手な食べ物を眺めるような目で、引きずり出したものをパンのように捏ねて、ワッフルの形に整えて一口で平らげる。
「ぬあー、まっずい! 今の人間はクソ不味いから嫌い!」
顔をしかめて不平不満を漏らしながら、さらに駆けつけた人たちから次々に、なにかよくわからないものを引っ張り出す。
途中、目の前で起こる理解の外の出来事に取り乱した、私を平手打ちした先生にスコップで殴られたりしたけど、血を流すことも怪我をすることもなく、先生からもなにかを引っ張り出し、丸めて、潰して、お菓子の形にして、齧って、不味い不味いと文句を垂れる。
怪異だ。これはきっと、妖怪とか物の怪とか、そういったものが引き起こす怪異だ。
もしくは悪夢だ。きっとこれは悪い夢で、目が覚めたら私は布団の上で、またいつものように眠い目を擦りながら畑仕事をするんだ。
「一体どうした、騒々しい」
教主様が窓を開けて、だらしなく太った体を覗かせると、少女は教主様の手を引っ張りながら、もう片方の手で、影絵のキツネのように、人差し指と小指を立てながら親指と真ん中2本の指をくっつけて、先端を教主様の頭にズドンとぶつける。
教主様は目からも耳からも血を噴き出しながら後ろに引っ繰り返り、少女はキツネの指のまま、腰を落として変な構えを取っている。
「ロリコンくそ野郎の魂なんて、神の食事としては質が悪すぎる。粗悪品! 賞味期限切れ! シェフの気まぐれ失敗生ゴミ! 食べるに値しないゴミはゴミ箱へ!」
キツネの形の指には教主様から抜けたよくわからないなにかが引っ掛かっていて、少女はそれを丸めて、ゴミ箱に洟をかんだティッシュでも捨てるようにポイっと放り投げた。
「おぎゃあ……おぎゃあ……あんぎゅあぁぁ!」
教主様が赤ん坊のように泣き出す。
私は呆気に取られたまま、その後起きる一部始終をすべて、ただ黙って見ていた。
教主様に組み伏せられていた16歳の女の子から、少しだけなにかを引き抜き、少女ががじりと一口噛み千切ると、後で判明したことだけど、おおよそ1年分の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
騒ぎに気づいて集まった大人たちから次々となにかを引っ張り出して、ワッフルにドーナッツにどら焼きにシュークリームに、次々と甘いお菓子の形に変えて食べては、不味い不味いと顔をしかめた。
丸ごと食べられた人は、みんな亡くなってしまった。
「ミソカヨー。ここは今から神の食卓だ、みんな腹いっぱいお食べ」
少女がスカートを摘まんでたくし上げると、中から小鬼や半人半獣の妖怪、無数の鳥、熊に猪に鹿に猿、真っ黒い形の整っていない塊が、家や畑を埋め尽くさんばかりに溢れてきて、どれもこれもが不味い不味いと言いながら、大人も子どもも綯い交ぜに引き抜いては齧り、咀嚼し、貪っていく。
怪異か悪夢が広がる中、お母さんが雪の中を走ってくるのが見えた。もしかしたら私を心配してくれたのかな。
「七! 何が起きてるの!? 教主様は!?」
「……お母さん」
久しぶりに見たお母さんは、気が触れてしまいそうな顔をしていて、私は驚きと同時に滑稽さを感じてしまって、思わず笑ってしまいそうになる。
「……わかんないけど、この子、本物の神様なんだって」
「へい、どーもー、近所に住んでる神だよー」
少女はへらへらと笑いながら、捕まえてる大人からまたなにか引きずり出して、不味い不味いと言いながら丸めて食べて、お母さんに向けてひらひらと手を振っている。
お母さんはなにを思っているのか、悲鳴をあげながら私を抱きしめて、ぎゅうっと両腕に力を籠める。
温かい。きっとお母さんは私が危ない目に遭ってると思って、守ってくれてるんだ。
「神様! この子はどうなってもいいんで、私だけでも見逃してください!」
……え?
「えー? なになに? 命乞いのつもりー?」
「私は今までずっと! 20年以上神様に祈りを捧げてきました! 神様、あなたに会えて嬉しいです! この喜びを遠くにいるみんなに伝えたいんです! ざっと見たところ、大人は私以外みんな倒れていますし、私しかいないと思うんです! だから――」
お母さんは変な薬でもやってるのかってくらい目を見開いて、目の前の少女に向かって頭を下げ、地面に手を突いて、必死に懇願している。自分の娘ぐらいの年齢の少女にでも、いくらでも媚びる。言われたら泥のついた靴の裏でも舐めてしまいそうな、それくらいに必死に。
「そうだねー。うーむ……」
少女は顎に指を当てて、かわいらしく小首を傾げて、しばらく考えた後に最悪の結論に達した。
お母さんの顔に、ごりっと靴の裏を押し当てて、今日一番のキラキラした、スクリーンで見たら同年代の男子が秒で恋に落ちてしまいそうな笑顔を向ける。
「よし、舐めろ。泥が取れてピッカピカになるまでなー」
「はい、舐めます! ですから命だけは!」
目の前で実の母親が、靴の裏の泥をべろりべろりと舐めている。
この世でこれ以上惨めなことってないと思う。胸の奥が張り裂けてしまいそうなくらい痛い。大粒の涙が止まらない。
悔しいのか悲しいのか、それとも私を捨ててでも生きようとする浅ましさが見ていられないのか、とにかくなんだかよくわからないものが目から溢れ続ける。
「実の娘を差し出すから、代わりに自分は見逃して欲しい。だって自分は神様にずーっと祈り続けて、神様に会えたことを他の人に伝える使命があるから……なに、それ? 屁理屈通り越して、パンツにうんちがついてんだけど」
少女は見下げ果てたと言いたげな顔で、必死に舐め続ける、かつて母だった女の顔に、さらにゴリゴリと靴の裏を押し当てて、そのまま女の顔を蹴り抜いた。
女の後頭部から、よくわからない塊がずるりと抜け出て、かろうじて背骨のあたりで繋がったまま、そのまま母だったものは呻き声のような悲鳴のような、本能で吐き出している音を鳴らし続けながら、雪の中をバタバタと両手足を動かしながら進み、そのまま雪の中に突っ伏してジタバタと手足だけを動かしている。
少女はその様子を眺めながら、足先で半分だけ千切り取ったなにかをポンと蹴り上げて、口をあんぐりと開けて落下した母のなにかをごくりと飲み込む。
「うへー、まっずい! 世界一クソ不味い! 生うんこ味! 最悪!」
少女はぺっぺっと唾を地面に吐きながら、眉間にぎゅっと皺を寄せる。
「……ねえ、お母さんに何をしたの?」
お母さんだったものは、雪の中をジタバタと動き続けている。どこかで見た動きだなと思ったけど、すぐに思い出した。夏に見た死にかけのセミと同じ動きだ。
「んんー? 見てわかんなかった? 食事だよ、しょ・く・じ」
少女はスカートをたくし上げ、外に出ていた無数の妖怪みたいなものたちを集めて、ひょいっと隠してしまう。それから華麗にスカートをひらりとはためかせ、その夜のすべてを収束させた。
「昔の人間は貧しくても美味しかったけど、今の人間はクソ不味いから、お菓子の形に直さないと食べれたものじゃないんだよね。それでも、この通りだけど」
少女は舌を出して、べーっと吐き出すような仕草をする。
そんなことを聞いたんじゃないんだけど。
「あなた、なんなの?」
「だからずーっと言ってるでしょ。神だよ、この辺りの山の神」
自称神様の、本当に神様だった少女とはそれっきり。
死者28名、軽度の記憶障害75名、精神疾患2名の被害者を出した謎の事故は、原因不明のまま幕を閉じた。
それもそうだ。神様が気まぐれで全部食べた、なんて警察に言ったって信じてもらえるわけがない。
私含めて、かろうじて社会復帰出来そうな子どもたちは、それぞれ親戚や保護施設に送致されることになり、長い間自由も生き方も縛り続けてきたカルト宗教「神籬の家」は、各地に点在する支部を除いて一夜にして壊滅してしまった。
家の教えが間違いだったと知り、信仰心とやらがなくなってしまうと、世界で最も穢れのない場所と教え込まれて育った場所は、ただの薄汚い家畜小屋にしか見えなかった。
世界一美しい館も、よくよく見たら壁はシミだらけの古びた悪趣味な、廃墟にでも間違えられそうな洋館だった。
それから私は親戚の家に預けられ、普通のどこにでもある家庭の子になった。
当たり前に与えられるはずのものを手に出来なかった遅れを取り戻すには、15年という時間は長すぎた。
苦労は塵のように積もったし、掃いても掃いても宙を舞うだけで消えてくれない過去に悩まされた。
けれど、少しは幸運も舞い込んできて、平凡でだらしないけど優しさだけが取り柄の男と出会い、必然のように交わり、偶然のように赤子を授かった。
神の子でも宗教の子でもなく、なんの変哲もない男と私の子だ。
9月3日に生まれたからクミ。
母から貰った名前をさんざん悪く言ってたものの、私も母と同じように名前を付けるセンスが欠落していた。
夫はいい名前だと褒めてくれたけど、こんな雑で適当な名前に良いも悪いもないだろうと苦々しく思ったことは、今も心に残り続けるぐじぐじに膿んだみっともない傷だ。
その傷を開いて覗くと、川底のように過去やトラウマやコンプレックスが沈殿し、泥濘し続けている。
その腐土色の泥を見る度に、私は母親を食われた恐怖と、少し喜んでしまった後悔に苛まれてしまうのだ。
時は雪解け水のように流れた。
2022年12月12日、ずいぶんと大人になった私は娘を連れて、アパートと町を繋ぐ県道を歩いている。
昼を待たずに降り出した大粒の雪は、段々と地面を白く染めていく。
あの日もこんな雪の日だったなあと思い出にふけっていると、油断も隙もない好奇心旺盛な年頃の娘が、また山道に入ろうとする。
「ヘイ、ミソカヨー。そこから向こうは神の領域だよ」
山道の向こうから、見惚れてしまうくらい髪がさらさらで長く、目は丸くて愛らしく、手には親の仇とでも言わんばかりに色とりどりのトッピングを乗せたドーナッツを抱えた、セーラー服に薄手のカーディガンを羽織った少女が歩いてくる。
あの日あの時に見たものと、ほとんど変わらない姿で。
「おや? 君はどこかで見たような気もするし、やっぱり気のせいのような気もするなあ」
20数年ぶりに会った神様は、おそらく私のことはすっかり忘れていて、仮に覚えていても20年以上も経っているのだ。
私を私だとは気づかないだろう。
私も神様が人間並みに年を取っていたら気付かなかっただろう。
だけど神様は神様なので、あの時と変わらない姿をしている。
「ドーナッツ! ドーナッツ!」
娘がドーナッツに気を取られて、ぴょんぴょんと体を上下に動かしている。
「おやー、ボクのおやつを狙おうだなんて、なかなか豪胆な女の子だねえ。その豪胆さ、いつもだったら片腹痛くて下痢しちゃうとこだけど、七つまでは神のうちというからね。特別にドーナッツをおすそわけーしてあげよう!」
「ありがと、おねーちゃん!」
神様は娘にドーナッツを手渡し、にこにこと笑いながら右手をヒラヒラと動かしている。
私は静かに頭を下げて、娘の手を引き、県道から脇道を抜けて家路へと足を急がせる。
道路一本挟んで私たちと神様がいる。
神様と人間は決して交わっていはいけないのだ。
しんしんと雪が降り続ける。やがて県道も山も、なにもかも真っ白に塗り潰すだろう。
その雪が解けた頃には、春が訪れ、娘も小学校に上がる。
そうだ、その前に都会に引っ越してしまうのもいいかもしれない。
過去を捨て去ってしまうには、きっと良い季節だ。
ブラックバスを釣って食べる
ブラックバス
スズキ目・サンフィッシュ科の淡水魚のうちオオクチバス属の魚の総称。
体長は小型の種でおよそ40センチ、最大型種では80センチ以上にも達する。
元々は日本にいない外来種であり、魚食性が強く在来種を食い尽くしてしまうことから、デストロイヤーと呼ばれている。
―――
祭り囃子の音が聞こえる。
この音を聞いて心躍らない人はいない。囃子に屋台に神輿に笑顔、春夏秋冬、いつの時期でも祭りは楽しいと決まってる。
そう、祭りは楽しいものなのだ、本来は。
そう、本来は。
あたしの目の前を通り過ぎる連中の視線、冷ややかで醒めてて盛り上がらない、そんなつまらなさそうな目をしてる。
おいおい、それが祭りの日にする顔か。
昔、っていうほど昔じゃないけど、あたしがまだチビだった頃の祭りはもっとみんな楽しそうだった。屋台も色んなのがあったし、チビ共は走り回ってたし、酔っ払いのおっさん達はゲラゲラ笑ってた。
それが今では、まるでお通夜か葬式みたいだ。
閑散とした神社の境内、申し訳程度に並ぶ焼きそばとベビーカステラの屋台、だらしなく欠伸をする猫、両手で数えられる数の親子連れ。
そんな状況で舞いの準備をするあたしたちに射し込む曇天みたいな暗い陰。
そこからの無限に空回ってるような時間。
まったく、いつからこんなことになっちまったんだか。
「だぁー! なんなんだ、あれはー! あたしら見せもんじゃねえぞ、見せもんだけど!」
部屋の隅に置かれた立次郎(正式名称:自立式パンチングバッグ)をどかどかと蹴り回す。
こいつは腹が立つ度にあたしを受け止めてくれる付き合いの長い相棒で、癇癪持ちのあたし用にと師匠がお年玉代わりに買ってくれた。
今日も黙って不満と愚痴を聞いてくれている。
「見物人が3人じゃねえか! ふっざけんな、ちくしょう!」
立次郎に鼻息荒くしながらパンチをぶち当てて、ぎりぎりと歯をぶつけながら椅子に座る。
「ったく、それにしてもよぉ……」
いわゆる祭りらしい祭りが、年々盛り下がってるのは身に沁みてわかってる。
今の世の中、家で出来る面白いことは数え切れないほどある。それは否定しないし、するつもりもさらさらない。あたしだってスマホ持ってるし、たまにはゲームだってする。漫画も読むし映画も見る。面白いものが溢れてるのは否定しない。
でも、だからといって冷たくて寂しい場所に駆り出されて、はい今日も頑張りました楽しかったです、なんて言えるほど腐っても落ちぶれてもいない。
「まあまあ、獅子頭ちゃん。呼んでもらえるだけでも良しとしようよ」
憤慨するあたしをなだめるのは、踊りの相棒を任されてる東尾の姐さん。年齢もたっぱもあたしより上で、穏やかさ田舎代表みたいな人で、だいたいいつも言ってる事は正しい。正しいけども、世の中正しいからってなんでも納得できるわけじゃない。
「そもそもだけど!」
あたしは玄関に飛び出して、あとからのんびりと歩いてくる姐さんを早く早くと手招きして、玄関の脇に打ち付けてある看板の、まあまあな達筆で書かれた字面を指さす。
百十頭獅子保存会、それがあたしたちの所属で、あたしの家の代々の稼業で、一応の本業だ。ちなみに副業は、近所のうどん屋でひたすらうどんを作ってる。
「あー、よく見たら微妙に傾いてるねー」
「違うよ! そんなことじゃなくて、むしろよく気づいたねえ!」
あたしはほんのわずかに傾いた看板をぐっと手で押して、手を放したらちょっとだけ戻ってくる看板を見つめた。
「獅子舞の保存会って! 獅子は百獣の王なのに、保護される側になってるじゃんか!」
「そうだねー」
「保護動物に噛んでもらっても、邪気なんか晴れるって思われねえじゃん!」
「元々迷信みたいなもんだからねー」
「踊り手もあたしたちだけだしさあ!」
「募集はしてるんだけどねー」
あたしの稼業は、いろんな保存会の中でも一等切羽詰まってて、一際大ピンチで、一番絶滅寸前なのだ。
保存会というのは、無くなりそうな文化とか伝統芸能とか、そういうのが失われないように保護したり、後継者を育成したり、そんな細くてか弱い蜘蛛の糸を手繰るような団体のこと。
有名どころなんかは結構派手に手広くやってるけど、あたしの家みたいなド田舎の、おまけに山奥の、そんな地域の保存会は簡単に廃れ切ってしまう。
そして簡単に失われてしまう。
あたしの家は先祖代々、百十頭獅子舞の踊り手をやってて、あたしはそこの一人娘で、今では姐さん以外で唯一の踊り手。
踊り手は中学生の時からやっていて、師匠、じいさんがギックリ腰になってから正式に跡を継いだ。
それから年に数回、正月と桜祭りと夏祭りと秋祭り、それから近くの自治体がやってるお祭りとかでも獅子を舞ってる。
これでもそれなりに忙しくて、今日も今日とてお祭りの打ち合わせが待ってる。
「獅子頭さん、今年の秋祭りなんだけど」
「はい、もちろん一生懸命踊りますね!」
「獅子は無しでいこうと思うんだよね」
「はあぁぁ!?」
今日も今日とて立次郎をぶん殴る。立次郎は今日も黙って愚痴を聞いてくれるし、今日も黙って殴られてくれる。何度でも立ち上がってくれるし、いつだって怒りを受け止めてくれる。
隣町の秋祭りは獅子舞も神輿もなしで、都会で流行ってる他所の踊りを持ってくるらしい。しかも踊るのは、町に縁も所縁もない、車で2時間以上離れた県庁所在地様で活動してるチームらしく、ちょくちょく色んな場所のイベントに踊りに行っているそうだ。
何年も前から、日本のあっちゃこっちゃでそういうことが起きてるのは知ってた。
その☓☓☓☓って踊りは元々は、なんかどこぞのわけのわからん学生が、どっかのでかい島の南の方の土地の踊りと北の方の土地の漁師の踊りをしれっと借りてきて悪魔合体させて、その泥棒市場みたいな出自ゆえに日本全国でフリー素材みたいに広まった。
それだけじゃない、アホが踊ることで有名な踊りも全国各地で似たようなことになっていて、どこそこなんたら踊り、ってな具合に2つの地名がくっついた、わかりやすくいうと新宿道頓堀音頭みたいな珍妙さを持ったものまで生まれてる。
そのお手軽に始められるハードルの低さ、曲から振り付けから好き勝手に継ぎ接ぎ出来るフリーダム度合い、全国あちこちでやっていることでの無駄に高い知名度から、若い踊り手を奪うわ自治体が祭りにどんどこ組み込んでいくわ、元々その土地にあった盆踊りや伝統芸能、神事をめちゃくちゃに食い散らかしているのだ。
まさかこんな片田舎にまで、その流れが来るとは思ってなかったけど、いよいよあたしたちの暮している土地にまで外来種がやってきた。
そう、アレは外来種だ。文化の侵略的外来種とか言われている悪食のブラックバスだ。
「そんなもんに乗っかったら、いよいよこんな辺鄙な土地の祭りなんてお仕舞いじゃねえか!」
「そうだねー」
姐さんも今回はさすがに腹に据えかねる物があるのか、立次郎にビシビシと軽めだけど怒気のこもったパンチを繰り出してる。
「獅子頭ちゃん、ムカつくから遊びに行こう!」
立次郎に見事なハイキックをキメて、現実逃避しに行こうと提案してきた。
あたしもこのままでは収まりが悪い。ちょっとでも憂さ晴らしになるなら臨むところだ。
―――
というわけで、あたしたちはちょっと繁盛しているふたつ隣の町の近くの、虎野湖という湖まで来てる。姐さんが言うには、この湖にはブラックバスがいっぱいいるらしくて、外来種の憂さは外来種を釣って晴らそうってことになった。
あたしは釣りはほとんどやったことないし、面白さはさっぱりわからないので、湖のほとりでひたすら獅子舞で踊る。
姐さんはブラックバスを釣って釣って釣りまくって、焼いたり天ぷらにしてくれる予定。ブラックバスは臭みさえどうにかしたら、意外といける味なのだそうだ。
でも絶対、普通に海にいる魚のほうが旨いいと思うけども。
川魚でも、鮎なんかのレベルは言うまでもない。塩焼きなんてビールがいくらあっても飲めるくらい美味しい。世間様からのお墨付きと太鼓判がばっちりだ。同じ淡水魚でも全然違うのだ。
そう、魚も踊りもまったく違うものなのだ。
あたしは獅子の頭を掲げて、胴幕をはためかせて一心不乱に舞う。雑念は湖の濁りくらいあるし、湖底の泥くらい不満も溜まってる。
なんで余所者の外来種を呼ぶのかとか、なんで土地の伝統を大切にしないのかとか。
別に個人がなにが好きでなにを踊ろうと構わない。けれど、それを町内会とか自治体とかは呼ぶのはおかしいだろうが。
来る奴らも奴らだ。県外の祭りにいけしゃあしゃあと踊りに来るような連中に、その土地への敬意なんてありはしないのだ。
本当に敬意を持ってるなら、他所様の土地の踊りを自分たちもやろうなんてならないし、人様の土地の祭りに参加しようなんて考えには至らない。
「だぁー! ふざけんじゃねえぞ、バカがよぉ!」
こんな雑念だらけで獅子の頭を操れるわけがない。舞いなんて以ての外だ。
いそいそと獅子頭と胴幕を片付けながら、姐さんの様子を横目で見ると、いつの間にか馬鹿みたいな量のブラックバスを釣り上げていた。
「おい、姐さん。ちょっと釣れ過ぎじゃねえか」
「ヘイ、獅子頭ちゃん。なんでこんなに釣れたと思う?」
姐さんがいつになくドヤ顔をして、釣り針をゆらゆら揺らしながら聞いてくる。
「知らねえけど、魚がいっぱいいるんじゃねえの?」
「ノー! 適当にキャストして釣れるほど魚は馬鹿じゃない。まずは魚がいる場所を狙う」
姐さんが釣り針を湖に投げ込む。適当な場所に適当に投げてるようにしか見えないけど、姐さん的にはそうではないらしい。
あたしにはさっぱりわからないけど。
「なんでそこにキャストしたか。なぜなら魚はそこにいるから。魚を信じるんだ。魚はいる、必ずいる。これを信じられない内は魚と仲良くなれない。もちろん魚だけじゃ駄目、自分を信じるんだ。かつて中国には太公望と呼ばれた釣りの名人がいた。彼は殷王朝を滅ぼして、軍師として周という国を興した。そして斉の国を与えられた。その後は王になったとも、旅に出たとも、放浪の釣り名人をして過ごしたとも言われている。では、太公望はいったい今どこにいるのか……ここ」
姐さんが拳を握り、突き出した親指で胸をトントンと叩いている。なに言ってんのかさっぱりわからないけど、とにかく自分はすごいって信じているようだ。
傍目には馬鹿にしか見えないけど、とにかく信じることが大事らしい。
「その私が導き出したポイント、そこに確実に魚はいる!」
姐さんがそう吠えると、糸がぐんっと水中に引っ張られる。その直後、あっという間にブラックバスが釣り上げられた。
「獅子頭ちゃん、釣りも獅子も一緒だよ」
「あぁん?」
なるほど、全然わからん。
ブラックバスの塩焼き、ブラックバスのムニエル、ブラックバスのフライ、冷えた缶ビール。
味は悪くないけど、なんていうか別にわざわざ選んで食べたいって程の味でもない。鮎とブラックバスだったら迷わず鮎を選ぶし、石鯛とブラックバスだったら土下座してでも石鯛をお願いしたい。そんな味。
でも、たまに食べるなら別にいいかもしれない。
いや、旨いには旨いけど、こんな魚、最初から来ない方がよかったと思う。
―――
今年の秋祭りは割と暇になった。舞いの披露は地元の神社が3か所、隣町は件の事情で無し。他の町ではゼロ。
今日はかろうじて盛り上がったけど、それも本来の獅子舞の出番はなく、あたしと姐さんが趣味で作ってるテグスを手繰って動かす絡繰獅子が、近所のチビ共に物珍しさでウケただけ。
屋台も2軒、他の出し物も近所のじーさんばーさんの歌謡ショー。
まだ秋だというのにシベリア寒気団くらい冷え上がっていた。
ここ数年で一番の冷え込み具合だ。
獅子呼ぶほどの金がなく、おまけに隣町に同じ日付に祭りをぶつけられて、手伝いに人手を持っていかれて、屋台もみんなそっちに流れて、いよいよ地元も焼きが回ったもんだ。
「不本意どころの話じゃねえよ! 屈辱だ、こんなもん!」
「まあまあ、絡繰獅子が喜ばれただけでも良しとしようよ」
姐さんはそう言って、犬を散歩させるみたいに獅子を歩かせている。ガコンガコンと歩く獅子はかわいげもあるし面白さもある、だけど肝心の獅子舞の出番が無いなど、醒めてたら情けなくも悲しくなってしまうのだ。
「まあ、喜んでくれるのは小学校入るまでだからねー、気持ちはわかるよ」
「その保育園のチビ共もピコピコが好きだからなあ」
「ピコピコって、獅子頭ちゃん、先代の影響受けすぎだよ」
あたしたちはこの屈辱を抱えたまま帰るわけにもいかないので、隣町が引っ張ってきた他所の踊りを持ってきた祭りを見に行ってる。
ロックなんだかポップスなんだかわからないものに、若干和風テイスト足してみた感のある音楽が流れていて、20人くらいの着物っぽい派手な衣装をまとった連中が、どこそこから来ました~今日は呼んでくれてありがとうございまーす、とか叫んでる。
「知ってる、獅子頭ちゃん。あれだけ人数呼んで、たったの2万円だって」
「なんじゃそりゃ、価格破壊がえぐすぎじゃねえか」
「ご当地ゆるキャラ1体呼ぶより安い値段で呼べて、交通費だけで赤字なのに来るんだから、全国に広がるのもわかるわー」
全国に爆速で拡がるフリー素材みたいな踊りは、アマチュアでフリー素材みたいなものだから超低予算で呼べて、それにまんまと乗っかって来ちゃうものだから、特にあたしたちみたいな収入もありの枠組みでやってる団体は廃れていく一方だ。
で、この流れにどっぷり浸かってしまうと、甘い汁の依存症になって出せてた金も出せなくなって、後に残るのはなんにもなくなった焼け野原だ。
そんなことやってて、誰も得しないし何も残らない。一体全体、これは誰のための何のための祭りだ。
「祭りはファーストフード店のメニューじゃねえぞ!」
「まあまあ、私たちは細々とでも地道にやっていくしかないよ。踊り手が途絶えなかったら私たちは生き残れる。知ってる? どっかの町で35年ぶりになんとか音頭が蘇ったんだって」
「一旦なくなる前提じゃんか!」
姐さんの言う通り、舞う場所がなくなってもあたしはやめないし、そうなったらなったで虎視眈々と蘇る日を待つだろう。
でも、そうはなりたくないのだ。なりたいわけないだろうが。
「姐さん、とりあえず正月だ! 正月にやってやろうじゃねえか!」
結局がんばるしかないのだ。世間の大きな流れはあたしたちにはどうにもならない。だけど外来種に食い散らかされてたまるものか。
ブラックバスを逆に食いちぎって生き残ってやる。
酒と泪と博打と平手打ち
昔から欲深くてだらしない人間だった。
算術も仕事もさっぱりだったが、剣と喧嘩の才はそれなりにあったようで、名門の剣術道場で五本指に数えられる腕にもなったものの、酒癖が悪くて破門になった。
行く当てもないから博徒の用心棒になったら、幸いなことに酒も博打もやりたい放題だった。
その代わり揉め事が起きたら戦った。戦って戦って戦いまくって、最後は笹川の親分に加勢して80人と斬り合った。
8人を斬ったところで刀が折れちまったが、まだ折れた刃が残ってるし、腕も足もある。手足もなくなったら喉笛噛み千切ってやればいい。
歯を剥き出しにして口を開けたら首を刎ねられちまって、俺の魂みたいなものと30年ほど連れ添った体は、飛んだ頭と倒れた胴みたいに別れちまって、そのまま川に落ちちまった。
畜生め、俺はもっと生き足りねえ。博打も酒も全然やり足りねえ。
なんもかんも足りねえんだ。
・・-・- --- ・-・-・
昔から理由もなく虐められてきた。
勉強も体育もさっぱりだったから? 気が弱くて体も小さかったから? 教室のどこにも居場所がないのに学校には行けって
怒られるから、保健室で過ごすようになった。
勉強に全くついていけなくなったら、いよいよ家にも居場所がなくなった。
部屋にも引き籠らせてもらえないから、泣いて吐いて逃げまくって、最後は虐めてきた奴らに見つかって川に落とされた。
こんな人生もう嫌だ。学校も親もみんな嫌いだ。なにもかも嫌だ。
そう思いながら溺れ死んだら、川の底からどす黒い化け物みたいな赤い目玉をぎょろっとさせた魚が現れて、こう言った。
「だったら俺にその体を寄越せ」
・-・-- ・-・-・ ・---・ ・-
「冷てえっ……!」
気がついたら川に落ちてたし、全身ずぶ濡れだ。
ものすごく長い夢を見ていたような気もするし、ついさっき首を刎ねられたような名残もある。よくわからんけど、とにかく命はあるようだ。
にしてもだ。
なんか随分と町の様子が変わってしまってて、地面は土じゃないし、建物もコンクリートとかいうので出来てる。川の向こうでは車っていう鉄の塊が走ってるし、道に沿って妙な柱が何本も並んでる。
俺が知ってるこの辺は何にもない草っぱらだったはずだが、不思議とそんなに驚きはないし、むしろ驚きがないことに驚いてる。
変わってるのは町の様子だけじゃない。着ているものも着流しじゃないし、なんかぴたっとしてるし、腕もやたらと細い。
近くに便所があったから小便でも済ませるかと用を足したら、本来あるべきものがないし、鏡に映っていたのは生白い顔をした、片方の目玉が妙に赤く、目の周りに大きな傷がある小娘だ。
「誰だ、この弱そうな小娘? あ? もしかして俺か?」
なるほど、どうやら俺は女に生まれ変わったらしい。
そうかー、女かー……。
「まあ命があるだけ儲けもんだな」
なっちまったものはしょうがない。とりあえず今どうにかすべきは、替えの服と飯と酒だ。
便所から出て、再び町の様子を見回してみる。どこがどこだかさっぱりだ。
この様子だと笹川の親分がいるとは思えないし、服を探っても金らしきものがない。
となると泥棒するしかないわけだが、俺は金は好きだが泥棒は嫌いだ。
手癖の悪いスリなんか何人ぶちのめしたか覚えてないが、あいつらは正々堂々としてねえからダメだ。
金が欲しかったら、もっと正々堂々と悪い奴から奪うべきだ。
都合よくぶちのめしても心が痛まない悪い奴でも出てきてくれないものか、と考えていると、少し驚いた顔をした見るからに頭の悪そうな女が近づいてきた。
「なんだ、おめー。まだ生きてたのかよ」
そう話しかけてきたのは、耳になんかじゃらじゃらと飾りを付けた、頭が茶色い小娘だ。どうやら俺の知り合いのようだが、俺はこんな小娘は知らんし、まるで見覚えもない。いや、あるような気もするが、頭に靄がかかってるようにどうにも思い出せない。
小娘はぐじゃぐじゃと小汚い言葉を垂れ流しながら、俺も周りをうろうろと歩き、いきなり足蹴にしてくるではないか。
なるほどなるほど。こいつが誰だかわからんけど、喧嘩を売ってきているわけだ。
売られたものは仕方ない。
右手で胸倉を掴んできたところを、外から左の平手で耳のあたりを思い切り叩く。
博徒の喧嘩は即時決着を旨とする。だらだらと胸倉掴むような真似はしない。そんな間抜けは、どうぞ旦那のお好きなように殴ってくだせえ、って言ってるようなものだ。
頭を下げたところを髪を掴んで膝で蹴り上げ、そのまま地面に倒したら馬乗りになって握った拳の小指側の面で鉄槌打ち。これで気を失うまで顔を叩き続ける。
10かそこら叩いたところで『やめて』と聞こえた気がしたので、なんだまだ意識があるのかとさらに叩き続けると、またも『やめて』と聞こえるが、あたりに人はいない。
『もうやめてって言ってるでしょ!』
俺に喧嘩を売ってきた小娘は、鼻と前歯を折られて完全に気を失ってる。あたりに他に人はいない。
ということは、今聞こえている女の声は俺の頭の中から響いている、そういうことのようだ。まだ酒に酔ってもないのに奇妙なことも起こるもんだ。
「さっきからやめろやめろとやかましいが、お前は誰だ?」
『そういうあなたこそ誰なの! なんで私の体を動かしてるの!?』
おおう、頭の中で会話が出来るぞ。しかもこの女、この体は自分のものだと言い張りやがる。しかし今は俺の体だ。俺のものは俺のものだ。
が、俺も聞く耳持たないほど道理の通らぬならず者でもない。ちょっと話くらいは聞いてやろうじゃないか。
・・-・ ・・- -・ ・・ ・-・-・
「あなたは誰だ、と問うたよな。俺は平手造酒(ひらてみき)、北辰一刀流の千葉周作先生の下で剣を学んだが、わけあって流浪の末に笹川繁蔵親分の世話になっていた用心棒でございやす。気がついたら女に生まれ変わっていて、そこの小娘に喧嘩を売られたから買わせてもらいやした」
腰を落として仁義を切って、渡世の挨拶で名乗りを上げる。
『私は上々島華子(しじやはなこ)』
「おう。で、それだけか?」
『だって別に言うほどのことは無いし』
言うほどのことは無いのか。無いと言われれば仕方ないが、しかし改めて名乗り名乗られてみてわかってきたことがある。
この華子とかいう女がこの体の持ち主らしいことと、さっぱり覚えのない記憶が少しずつだが靄が晴れてきたということ。
今は令和という時代で、俺が笹川の親分に世話になっていた頃よりも随分と年月が経っていること。
華子が口に出すのもはばかられる外道な虐めを受けたこと、最後は川に落とされたこと。
そして死んでもいいと思ったら、なぜか俺が体を乗っ取っていたこと。
先ほどの耳にじゃらじゃらと飾りを付けた女は、華子を酷く虐めていた相手のひとりだということだ。
ならば加減もいらんし、容赦も必要なかろう。
俺は喧嘩を再開して、耳の飾りを引きちぎり、折れ曲がった鼻に爪先での蹴りを喰らわせる。
『ちょっと、なにしてるの?』
「なにって、とどめを刺すに決まってんだろ? この小娘はお前の命を奪おうとしたんだ、てことは、こうして命を奪われても構わんと腹に決めてやがるのさ。子犬のようにじゃれてくるなら、俺だって甘噛みのひとつもしてやらんでもねえが、命のやり取りを望んで向かってくるなら、命を奪ってやるのが道理ってもんだ」
『でも、そんなことしたら人殺しになるでしょ』
「それのなにが問題なんだ?」
まったく、この時代の小娘はわけのわからんことを言うものだ。
『警察に捕まったら家に帰れなくなるし、死刑になるかもしれないでしょ』
「そいつは大問題だな。仕方ねえ、俺の流儀じゃないが、これくらいで許してやるか」
そういうことは早く教えてくれないと困る。
せっかく生き返ったのに、博打もせずに酒も飲まずに死んでたまるか。そう考えると無性に酒と博打が恋しくなってきたので、俺は倒れている小娘の財布から1万円札と3000円を抜き取り、小銭で578円。これだけあれば酒も買えるし、博打も出来るだろう。
俺が陽気に鼻歌なんぞ歌っていると、
『なんでお金とってるのよ!』
と華子がまたしても難癖を付けてくる。
「いいか、勝負ってのは勝ったほうが全部貰うし、負けたらなにもかも失うってもんだ」
命を助けてやったんだ、文句を言われる筋合いはない。
-・-・・ -・ ・・・-
コンビニで酒を買おうとしたら何故か売ってくれなかったので、仕方なく華子の家に帰り、熱い風呂を浴びて飯を食った。
「御母堂、ごはんのおかわりを頂いてもよろしいか?」
『なんで勝手にごはんまで食べてるのよ』
「お前なあ、そもそも痩せすぎなんだよ。小さいなら小さいなりに飯を食って走れ、体を鍛えろ。こんな体じゃ、なにかあっても満足に戦えんだろうが」
御母堂にはひとりでごちゃごちゃと喋っているように見えているらしく、奇怪なものを見る目を向けてくるが、まあそのうち慣れてくれるだろう。
「コロッケもおかわりを頂いてもよろしいか?」
しかも娘が帰ってきたと思ったら、やけに大食いになっているので、そこも驚いているようだ。
俺も遠慮のひとつも見せたいところだが、この時代の飯は涙が出そうになるほど旨い。これに遠慮なんてしたら罰が当たってしまう。
腹いっぱいになったので、居間にあるソファーに座ってテレビを見る。これも無益にだらだらしたいわけではない、今の時代がどういうものか俺なりに理解するために必要なのだ、という方便だ。
『ねえ、あんた』
「なんだ? 俺は今、有閑マダムとカンガルーが殴り合うのを見るので忙しいんだが?」
テレビの画面では、週に7回エステに通ってるらしい金持ちの女とオーストラリアで7人を撲殺したと噂のカンガルーが殴り合っている。今ちょうどカンガルーがボディーブローを入れたところだ。
『まさか学校に行くとか言わないよね?』
「あ? もちろん行くが?」
別に勉強などするつもりはない。
しかしこの時代、まだ未成年のこの体では居酒屋にも行けないし、賭場にも出入りできない。駅前なんて馬鹿みたいにでかいパチンコ屋があり、商店街には雀荘があり、街外れには競馬場もあるというのに、そのいずれの場所も出入りできないのだ。
となると、どこで博打をすればいいのか、という話になってくる。大人の遊興施設に入れないなら、ガキの世界で博打を楽しむしかない。
で、丁度よく適度に金を持っているガキが集まるのが学校だ。
「ガキでもさすがに丁半くらい知ってるだろ」
『馬鹿なんじゃないの?』
失礼な。馬鹿が勝てるほど丁半は甘くない、あれはあれで単純なように見えて奥が深いし、いろいろと技もあるのだ。
テレビの画面では有閑マダムがカンガルーに向かって回し蹴りを繰り出している。これも中々の技だ。
『とにかく絶対行くのだけは嫌!』
「うるせえなあ。とにかく明日は学校とやらに行くぞ」
そう言い返すと、御母堂がなにやら瞳を潤ませてこちらを見てくる。
「華子、学校に行ってくれるの?」
そんな泣くほどのことか、とも思うが、御母堂は涙を流すほど嬉しいらしい。そこまで期待されたら悪い気はしない。立派に明日は大勝ちして、手持ちの1万円3000円、5倍10倍に増やしてやろうじゃないか。
テレビの画面では有閑マダムがカンガルーの首に飛びついて、背後から絞め落したところで決着がついた。
・-・・ ・・ ---- ・・-
「では、行ってきます。御母堂、御尊父、晩飯はトンカツでお願いしたい」
朝飯と朝風呂を済ませた俺は、御母堂と御尊父にそう挨拶して、学校に向かうことにした。
ちなみに制服はどうにも窮屈で落ち着かないので、上下ジャージに足元はスニーカー。腰が寂しいので、川ベリに落ちてた鉄パイプをぶら提げて重りの代わりにしている。
ほんとは着流しに草履がいいのだが、この時代にそんなものは滅多に着ないらしく、家にも無かったので、今日の勝ち分で買ってもらうとしよう。
『学校いきたくない』
華子は朝からこれしか言わない。とにかく学校という場所が嫌なようだ。
気持ちはわからんでもない。あの頃にも寺子屋があったがガキから17、8の小僧まで意外と幅は広かった、しかし学校というものは同じ年齢ばかりを集めていて、なんともいえない気味の悪さがある。そんな場所、ガキの世界で威張りくさりたい勘違いした輩も出てきて当然だ。
「安心しろよ。絡まれたら返り討ちにしてやればいいんだ」
学校の教室の扉を開くと、俺の顔を見るなりざわざわと騒々しい。
教室の中には15人ほどの小僧と小娘がいて、窓際には見覚えのある女がふたり座っている。しっかりと思い出せる、華子を虐めていた連中の中にいた。
俺としては用はないが、向こうは因縁つけたくて堪らない、そんな面構えだ。
「おい。えーと、悪い、名前なんだっけ?」
指さして名前を教えてもらおうとすると、昨日の奴のようにごちゃごちゃと口汚く罵ってくるので、しょうがないのでひとりは正面から正拳で鼻っ柱をぶち折っておく。
『なんでいきなり殴るのよ!』
「名前聞いてんだろ、日本語わかんねえのか?」
名前聞いただけで文句言われるなら、もう喧嘩しかないだろうよ。
それにしてもこの時代のガキ、いつぞや道場に乗り込んできた国定忠治って狂犬より話が通じないが、この学校こんなので大丈夫か?
もうひとりの女がスマホを取り出して、俺の方に向けて、
「さっきの撮ったから! ツイッターとインスタで晒してやるから!」
と訳のわからないことを言い出した。
ツイッター? インスタ? なんだそれ?
『SNSよ』
「いや、だからなんだよそれ?」
『だから、えーと、ネットにある』
熱湯? 江戸の風呂屋のことか?
華子の説明はさっぱりわからんが、要するにそういう場所があるわけだ。
で、それに晒したらなんなのかさっぱりわからんけど、目の前のスマホ女は晒すと脅せばこの場を切り抜けられると思っているのか、パシャパシャと写真を撮りながら、許さないだの謝っても遅いだのと喚いている。
「だから、なんだそれって聞いてんだろうが」
俺はスマホ女の膝を蹴り抜いて、体勢を崩して倒れるところを思い切り蹴飛ばした。
何度も言うが、博徒の喧嘩は先手必勝・即時決着を旨としている。
喧嘩が始まっても、ごちゃごちゃ能書き垂れる奴はだいたい死ぬ。口だけで乗り切ろうとする奴もだいたい死ぬ。後でどうこうと脅しをかけるなんてのは悪手中の悪手、最悪手だ。
後ろにどんなでかい看板背負っていようと、鉄火場ではそいつもひとりの人間だ。突き詰めたら1対1の生き物同士だ。
ダボハゼみたいな間抜け面してるから、こういう馬鹿みたいな目に遭うわけだ。
顔を押さえて床に転がるスマホ女ともうひとりを何発か蹴り回して、勝利の証として財布の金は当然もらっておいて、遠間から様子を見ている小僧共に声をかける。
「あー、朝から騒がしくして失礼したな。ところでお前らの中に、丁半知ってるやついないか? チョボイチでも追重迦烏でもいいぞ。なんか知ってるだろ? ほら、机集めろ。博打やるぞ、博打」
『やるわけないでしょ!』
笑顔でなるべく親しみを込めて語りかけたが、頭がおかしいと思われたのか、小僧共は教室の外に出ていって、残ったのは俺と倒れているふたりだけ。
これでは博打をしようにも相手がいないので、今日の勝ち分はふたりから巻き上げた7800円で済ませることにして、早々と学校を立ち去り、家に帰って冷蔵庫の中にあったコーラを飲んで、昼間から寿司を配達してもらった。
酒も頼んだが、顔を見るなり酒は断られた。どうやら宅配でも駄目なようだ。
慌てて帰ってきた御母堂と御尊父に叱られたのは、それから1時間ほど後の出来事だ。
・---・ ・・ ・-・-・ -・・・- ・--・
学校に行き、御母堂と御尊父の話を聞いて、なるほど理解した。
俺が平穏無事に学校で過ごすには、やはり華子を虐めていた連中が邪魔なわけだ。あいつらがいる限り、教室の空気は変な具合で博打どころではない、話そうにも言葉が通じないので文字通り話にならない。
そして教師という連中、華子が虐められていた頃には見て見ぬふりをしていたくせに、いざ教室で喧嘩が起きると顔色を変えて解決に乗り出そうという。
まったくもってふざけた奴らだ。
「というわけで、学校で暴れると御母堂に迷惑がかかるから、外で潰していくことにする」
『どういうわけでそんな発想になるのよ』
ベッドに寝転がってスマホでツイッターを開くと、俺が今朝のふたりを蹴り回している場面が撮られていて、3万リツイートほどされている。
「これがバズるってやつだな。で、これでなんかあんのか?」
『だって、嫌でしょ、こんなのみんなに見られるの』
そういうものか? この時代はよくわからん、俺のいた時代なんて強さを知らしめることで飯の種になってたから、むしろ目立てば目立つほどよかったものだ。
悪名ならまだしも勇名なら轟かせるだけ轟かせたほうがいいだろうに。
「よし、こいつの家が近いから、まずこいつにしよう」
スマホで連中の名前を眺めながら、はっきりと家の場所が思い出せる佐済勇太(すけなりゆうた)という男を選ぶ。華子の幼馴染で、かつては近所ということもあり親同士の付き合いもあったが、段々と疎遠になりいつしか虐める側に回った男だ。
『待ってよ。もうやめようよ』
「別にやめても構わんけど、やめたところでどうする? 教室で絡まれたら俺は容赦なくぶちのめすし、御母堂も家に引きこもるのは許さんのだろう? だったらお前を虐めてきた連中か、引きこもらせない御母堂か、どっちか潰すしかないが、俺は別にどちらでも構わんぞ」
旨い飯が食べれなくなるのは残念だが、俺は俺でこの体で生きねばならん。道端に邪魔する石があったら蹴って退かさねばならんわけだ。
俺は俺の生きたいように生きる、邪魔などされたくない。
『……』
「そんなに怒るな。そうだ、お前と賭けをしてやろう。佐済という男、もし俺に向かって頭を下げてこれまでのことを詫びを入れたら、それに免じて他の連中も全員許してやろう、ただしこれまでの3人のようにごちゃごちゃ抜かしてくるなら潰す。どうだ、悪くない賭けだろう?」
華子にそう提案をして、俺は腰に鉄パイプを提げて、こっそりと部屋の窓から抜け出した。
予想通りというか、結果は最初から分かっていたことだ。
俺の目の前に、海老ぞりの姿勢で天井から吊るされた佐済がいる。
あえて言うまでもないが、博徒の喧嘩は即時決着を旨としている。頭、鼻、喉、膝、狙う場所などいくらでもあるが、相手が男であれば当然金的一択だ。
最初に華子に詫びるつもりはあるか問うたが、佐済は詫びも入れず、こちらを女だと侮って押し倒そうとしてきた。大股開くものだから、当然金的を蹴らないわけにはいかない。
思い切り脛で下から蹴り上げ、そのまま踵で前から叩き割り、腰を持ち上げて倒れたところをさらに後ろから蹴り上げた。
あとは後ろ手に両手両足を縛り上げて、逃げられないように天井から吊るして一丁あがり。
「一応野郎だからな、動かれても面倒だ」
「……てめぇ……」
佐済がくぐもった声を上げながら睨んでくる。まだ敵意を剥き出しに出来る辺りは、卑怯者の糞野郎でも一応は男だ。
「てめぇ……しじや……じゃ……ねえだろ……」
「おうよ、俺の名は平手造酒。ちょっと前までは笹川の親分のところで用心棒をしていたが、今はわけあって腐った連中の金玉を叩いて回ってる、そんなしがない渡世人だ」
折角名乗ってやったのに泡拭いて白目向いてやがる。あんだけ玉を叩けばしょうがないか。
俺は佐済のスマホを引っ手繰り、今の浮かぶ海老みたいな状態の前に立って、赤い方の目の横に指2本を並べてピースサインを作り、
「どーもー、こっちはサッカーゴールドカップでボールになってくれた佐済勇太君でーす。金玉をハットトリックされたので、こんな感じでーす。4年後にまた会いましょー」
精一杯女っ気のある声で佐済を紹介して、撮った動画をツイッターとインスタに公開する。
「お前らは晒されるのがかなり効くんだったよな」
『あんた、いつサッカーなんて知ったの』
「昨日ユーチューブで見た」
部屋を立ち去り際、肘鉄で4点目を入れておいて、佐済家を後にした。
「ところでお前、あんなにやめようやめようって言ってたのに、佐済を吊るしてる時は1度も止めなかったな」
『なんでだろ? 押し倒されそうになった時に、こんな奴ぶっ殺されたらいいのにって思ったからかな』
「今からとどめ刺しに戻るか。蹴った感じ、まだ竿は無事だ」
『そこまでしなくていいよ』
それから残り5人のうち4人は、教室で起こった話を聞いたのか、それとも海老ぞりで吊るされた仲間の動画を見たのか、家を飛び出して逃げたようで、代わりに頭を下げて許しを請うた親が3人、逆上して玉と頭を蹴り上げられたのが1人、詫び料として合計150万円ほどの儲けとなった。
「こんなに儲かるなら、最初から親を狙うってのも手だったな」
とはいえ賭けとしては無効だ。これはあくまで詫び料、貰ったからには見つけても手荒なことはしないが、それはそれ、これはこれだ。
「しかし、これだけ持ってても博打が出来ないんだから、令和って時代はどうかしてるな」
財布に入りきらない分厚さの札束をジャージのポケットに突っ込み、日の暮れかかった商店街をたらたらと歩いていると、賑やかな囃子を鳴らしながら広場で祭りをしていた。
「おい、祭りだ。行くぞ行くぞ」
『あんた、祭りも好きなの?』
「当たり前だ、酒と博打と煙草と祭りと女、これは博徒の五本指だ」
そう言いながら祭りに飛び込み、屋台で飯を食い、酒はやはり断られて、150万円を募金箱に全部突っ込んで、さんざん遊び倒して家に帰って大いびきをかきながら眠った。
『なんで全部募金したのよ』
「困ったやつを助けてやるから、俺たちみたいなもんでも、お天道様の下を歩けるんだろうが」
-・・・ ・・ ・・・- ・・-・・
あれから随分と月日が経った。
最初の1週間は、勉強しなさいだのテレビを見るのはやめなさいだのと口酸っぱく言っていた御母堂と御尊父だったが、1ヶ月も経つ頃には何も言わなくなった。
天地がひっくり返ったような娘の変化にも、最初は驚きこそしたものの、やがて興味も失せたのか一切触れなくなり、試しに髪を赤く染めてみたが一瞥しただけだった。
死ぬまで助けようとすらしないのも、死にそうなのに引き籠らせないのも納得できる。要するにめんどくさがり屋だ。めんどくさいしか売り物のねえくだらねえ店のしょうもねえ卸問屋だ。
「背中に不動明王とか彫っても何も言わなそうだな」
『絶対やめてよ。髪だって嫌だったんだから』
「やらねえよ」
俺はすっかり今の暮らしに慣れてしまって、華子は相変わらず口やかましいが、ふたりで喋りながら過ごすのも当たり前になってきた。学校にも行かず、勉強もせず、家でだらだら映画を見てゲームをして、朝は体が鈍らないように1時間ほど走って、2時間ほど木刀を振ってサンドバッグを殴る。
枝みたいに細かった体も、最近はよく食べてよく走ってよく殴ってるおかげか、ちょっとずつ肉もついてきた。
平和で揉め事もなく、生温い湯に浸かったような悪くない暮らしだ。
ただしこの暮らしが面白いか面白くないかでいえば、面白いわけじゃない。
酒もまだ1滴も飲めてねえし、博打も出来てねえ。華子との賭けも、最後のひとりが逃げたままで面白くねえ。
あの時に生き足りねえと思ったことが、結局なにも出来ずにいる。
『いいじゃんか、3年経てばギャンブルは出来るようになるんだから』
「3年も待てねえよ。3年飯抜きとか死んじまうだろ、博打も3年出来なかったら人間死んじまうぞ」
『死なねーよ、馬鹿じゃね―の』
こんな軽口を叩くのもすっかり日常茶飯事だ。
最近は段々と華子の性格が俺寄りになってきて、たまにどっちがどっちかわからなくなる時がある。
とはいえ、どっちも1度は死んだ身だ、命があるだけ運がいい。この強運を賭場で振るっていたら、城を買えるくらい馬鹿勝ち出来ていたかもしれない。
そうなっていたら笹川の親分に加勢した時も、こっちも手勢を揃えれたはずだ。80人に斬りかかるのは面白かったが、結果が良くなかった。
いや、こうやって蘇ったのだから結果は上々、やはり俺の博打は間違いではなかったのか。
「暇だとどうでもいいことばかり考えるな」
『じゃあ、学校でも行けば』
「嫌だ。俺は居酒屋か賭場に行きてえんだ」
例えばこいつの選択肢は合ってたのか? こいつは川に落ちて死ぬことで俺に体を乗っ取られ、自由を失った代わりに虐めてきた相手を倒すことで苦痛はなくなった。そういう意味では、やはり結果は上々なのか。
顔をばしゃばしゃと洗う。
どうでもいいことを考え過ぎて、頭に靄がかかっているような気がする。
鏡に映っている顔は、片目が赤く、もう片方の瞳も赤みがかった黒い色に変わってきている。蘇ってから新しく覚えたことは忘れていないが、俺がまだ居ない頃の華子の記憶はかなり朧気だ。
瞼を指で持ち上げて赤黒い瞳を見つめていると、玄関のチャイムが鳴った。
「朝っぱらから誰だ?」
ドアを開けると、見覚えのある顔の小娘がいた。
「こいつ、どこかで見た覚えがあるな」
『五百小竹紗千(ゆざささち)だよ』
五百小竹紗千、華子の小学校からの付き合いで、元々は同じ虐められる側の人間だったらしい。ある日を境に虐める側に回って、自分だけ助かろうとした女だ。
まったく、この時代はどうなってやがるんだ? そんなに嫌なら包丁でもなんでも使って刺せばいいのに、自ら死のうとしたり外道に成り下がろうとしたり、俺にはさっぱりわからねえ。
「どいつもこいつも、どうしようもねえな」
俺がじろりと睨みつけると、五百小竹は怯えた様子でこっちに視線を向けたり外したりしている。つまり怯え散らかしているわけだ。
「それで虐めっ子が俺に何の用だ?」
俺が五百小竹に目を合わせた瞬間、すばやく頭を地面スレスレまで下げて、土下座の姿勢で叫ぶように言った。
「ごめんなさい! 許してください! だから殴らないで!」
五百小竹は今の今まで、それこそ昨日まで知り合いの家やビジネスホテルを逃げ続けていたが、いよいよ金がなくなって戻ってきたそうだ。逃げ続けていた理由は簡単で、帰ってきたら殺されると思っていたから。
その考えは遠からず当たっていて、まだこいつからもこいつの親からも落とし前をつけてないから、帰ってきたら詫び料でも貰おうと週に3回は走るついでに家の様子を見に行っていた。
親は出稼ぎに出てるのか単身赴任ってやつなのか知らないが、残念ながら出くわさなかったが、俺がこいつの家をちゃんと見張ってることは伝わっていたようだ。
そんな脅しもあってか、俺たちの目の前に無一文で現れたわけだが、
「どうする?」
『どうするって、前に謝ったら許すって賭けたよね』
賭けたけど、あれは結構前の賭けだ。別に許す許さないは俺にはどうでもいいが、そんな前の賭けの決着が今更ついたところで面白みがない。
「よし、こうしよう。お前、丁半くらい知ってるだろ? 博打するぞ、博打」
「丁半って?」
「サイコロ振って出目が偶数なら丁、奇数なら半だ。簡単だろ?」
テーブルの上に茶碗とサイコロをふたつ並べ、五百小竹に種も仕掛けもないことをしっかりと見せて、
「勝負は簡単だ。お前が丁か半か当てる、それだけだ。当たればタダで今までの一切合切水に流して許してやる、ただし外したら」
ドンと音を鳴らしてテーブルの上に包丁を突き立てる。
「腹を切ってもらう。お前は武士じゃないが、揃いも揃って相手の命を奪おうとしたんだ、だったら腹くらい切れるだろ」
『ちょっと! そこまでしなくていいでしょ!』
別にそこまでする必要もない、俺からしたら恨みも何もない相手だ。だが、気に入らない。金がなくなったから頭を下げて許してもらおう、なんて甘ったれた考えが気に入らない。それはつまり、こいつは逃げれる金さえあったら一生逃げて回るつもりだったわけだ。しかも殴られもせずに許してもらおうとする図々しさまで持ち合わせてるときた。
そんな甘い考えだから、こうして博打を吹っ掛けられるのだ。
茶碗にサイコロを転がして入れて、くるりと掌の上で1回転2回転、カラカラと音を立てながらさっと碗をテーブルに伏せる。
「さあ、さあさあさあさあさあ! 張った張った! 丁か半か! 丁か半か! どっちだ!?」
五百小竹に顔をぐっと近づけて、目を見開いて迫る。
「さあ、丁か半か!? さあ! さあさあさあさあ! 丁か半か!」
五百小竹は答えられない。
当たり前だ、こいつも他の連中も初めから命を張る覚悟なんて持っていないのだ。なのに他人の命を奪おうなんて図々しさだけは一丁前だ。
「さあ、どっちだ! 丁か半か!」
「ごめんなさい! 許してください!」
「駄目だ! サイはもう投げられた、博打に後戻りはねえ! 賭ける賭けないもねえ! 当てるか外すか、どっちかだ! さあ、選べ。丁か半! どっちだ!」
がくがくと震える五百小竹を睨みつけ、視線は外さず、何度も丁か半かと口上を繰り返す。
華子が許しても、地獄の閻魔が許しても、俺は逃がさねえ。ここは今や鉄火場だ。
鉄火場には鉄火場の決まりがある、勝って帰るか、負けて素寒貧で帰るか。
「……丁!」
「さあ、丁半出揃いました!」
泣きながら声を振り絞った五百小竹の前で、ゆっくりと茶碗を持ち上げる。
1の目のサイコロと、もうひとつのサイコロも1の目。
「ピンゾロの丁、お前さんの勝ちだ」
泣いてうずくまる五百小竹の腕を抱えて立たせて、びしゃびしゃになった尻を蹴飛ばしてドアから放り出して、誰もいなくなったテーブルの上の茶碗と
サイコロを手に取り、もう1度碗の中でサイを振る。
碗を開いて出てくるのはピンゾロの丁。
碗を重ねてもう1度開くと、そこに見えるは1・2の半。
「俺はこいつが得意で、ピンゾロをイカサマなしで何度でも出せる。で、サマを使えばサイコロの目も転がし放題、そういうわけよ。どっちを選ぼうと無傷で帰れたってわけだ。鉄火場の神様は博徒以外には優しいって相場で決まってる」
語りかけるが、響いてくるはずの返事がない。
「あぁ? どっか行っちまったのか?」
---・ ・・-- ---- ・・
「さあ、張った張った! ここで張らなきゃ一生の恥、男なら1円残らず大勝負に出やがれ!」
あれから3年と半年ほど、表の道を歩けないようなことや色んなことの落とし前、まあ色々あるにはあったが、こうして首が繋がったまま戸籍上は18歳になって、ようやく堂々と大手を振って博打を打てるようになった。
今では雀荘に競馬、競輪と賭けて回る毎日だ。仕事もカジノのディーラーだ。
たまに鉄火場らしい揉め事も起きるが、その都度割って入って鼻をへし折って、股間を蹴り上げて、膝の皿を割って、喉を突いてと大忙しだ。
その筋では赤目の用心棒としてそこそこ名の通るくらいにはなり、名前も上々島未来(しじやみき)に変えた。
体の持ち主は未だにいなくなったままだ。落とし前つけて心残りが無くなったのか、それとも博打の楽しさで俺と同じものになっちまったのか、それはわからないがいつかそのうち出てきそうな気もする。
ちなみに背が少しも伸びなかったので、酒を買おうとしても未だに騙せずだ。おかげであと2年は満足できねえんだから、まったくこの世はどうかしてやがる。
ジーマ・豚足・オトガイ結節粉砕骨折
Hey,Yo! 私、環貫(かんぬき)ミヅキ、高校1年生!
今日は幼馴染の心音(ここね)ちゃんの覆面ラッパーやってるお兄さんが風邪で喉をやられたから、その代役でラップバトルっていうのをしに、渋谷にあるハイパーウルトラちめちゃくちゃガラの悪いクラブ【豚キック】にきてるよ、いぇーい!
以上、あらすじ終わり!
というわけで、私は豚キックに来ている。豚キックは雑居ビルの地下にある店で、駐車場には十字架と頭蓋骨と土管が転がってるし、駐車してある車は多分どれも車検が通らないくらいメタメタに凹んでるし、上半身裸の全身入墨坊主頭が殴り合いのケンカをしてる。わーい、社会不適合者のディ〇ニーランドみたーい。帰りたーい。
中はアル中とヘビースモーカーとラッパーしかいない地獄のような空間で、どう考えても女子高生がいてはいけない場所だけど、しかし私にだって使命がある。使命ってほど大層なもんじゃないけど、幼馴染の頼みごとを断るような子じゃないのだ。
「お嬢ちゃん、ここは君のような小娘の来るところじゃないぜ」
入り口でドレッドヘアーのおじさんが、ベタベタなセリフを言ってくる。知ってる。でも今日は女子高生じゃなくて、覆面ラッパーの中身って設定なのだ。
「ヘイ、ドレッド、私がわかんないの? ラップ狂人卍の中の人だ!」
そう言って、銀行強盗が被るタイプのマスクの赤色を被ると、ドレッドヘアーが映画の中の外国人しかやらないようなオーバーリアクションで驚き、
「マンジ~、お前プリティーJKだったのかよ、騙されたぜ。俺の目も節穴だな」
心音ちゃんのお兄さんは192センチ120キロのゴリゴリビルダー体型だけど、どこをどう間違えたら私(157センチ49キロ)と見分けがつかなくなるんだろう? きっと飲んじゃいけいないほうのアルコールだな!
ちなみに心音ちゃんとお兄さんは、公式ライブ配信で私のバトルを見てくれる予定なので、今日は来てないよ。ちょっと不安、今のところ登場人物全員ガラ悪いし。
控え室まで超ガラの悪いアメリカ軍人みたいな人に案内されて、ネクタイスカート半袖シャツにローファーの制服姿から、勝負服の卍蹴りと書かれた半袖Tシャツとジャージとスニーカーの運動ルックに着替えて、両手に自前のオープンフィンガーグローブを装着する。
「おいおい、マンジ、今日はラップバトルの日だぜ? それともMMAにでも転向したのかい?」
ラップバトル? MMA? この軍人ルックはなに言ってんの?
私が頼まれたのは、代わりに戦え、そして勝て。それだけだよ?
「要するに勝てばいいんでしょ?」
「ドゥーユーノウ、ラップバトル?」
アーハン?
どうやらラップバトルっていうのは、ラップとか言葉を使うバトルらしく、とにかく相手が言い返せなかったり、言葉が出なくなったりしたら勝ち、っていうことらしい。
なるほど、つまり黙らせたらいいわけね。じゃあ、いつも通りじゃん!
「マンジ、理解してくれたかわかんねえけど、とりあえずオープンフィンガーグローブ外そうか?」
「だいじょうぶ? 怪我しないかな?」
「普通にしてたら、するわけないが?」
軍人ルックが豆鉄砲食らった鳩みたいな顔をしてるけど、とりあえず外せと言うので、オープンフィンガーグローブを宙に放り投げ、軽く跳躍してスパァンといい音を立てつつも優しく蹴り飛ばした。
「さあ、今日もワイルドなリリックを聞かせてくれよ! ラップ狂人卍!」
ガラの悪い人たち120%のフロアーを、まっすぐにガラの悪い人たちの肩や頭を踏み越えて、ステージにひらりと降り立つと異常に野太い喚声が沸き上がる。急に現れたジャージの美人女子高生に驚いたり、興奮したり、ガチ恋したり、反応は様々だけど、ギャラリーのリアクションはなかなか悪くないと思う。
ステージの上には司会っぽいサングラスのおじさんと頭がレインボーな長髪のおじいさん、それと対戦相手らしき顎がふたつに割れた若めの男子。完全に舐めた感じで、私を睨んできてる。
「ラップ狂人卍が、実はJKだったとはなあ! おしっこちびって泣くんじゃねえぞ!」
態度だけじゃなくて、心の底から舐めてるみたい。弱い犬ほどよく吠えるって言うけど、そっちこそ後で泣いててもしらないからね!
サングラスのおじさんが私たちにマイクを渡し、バトルの開始を告げる。
「では、先攻DJケツアゴ、後攻ラップ狂人卍、ボディタッチありで3本勝負! レディ、ファイッ!」
DJケツアゴ VS ラップ狂人卍(偽)
リズム ★★☆☆☆ リズム ★☆☆☆☆
ラップ ★☆☆☆☆ ラップ ☆☆☆☆☆
アゴ ★★★★☆ 可愛さ ★★★★☆
ケツアゴがマイクを握り、リズムに乗って、なんかごちゃごちゃ言い出した。
ダジャレ? ダジャレではない? なんか間の言葉とか語尾をわざとらしく似せてる感じ? とにかく全体的に小難しい喋り方。一言でいうと、なに言ってんだ、こいつ? そんな感じ。
「小説も読めねえおめーはライトノベル、ビビッてチビって恥かく前にオチビは帰って便所にいってろ、ここは戦場だ」
私の肩をバシッと叩いて、ドヤった顔を見せる。
なるほど、ボディタッチというのはステゴロのことらしい。なんか言いながら攻撃をすればいいわけね。オーケー、だいたいわかった。
「さっきからゴチャゴチャうるせーんだけど、ひとつ言っとくケツアゴヤロー! 心の傷は体の傷より治りにくいから今すぐ謝れ!」
右手のマイクでメッセージを伝えながら、そのまま前転気味に上半身を落とし、左腕で床と自分の体を固定して、腰の位置は元の場所そのままに、跳ね上げた右足で相手の顎を撃ち抜く。ケツアゴの帽子が宙を舞う。下の前歯が何本か飛び散る。
どーだ! これが私の得意技のひとつ、卍蹴りの破壊力だ!
「ちょっと! 暴力は駄目だって!」
慌ててケツアゴの怪我を確認するサングラスが、驚愕とか戦慄とかそんな感情を顔に込めながら注意してくる。
「え? でも相手が言い返せなくなったら勝ちって聞いたよ」
「それは言葉でなんだって」
てへっ、やっちゃった! でもケツアゴは顎の形がブーメランみたいになってるから、たぶん続行不可能だし、私の勝ちってことでいいと思うの。
私とサングラスとおじいさんが、ケツアゴをじーっと見下ろし、
「勝者、ラップ狂人卍! 決まり手、オトガイ結節粉砕骨折!」
おじいさんが私の手を掲げて、第1回戦の勝者を告げた。
ミヅキちゃんと学ぶラップバトルのルール
1.相手が言い返せなくなったり、相手より上手に喋ると勝ちだよ!
2.暴力はダメ! 怪我しない程度のボディタッチはアリだよ!
3.試合後は仲良くね!
ということなんだって。てっきり黙らせればオッケーだと思ってた。
控室で軍人に改めて説明を受けながら、2回戦の準備をする。念入りに拳と足を振り回してシャドーを行い、体が冷えないように気をつける。
「ところでマンジ、さっきの蹴りはマジ卍だったけど、あんなのどこで覚えたんだ?」
「修行した!」
小学1年生の時に上級生の男子にいじめられてから、逆襲するために始めた鬼のような修行を振り返りながら答えた。
ちなみにいじめてきた男子は、手のつけられないヤクザ予備軍になってて、私が10歳の誕生日にあばらを全部叩き折ってからは、毎日おうちで朝から晩まで輪ゴムを引っ張って遊んでるらしいよ。
「2回戦! MC.FuKuMimiVSラップ狂人卍!」
2回戦の相手はベテランのラッパーおじさんで、立派な福耳を持ってるタイプのおじさんだ。私を見て、即座にボディタッチなしと連呼して、純粋に言葉と言葉の勝負に持ち込んできた。
失礼な! 私だってルールをちゃんと教えてもらってたら、蹴ったりしないもん!
MC.FuKuMimi VS ラップ狂人卍(顎砕き5段)
リズム ★★★☆☆ リズム ★☆☆☆☆
ラップ ★★★☆☆ ラップ ☆☆☆☆☆
安定感 ★★★★☆ 蹴り技 ★★★★★
先攻は私、つまり作戦はひとつしかない。先手必勝だ!
説明を聞いた感じだとラップバトルというのは、相手に言い換えさせなければいいので、先攻を選べて一撃でノックアウトさせたら絶対に負けないシステムになってる。圧倒的に先攻が有利なのだ。
私はマイクを握りしめて、肺の限界まで大きく深く息を吸い込む。
以前、私を鍛えたシショーが言ってた。
『手足を使えない時は声でパンチするのよ、ミヅキ!』
言い忘れてたけど、シショーは私に鬼のような修行をさせた師匠のことね。環貫3姉妹の長女で、アスリート界では【神様がパラメータ設定ミスったタイプのフィジカルモンスター】って呼ばれてる。首から上はクール系美女、あとはターミネーター。好きな食べ物は家系ラーメン。趣味は素手で猪を狩ること。
「Yo! お前ちょっ
パリンパリンパリンと証明カバーやガラスが割れ、スピーカーは一瞬叫ぶように金切り声を上げて沈黙し、フロアー中のガラの悪い全員が意識が飛んだような顔をして、目の前には鼓膜から血を流して泡を吹いて倒れている福耳のおじさん。
シショーの教え通り、肺活量と声量を鍛え続けた結果はこの通り。見事、音のパンチで相手をダウンさせたってわけ。
ちなみにシショーは私のことを【生まれてくる時代と形を間違えたティラノサウルス】って呼んでるよ。シンプル悪口!
しばらくして、ようやく音が聞こえるようになったサングラスが、さっきみたいな驚愕&戦慄フェイスをしてる。
「暴力はダメだって言ったでしょ!」
「今のは大声出しただけだもん!」
そう、声を出しただけ。ルールに則った上で勝ったの。
「勝者、ラップ狂人卍! 決まり手、鼓膜破壊!」
おじいさんが私の腕を掲げて勝利を告げた。
「ジジイ、勝手に決めないで!」
サングラスがおじいさんを掴んで揺さぶってるけど、とにかく私は無事に2回戦も無傷で突破した。
「へい、マンジ。3回戦は因縁の相手だな。でも今日のおめーなら勝てる、そんな気がしてくるぜ」
控室で軍人が話しかけてくる。どうやら3回戦は心音ちゃんのお兄さんの因縁の相手らしい。つまり私にはなんの因縁もない。
因縁もないし恨みもないけど、そういう相手と聞いたからには何がなんでも勝たなきゃいけない。
ペペポポポン、ペペポポポン、スマホが鳴ってる。あ、心音ちゃんだ。
「はいはーい、ミヅキちゃんですよー。試合見てた? どう? つおいでしょ?」
「見てたよー。お兄ちゃんは泡ふいて倒れてるけど、たぶん大丈夫」
本物のラップ狂人卍は、なんでか知らないけど泡ふいてるらしい。風邪、治ってないんじゃない? 配信見てないで寝てたほうがいいよ。
「あとねー、コメント欄、ヤバいよ。あの女子マジなんなんって、みんな大騒ぎだよー」
「ほんと? かわいいって?」
「えっとねー、卍蹴りがキレイすぎる。蹴りの威力やばい。折れた歯の数、上5本、下10本。次はローキックで決めて欲しい。かかと落とし見たい。胴回し回転蹴りやってくれ。おまえのシャイニングウィザードで白飯3杯食べたい」
「蹴りばっかじゃん!」
みんな私のルックスより蹴りに夢中じゃん。どういうこと?
「3回戦! フロアーのみなさん気をつけろ。今夜も規格外のヤバい奴の登場だ! ゴリラは強い、だったらてめーがゴリラになっちまえばいいんだ! 今日も繰り出すパワーライム。Go! リラー!」
心音ちゃんのお兄さんと同じくらいムッキムキなモヒカン激ヤバ全身タトゥー男が、金属バットを折り曲げ、漫画雑誌を引きちぎりながら登場する。へぇ~、結構強そうじゃん。真ん中のお姉ちゃんと同じくらいかな。
Goリラ VS ラップ狂人卍(美少女音爆弾)
リズム ★★☆☆☆ リズム ★☆☆☆☆
ラップ ★★★★☆ 蹴り技 ★★★★★
パワー ★★★★★ 声量 ★★★★★★★★
「ねえねえ、私もパフォーマンスやりたい!」
「いいけど」
サングラスがちょっと嫌そうに同意してくれたので、配信用のカメラと一緒に駐車場に出て、転がっている土管の前でゆっくりと息を吐く。スマホのスピーカーをオンにして、マイク繋いで、さあ繰り出す心音ちゃんのフリースタイル。
「見てろお前ら(右刻み突き)驚け人類(左中断突き)これが私の(左鉤突き)マイフレンド・ミヅキ!(右膝蹴り)
いじめっ子に(左前蹴り)勝つため山ごもり(右上段蹴り)修行しすぎて(右下段回し蹴り)勉強は無理(右鉤突き)小2から中3まで不登校(左中段肘打ち)だけど強さは不動明王(右かかと落とし)もびっくりのクマゴロシスタイル(胴回し回転蹴り)そういうスタンス(左中段貫手)
高校はスポーツ推薦(右裏拳)強豪も欲しがる奇跡の人材(右上段鉄槌)
ノートに書いた文字よりも(左下段回し蹴り)折ったあばらの数のが多い(右上段飛び膝蹴り)
感謝の巻藁1万回(右上段肘打ち)時間余って殴る回数増えた(左下段熊手)感謝は拳で(左中段掌底)生き様は野武士で(右前蹴り)
少年漫画みたいな修行(右逆手鉄槌)しとくと現実(右中段肘鉄)ばなれしたパワーを会得(右下段踏み抜き)
かれぴの欲しい16歳(左中段かかと蹴り)倒したクマの数16体(右上段鉄砲)
ヤンキー(左手刀逆水平)ヤクザ(右上段突き上げ)半グレ(左中段突き)軍人クズレ(左回転肘打ち)もう人間じゃ相手にならねえ(右飛び膝蹴り)ミヅキの敵はヒグマ(左膝蹴り)虎(右上段手刀)ゴリラ(左下段鉄槌)
今日はゴリラが会場いんじゃん(両手突き)最上級の技ぶち込めるじゃん!(頭突き)」
土管粉砕成功! 粉々に砕けた土管を前で、目を覆うような横ピースして、もう片方の手は握り拳で前に突き出す。
「土管をドッカン、このパワーあかん、助けておかん、でも可愛過ぎて誠に遺憾!」
「Goリラさん、帰りましたー」
え? 帰った? なんで? おしっこもらした? じゃあ、しゃーねーか。
「勝者、ラップ狂人卍! 決まり手、失禁失神目覚めて退勤!」
おじいさんが私を肩車して勝利を讃える。
「お願いだからラップバトルやってください!」
なんでかわかんないけど、サングラスが半泣きで土下座してた。
改めてミヅキちゃんと学ぶラップバトルのルール
1.使っていいのはラップだけだよ!
2.でも怪我しない程度のボディタッチはアリだよ!
3.110デシベル(自動車のクラクション)以上の音量はダメだよ!
4.お願いだからこれ以上お店を壊さないでね!
ということなんだって。だったら最初から言ってよね!
ペペポポポン、ペペポポポン。ふんがーって憤慨しながら、味がめちゃくちゃ濃いお弁当を食べてると、心音ちゃんからの電話でスマホが鳴る。
「ヘイヘイ、ミヅキー。お兄ちゃんが、ちょっと伝えたいことがあるんだってー」
「はいはーい。本物マンジさん、なんすかー?」
「繝溘ュ繧ュ縺。繧?s縲??シ縺ソ縺後≠繧九?よャ。縺ョ逶ク謇九?菫コ縺ョ諞ァ繧後?繝ゥ繝?ヱ繝シ縺ェ繧薙□縲りイ?縺代※繧ゅ>縺??ゆソコ縺ョ鬘斐↓豕・繧貞。励▲縺ヲ繧ゅ>縺??ゅΛ繝??縺ァ蜍晁イ?縺励※縺上l縲」
(※ミヅキちゃん、頼みがある。次の相手は俺の憧れのラッパーなんだ。負けてもいい。俺の顔に泥を塗ってもいい。ラップで勝負してくれ)
なるほど、喉ガッラガラでまったくわかんない。
でもきっと、頑張れ、必ず勝て、結婚を前提に付き合ってくれ、って言ってると思う。気持ちはありがたいけど、ちょっと筋線維太すぎるからお断りします!
「気持ちは受け取れないけど、相手の首、引っこ抜いて戻るから!」
こうして私は、意気揚々と最後の試合に臨んだのだ。
フロアー中に響き渡る大歓声をかき分けて、ステージにふわりと降り立つと、そこには逆ケンタウロスともいうべき、異常に毛量の多い髪を馬の頭のように固めて、あごひげを胸元まで伸ばした、全裸に赤ふんどしの森の住民スタイルな男が待ち構えていた。
「誰っすか?」
「誰ってメメント・モリだよ。ラッパー界隈ではアメリカ大統領よりも有名だぜ」
まったく知らない。アメリカ大統領も知らないけど。
「ラップ狂人卍、まずは3連勝おめでとう。しかし、今日のお前からはラッパーの魂を感じない。というより、今日1回もラップをやってない。さてはお前、偽物だな」
3回戦までの反応のよさのあまり急遽ステージ上に設置されたモニターでは、ナンダッテー!? ソンナバカナー! ウソダァー! と配信を見ているリスナーのコメントが次々と流れている。
私はそっと銀行強盗が被るタイプのマスクの赤色を被ると、モニターを、ホンモノジャネーカ! フザケテンノカ! 森に帰れ馬男! といったコメントたちが流れていく。
「え? 本物なのか?」
偽物であってます。間違ってるのはあなた以外全員です。
だけど、ここまで来て偽物ですなんて言えないので、堂々と胸を張って本物アピールをしておく。
「本物だ!」
ホラナー! ミテワカンダロ! ナメテンノカ! モニター黙ってて、超うるさい。
「そんなことより、さっさと勝負しようよ。さっきのお弁当、ちょっと物足りなかったんだよね」
「よかろう。本物のラッパーの強さ、お見せしよう」
メメント・モリ VS ラップ狂人卍(土管クラッシャー)
リズム ★★★★☆ 蹴り技 ★★★★★
ラップ ★★★★★ 声量 ★★★★★★★★
勝率 ★★★★★ パワー ★★★★★★★★★★★★★★★
「先攻はメメント・モリ。ボディタッチなし、8小節3本勝負! レディ、ファイッ!」
メメントがマイクをゆっくりと顎の前に近づけ、
「まず最初に言っておく。俺に勝てると思わない方がいい。ラッパーも俺のレベルになると、言葉を交わさなくても勝敗が決まる。お前は格闘技をやってるからわかるだろう。真の達人は寸止めでも勝敗がつくように、真のラッパーは相手をディスる必要すらないのだ」
なんかすごいそれっぽい、説得力があるんだかないんだかな御託を並べてる。
「だから、俺には3本勝負は不要。すべての勝負は俺のターンで決まる」
え? そうなの? って顔をサングラスに向けると、
「メメント・モリがバトった時は、相手がラッパーとしての格の違いを思い知らされて体調を崩したり、言葉が出なくくなって負けてる! 果たして、今回もそうなるのか!? では、改めてレディ、ファイッ!」
メメントが静かに息を吐き、マイクをゆっくりと口の前に運び、
「出でよ蟲よ、九匹の仔虫たちよ、骨髄から骨へ、骨から肉へと、肉から皮へ、皮からこの矢へと」
なんか気持ち悪い呪文を呟き始めた。うわーん、虫とか嫌い。単語だけで、もうやだー。
「どうだ、頭が重く気分が悪くなったんじゃないか? 無理せず倒れても構わないが?」
全然そんなことないよ。むしろ体調は絶好調だけど?
「無理することはないぞ。立っているのもやっとのはずだ」
「あのさあ」
「平気な顔をしているが、今にも気を失うほどキツイはずだ。どうだ?」
「もしかしてお前、毒盛った?」
メメントがゆっくりと目を逸らす。 メメント・モリのモリって、薬を盛るの盛りだったみたい。
ちなみに私に毒は効かない。シショーに毒キノコを食べさせられ続けた結果、毒を含む部分だけ口の中で集めて、ぺぇーって吐き出すことが出来るようになったから。
「え? ほんとに効いてない? なぜに?」
メメントの両目が、動揺し過ぎて、風に吹かれたタオルぐらい揺れてる。
このまま殴り倒してもいいと思うけど、今日はラップバトルの日なので、純粋にラップの技で地獄に落とそう。
ジャージの腰のところに仕込んでおいたサランラップを取り出し、指でつまんでビィーっと広げて、足から腰、腰から肩、肩から腕の順に連動させて、腕力と脚力と勢いと、あと怒りと情熱とラップ魂を乗せて、メメントの顔面めがけて放り投げる。
ラップはビシャァと、鞭で打ったような音を立ててメメントの顔面を捉え、その勢いのまま顔の皮膚を引っ張り、ぐるりと何回転もして、獲物をしとめる蛇のように巻きつく。
「これがラッパーの戦い方だ!」
「違うから! なにやってんの!?」
サングラスが間髪入れずに叫ぶ中、メメントはラップと巻き込んだ髪の毛で顔の厚みが2倍ほどに膨れ上がり、バタバタと手足を動かして、やがてピタリと動きを止めた。
「勝者、ラップ狂人卍! 決まり手、ラップによる窒息!」
おじいさんとお客さんたちが、輪になって胴上げをしながらバンザーイと連呼している。
こうしてラップ狂人卍こと心音ちゃんのお兄さん、の代わりに出場した私は、ラップ界の頂点に君臨したのだった。
Hey,Yo! 私、環貫ミヅキ、高校1年生!
この間の一件で世間に強さを気付かれちゃって、ラップバトルの前に【ミヅキちゃんのパンチ・ウィズ・16オンス~倒れなかったら本日無料~】ってショーをやったり、ケンカが始まったら取り押さえたり、いまいち盛り上がらなかったらコンクリブロックを叩き割ったり、そんなゴリラがやりそうなバイトをするため、今日もバッドな奴らの集会所【豚キック】にきてるよ、いぇーい! 帰りたーい! 制服のかわいいカフェでバイトしたーい!
以上、今からバイトに出勤! その場の空気でへし折る鉄筋! でも働くの嫌いだからファッキン!
ちなみに心音ちゃんのお兄さんは思うところあってラッパーは引退して、今は池袋少年合唱団でバックコーラスをしていまーす。
ハッピーハニーシュガードーナツ
ドーナツの穴はどうして開いているんだろう?
ドーナツショップの店員の女、佐藤一花はトレイに積み上げたドーナツを眺めながら、今日もそんなことを考えている。
穴が開いていればどこかに引っ掛けて、いつでも食べれるように出来るから。油で揚げる時に火が通りやすいから。いくつかの説を耳にしたが、どれも佐藤を納得させる力はなかった。
ただ、そんな疑問とは関係なく、今日もドーナツは揚がっていくし、幸せそうな客を見ているとテンションは下がっていく。
もしドーナツの真ん中にあったものが不要で、それが理由に穴が開いているとしたら、佐藤の目の前にいる客は彼女からすればドーナツだ。世の中に必要とされているし、なんていうか世の中を回している。その回すものは経済だったり愛だったりする。やがて子どもを作ったりして未来を回していくかもしれない。
一方で自分は穴の部分だ、佐藤はそう考えていた。それもただの穴じゃない。ドーナツ生地から型抜きされ、その型抜かれた部分をさらに引き延ばし、さらに型抜き、それを繰り返し繰り返し最後に型抜きされたどうしようもない余りの部分、それが自分だと。
どうしてそんな考えに至ったのかはわからないが、世の中はそういう人間が必ず生まれるようになっている。成績が一番悪かったり、好きな相手に恋人として選ばれなかったり、そもそも誰かに必要とされなかったり、生まれながらに不幸に沈んでしまっていたり、理由は大小様々な世の中から必然的にあぶれてしまう存在、それがドーナツの穴だ。そう考えていた。
「ありがとうございましたー」
そんなことを考えながらも働いて頭を下げて、せめて世の中を回しているふりをしながら生きている。世の中を回せなくなったら別の意味の仏になるか、文字通りの意味のテロリストになるか、そのどちらかしか選択肢がないだろう。そのどちらも選んでないだけでも立派かもしれない。
それがたとえ、バイト先が今にも潰れそうなドーナツショップだとしてもだ。
「おつかれさまでしたー」
ドーナツショップが閉店した。仕方ない、道を挟んで反対側に某有名大手ドーナツショップが出来たのだ。
従業員のほとんどが、その某有名大手ドーナツショップに雇われ、店長とバイト数名は本社の工場に飛ばされた。
取り残されたのは佐藤だけだった。
「これからどうしよう……」
仕事もない、金もない、当然先立つものもない、友達もいない、恋人もいない、何かあるかと問われれば日々の支払いだけがある。
そういう状況の人間は珍しくもないかもしれないが、それは眺める余裕のある側の意見であり、佐藤をはじめとしたドーナツの余りの部分の人間には、そんなことを考える余裕などないのである。
もし何か考えれるとしたら、失うもののないような、いわゆる無敵の人となって世界への復讐を果たすか、或いは、あえて何もかも失うものとなって自分の人生への復讐を果たすか、このどちらかなのだ。
結局のところ、どちらも自分への復讐であるのだが、佐藤が選んだのは、
「死のう」
自分の人生への復讐であった。
かくして佐藤は人生への復讐を果たす。
自らぽっかりと穴をあけて、世界という巨大なドーナツの穴になろうと試みたのだ。
そうと決めてからの佐藤は素早かった。今まで何もうまくいかなかった辛酸を舐めつくしたような人生で、唯一自分の意志でどうにか出来そうな目標が現れた。それはまさに初めて味わう蜜のような甘味を感じさせるもので、
「これでよし」
他人から見れば頭のおかしいことですら、背中を強く押してしまう力のようなものがあった。
佐藤が準備したのは壁から壁まで天上を這うように伸びた突っ張り棒、これは元々物干し代わりに使っていたものだ。次に楕円を描くように先端を結ばれたタオル、これも普段から使っているものだ。それからビデオカメラ、これは中古の1万円ほどのものを買った。椅子とテーブル、カメラのついでに適当な折り畳みのものを同じく中古で買った。
最後に晩餐、バイト先が潰れた時に貰って、そのまま冷凍庫に放り込んでいたドーナツが4つ。
「えー、はじめまして、佐藤一花です。佐藤はよくある苗字の佐藤、一花は数字の一と簡単なほうの花です。先週までドーナツ屋で働いてて、その前はコンビニ、その前は工場で野菜を切ってました。高校は10年前に中退しました。3年生まで行ったけど、成績が悪くて留年になったからです。中学の時はバレー部にいました。補欠だから試合には出てません。友達は1人も出来なかったです、たぶん馬鹿だからだと思います。あと学校では虐められてたんで、私以外の人間は全員クソだと思ってます。親はドブにはまって死にました。嘘です、生きてます。でも嫌いだから会いたくないです。最初はせっかく死ぬなら首都高に飛び込んでハッピーバースデーって叫ぼうかと思ってたんですけど、ふつーに迷惑だから黙って死ぬことにしました。ゴミみたいなもんだから、他人に迷惑かけるとか最低じゃないですか。だから小学生襲うとかそういうこともしません。やり残したことはいっぱいあるけど、どうせなんにも出来ないと思うんで、もうどーでもいいです。1回くらいセックスしてもよかったなーってちょっとだけ思ったけど、そういうことしたら死ねなくなると思うんでやっぱりいいです。死にたいか死にたくないかでいえば、正直言うと死にたくないけど、でもこのまま生きててもしょうがないし、なんか毎年3万人くらい死んでるって聞いたんで、1億人と3万人のどっちかだったら少ない方がまだいいかなーって思ったのと、あとやっぱりこの先ずーっとこんな人生が続くの嫌じゃないですか。あとなにか喋ったほうがいいんですかね? こういう時になに言えばいいか知らないし、あんまり長いと見つけた人が醒めるんで、この辺でやめとこうと思います。えー、最後に、私の死体を見つけた人、腐るまで放置されてても私のせいじゃないんで、その時はアパートの管理人とか恨んでください。あー、あとはもうないです。以上です」
つらつらと喋るだけ喋って、パサパサになったドーナツを一口だけ齧り、椅子にのぼり、吊るされたタオルを掴み、
「やっぱ怖いな……」
佐藤は自分の頭をタオルの真ん中の穴に突っ込んだ。
あとはタオルから手を放して、椅子を倒すだけ。そこでやめようと思えばやめられる、けれど佐藤にその選択肢は残されていなかった。
椅子を勢いまかせに後ろへと蹴り、そのまま全体重をタオルに預ける。
自殺という、とてもじゃないが抗いきれない甘い甘い蜜の味の前では、人間は成す術もなく死を選んでしまう。
他人から見たら不気味であろう輪っかになって吊るされたタオルは、絶望したものには蜂蜜がたっぷりかかった甘いドーナツのように見えたのだろう。
「ハッピーハニーシュガーワールドにようこそ!」
素っ頓狂な高い声が頭の奥の方から聞こえた気がした。
佐藤が瞼を上げると、珍妙きわまりない景色が眼前に広がっていた。地面はカーペットのようにべったりとハチミツが敷き詰められ、ハチミツの大地からは飴細工で出来た色とりどりの巨大な樹木が天高くそびえ、綿菓子の雲からはガムシロップが降り注ぎ、頭がドーナツになった素っ裸の人間が瓶に入ったメープルシロップを素手で掬っては穴の部分でねぶり倒している。
そうか、自分はいよいよ頭がおかしくなったのか。佐藤がそう思うのも仕方ない。
なんだこれは? そう思うのも不思議ではない世界が突然現れたのだ。
「チガウヨ、ここはテンゴクだよ」
ドーナツ人間のひとりが奇妙な線を描くように、頭を真横に垂直に地面に向けて降ろし、地面スレスレから斜め上に向けて身体の軸を4分の1回転させながら頭を上に振り上げ、その間全身の骨という骨がぐにゃぐにゃになったかのように全身をバタバタさせながら振り向く。物理演算パズルゲームでぐにゃぐにゃした人間を無理やり動かしている感じに近いのだろうか。とにかく奇妙な動きだ。
「ここはテンゴクだよ、ゲンミツにはハッピーハニーシュガーワールドだよ、ミツダケニネ! ハハハッ!」
振り向いたドーナツ人間の穴の部分から、どこかで聞き覚えのある、具体的に言ってしまうと名前を出してはいけない夢の国の住人のような素っ頓狂な高い声が、どういう原理かわからないがドーナツの穴から流れてくる。
「天国? こんなふざけた世界が天国なの?」
「キミもドーナツニンゲンになろうよ! ハハッ!」
佐藤の周りに老若男女さまざまなドーナツ人間が集まり、両手とドーナツの穴を上に掲げ、左右の足を交互にバッタバッタと動かしながら、空に向かってベントラーと叫び始める。すると綿菓子の雲が裂けるように割れ、巨大なドーナツがゆっくりと佐藤に向かって降りてくるではないか。
「キミもドーナツニンゲンになろうよ!」
佐藤はドーナツ人間たちと頭上のドーナツに向かて何度も視線を動かしながら、絶対にこんな生き物になりたくない、本能的にそう思ったのだ。
何故かわからないけどドーナツ人間の仲間入りをしたくない。こんなわけのわからない世界に仲間入りしたくない。そう思ったのだ。
「嫌だ」
「ナンデ?」
「なんでって言われても、なんか気持ち悪いし」
拒絶されたドーナツ人間たちは自らの穴の中に手を伸ばし、それまでの、カテゴライズするならメルヘン、それまでのメルヘンな世界から発するとは思えない類の、耳をつんざくような音を響かせながら鋸だのハンマーだのナイフだと取り出していく。
「ジサツしたニンゲンにキョヒケンはナイよ!」
「ミズカラのケンリをホウキしたからね!」
「だからキミもドーナツニンゲンになるんだ!」
「ダイジョウブ! アタマをトリカエルだけだから!」
「カオヲタベラレルマンとおなじシステムだから!」
次々に佐藤に向かって叫びながら、ドーナツ人間たちは手に持った凶悪な鈍器や刃を振り下ろしていったのだ。
ハゲタカのように一点に群がっていたドーナツ人間が離れると、そこには全身の骨という骨を砕かれ、ぐにゃぐにゃになった佐藤が転がっていた。
頭と首から下は数10センチほどの距離にそれぞれ転がり、頭はドーナツ人間のひとりに無造作につかまれ、サッカーボールのように遠くへと蹴り出された。
首から下はピンク色のチョコがかけられたドーナツと接続され、ゆっくりと全身をぐにゃぐにゃ揺らしながら立ち上がり、両手をバタバタと振り回しながらこう叫んだのである。
「ボクもドーナツニンゲンになったよ! ハハッ!」
その様子を佐藤だった頭と、同じくかつてはそれぞれ人間だった無数の頭たちが眺めている。
佐藤と頭たちの目から、静かに涙が流れた。おそらくこの奇妙な世界で唯一しょっぱい液体が。
首が痛い。
佐藤が強烈な痛みに耐えかねて目を開くと、そこは真っ白い天井と白衣を着た男と、看護師らしき女だった。
「佐藤さん、ここがどこかわかりますか?」
「……病院?」
「そうです。二度と自殺なんてしてはいけませんよ」
佐藤は自殺に失敗した、あるいは生還に成功したというべきか。
首を吊った直後、元々大して強度の無かった安物の突っ張り棒が重さに耐えかねて折れ曲がり、首を強く痛めたものの絶命には至らずに済んだ。あるいは絶命に至れなかったというべきか。
とにかく佐藤は生き残った。
しばらくの入院の後、佐藤は久しぶりの自宅に戻った。
自宅は散らかったまま、椅子は転がり、天井に這わせていた突っ張り棒は大きく歪んで床に転がり、その床からは鼻を突くような臭いがしている。テーブルの上のドーナツには虫がたかっている。
本来転がっているはずだったものは、直立した姿勢で床の染みを見下ろしている。
佐藤は生還したのである。してしまったのである。
死ぬ気になれば何でもできる、そんな無神経な言葉も世間にはなくはないが、それは大きな間違いだ。
死ぬ気になるような人間が何でもできるわけがない。死ぬ気になってできることは死ぬことだけなのだ。
そして死ぬ気になって死のうとした人間が死ねなかった場合、そこに残るのは死ぬことさえ出来なかった絶望だけなのだ。
佐藤は無感情な表情で部屋を片付け、床を拭き、顔を洗って鏡を見ると、そこに映っていたのは、飽きるほど見慣れた女の顔ではなく、ドーナツの頭をしている奇妙な生き物だった。
「……ボクもドーナツニンゲンになったよ、ハハッ」
佐藤は弾かれたようにベランダめがけて走り、手すりを乗り越えて、飛んだ。
ランプ・サーロイン・リブロース
「最後の晩餐ってあるじゃん。あれ、なに食べたい?」
そう言い出したのは、同じクラスの友達であるところのあんこちゃん。美人で背も高い。髪も長くてさらさらで、成績もいいし運動も出来る。誰も別に嫌ってないけど、なぜか友達がいない。
あんこちゃんはいつもひとりでぼーっと外を眺めながら過ごしてて、不思議と私にだけは積極的に話しかけてくる。なんかそういうとこ猫っぽい。ちやほやされても見向きもしない女王様、みたいな猫、みたいな子。
「さっちゃん、聞いてる?」
「聞いてるよ。病気の人が死ぬ間際に、みたいなやつでしょ」
「ん? ちょっと違うよー」
あんこちゃんは黒板に3種類の絵を描き始め、ひとつは牢屋っぽい場所にいる人の絵、ひとつは銃を突き付けられた人の絵、最後のひとつは首を吊った人の絵。なるほど三者三様の最期の姿だ。
「つまり嫌な気持ちで死ぬときの最期ってこと?」
「さすがさっちゃん、ちょっと違うけどそういうこと。で、なに食べたい?」
「えー、病気だったら現実的にうどんとかだけど、せめてちょっとでも楽しい気持ちで死にたいからパフェとかかなあ」
いや、でもカレーとかピザかもしれない。とにかく好きなものを食べたいのは変わらないけど。
結構難しい質問してくる。そもそも食べる余裕とかあるのかな、その後で殺されるのに。
けど、あえて聞いてくるってことは、あんこちゃんは答えがあるんだろうな。
「あんこちゃんは?」
「私はねえ、今まで食べたことのないものを食べたいんだよね」
へぇー。考えもしなかたった、というか知らない味を最後に選ぶのは、ちょっとやだなぁ。だってそれがすごいまずかったら最低最悪じゃん。そこにチャレンジ精神いらないよ。
「ということで、焼肉屋いこーぜ」
いつの間にか鞄を背負ったあんこちゃんが、親指を立てて機嫌よさそうに前後に振っている。
「お金は?」
「ふふーん、私にまかせたまえ」
親指を立てたまま人差し指と中指を前に突き出し、指の間に挟んだ一万円札を見せつけてきた。ちょっと待って、それ使ってもいいお金なの? 合法? 大丈夫なやつ?
「大丈夫だよ、バイト代だから」
バイトなんかしてたっけ?
ちょっと新しい疑問が出てきちゃったけど、あんこちゃんが結構急ぎめで行こうって急かすから、しょうがなく焼肉屋に行ったのだ。
しょうがなくだよ。お肉につられたわけじゃないよ。
「それで、あんこちゃんは何が食べたいの?」
タン塩、味噌タン、カルビ、ロース、ハラミ、ホルモン、ミノ、レバー、どれもおいしそうだな。もうあんこちゃんの話とかマジどーでもいいやって気持ちになっちゃう。お肉最強、友情を超えちゃうものがあるよね。
「さっちゃん、この世で最も高い肉って知ってる?」
「よく知らないけど、松阪牛じゃないの?」
タン塩をガンガン焼いていく。焼き肉のスタートはタン塩がセオリーだけど、私はカルビの間に口なおしタン塩キメちゃってもいい、そんな法律作ってもいい、それくらいアリ。タン塩おいしい、大正義。
「この前ネットで調べたら、牛の餌代って年間30万円くらいだったのね」
「高いのか安いのかわかんないねー」
味噌タン、やーばい。タンと味噌、相性神じゃん。ごはん何杯でもいけるやつじゃん。無敵か?
「だから牛より食費が高かったら、それはもう牛より高いお肉ってことでしょ?」
「食費ベースで考えたわけね」
カルビとロースとハラミ、どれが一番おいしいか決めろって言われたら悩むけど、私は僅差でハラミだな。あんこちゃんはロースがいいって言ってた。ロースも美味しいよね、牛って全身神だな。ヒンズー教徒の気持ちわかるわ。神過ぎて食べれないんだよね。わかる。
「そう考えたら牛よりも人間のほうが高いでしょ? だから最後の晩餐には、人間を食べてみたいの」
「もうちょっと空気読んでよ」
一気に食欲なくなっちゃったよ。さっきまであんなに一心同体だったのに、もう食欲とは熟年離婚したくらいの距離感。まだ中学生だから結婚も離婚もわかんないけど。
「でも、ちょっと問題があってね。人間って雑食でしょ。雑食の動物のお肉は臭いらしいの。かといって野菜しか食べてないヴィーガンって、どいつもこいつも見た目からして不健康だから味には期待できないわけ。やっぱりおいしさの秘訣はお肉、でも臭みは少ないほうがいい。要はバランスだと思うの」
あんこちゃんの目の前からホルモンがどんどん消えていく。ホルモンは美味しいよ、でも人間食べる話されたらホルモンちょっと無理じゃん。あんこちゃん、そういうとこよ。そういうとこ治した方がいいよ。
「だから、さっちゃん明日から野菜9:お肉1の生活にしてもらっていい?」
「おぉん?」
…おぉん? なに言ってんの、この子は?
野菜炒め肉抜き! 手作り餃子肉少なめ! 麻婆豆腐肉なし! 肉なし豆腐代用キーマカレー! 肉抜き肉じゃが!
たまにケンタッキーのチキン~!
肉なし焼きそば! 肉うどん肉少なめ! 肉巻きおにぎり肉なしタレのみ!
なんだよ、これ! 私は試合前ボクサーじゃねーんだぞ!
で、なんで私もわけわかんないまま野菜9:お肉1生活しちゃってんのさ!? わけわかんない!
やっべ、お肉足りない。お肉メインでいいじゃん、なんだよ9:1って。
人生とか世の中とか、そういうものを全部まるっと呪いたくなるような気分で歩いてる。
お肉って人を幸せにする栄養素が入ってたんだね。それに比べて野菜とか馬鹿じゃないの、いやおいしいけどさ! おいしいけど、おいしければいいってもんじゃないだろが!
足取りが重い、体がだるい、なんかパワーが足りてない。パワー出ない!
ぜぇぜぇ息を切らせながら歩いて歩いて、ようやく待ち合わせ場所に辿り着いたら、あんこちゃんが腕組み仁王立ちで待ち構えてた。
「遅い」
「遅くない! これでも全速で歩いてきたもん!」
お肉を抜くとスピードも落ちる。人生を落ちるスピードは爆上がりしそうだけど、歩くスピードは確実に落ちる。
隣町のちょっと山の方にある廃墟まで、いつもの倍かかった。つまりスピード半分のデバフ。マジもうやだ。
「で、今日は何するの? こんなとこで?」
「さっちゃんが2週間お野菜生活してる間、私は一番おいしいお肉の部位を考えてたのね」
はぁ、そっすか。お肉不足で話がなんにも入ってこない。唐揚げなら無限に入ってきそうだけど。
「サーロインって腰のちょい上なのね、そこは筋が入りにくくて柔らかいらしいの。その上がリブロース、ここもおいしい。下の腰からおしりにかけてのお肉がランプ。これもおいしいお肉の部位。この辺り狙いなんだけど、さっちゃんちゃんと聞いてる?」
あー、サーロインステーキいいなー。リブロースもいいなー! 今ならに肉だけで白ごはん3杯いける気がする!
肉、ライス、ライス! 肉、ライス、ライス! 肉、ライス、肉! このローテで食べたい。むしろ、しばらく野菜いらない!
「しばらく野菜いらない!」
「さすがさっちゃん、完璧に仕上がってるね。じゃあ、ちょっと食べてみていい?」
「おぉん?」
…おぉん、文字にして3文字、たったの3文字。しかも何の意味もない3文字。雑魚キャラのやられゼリフ以下の3文字。
まさかそれが最期の言葉になるなんて、私は思ってもみなかった。
なんとなく高校に行って、経済的に余裕はあるから大学も行って、それでそこそこの会社で事務員でもやって、そこで出会った年上のちょっとかっこいい人と結婚して、子どもも1人か2人出来て、いちおう孫も出来て、最後は老人ホームかなんかに入って、そういう平凡だけど幸せな人生を送って、最後柔らかめのうどんを食べる。そういうのだと思ってた。
まさか頭を割られて死ぬなんて想像もしなかった。
中学に入った時から決めてた。決めてたっていうか決まった、のほうが正しいと思う。
植野幸子、ウエノサチコ、さっちゃん。同じだけど読み方が違う名前、明るくてかわいくて感情豊かで素直、いつまでも見ていられるし、いつまでだって近くにいて欲しい。クラスの他の子たちには興味がわかなかったけど、さっちゃんだけは最初から別だった。キラキラしてた。
中3になってすぐのある日、さっちゃんから好きな男の子が出来たって相談された。雄鶏と雌鶏は肉になるのは基本的に雄鶏だから、試しにちょっと食べてみた。奴に興味があった。奴そのものには興味ないけど、さっちゃんが好きになる相手ってどんなのだろうって思ったの。
味? まずかったよ。
臭いし、なんか酸っぱいし、その時に雑食性の動物はあんまりおいしくないって話を思い出したの。
部位も悪かったのかもしれない。あんまり牛で聞いたことない部位だったから、次は有名な部位にしようって決めたのもその時だった。
「カシワギくん、行方不明になったね」
「付き合ったりしてなくてよかったかも! だって何かに巻き込まれてたかもしれないじゃん!」
「さすがさっちゃん、スーパーポジティブガールだね」
「なにその居酒屋ハイパーマックスジャパンみたいな褒め方」
中学卒業したらさっちゃんは高校に進学するけど、私は行くつもりなかったから離れ離れになる。それって人生終わりでしょ? だから最後に食べてみたいものを考えてた。食べたことないものはいっぱいあるよ。熊肉とかウサギとかイノシシとかフグとか伊勢海老とかドリアンとか。
でも最後に食べたいかって聞かれたら、それはちょっと違うよね。
だって最後に食べるものがハズレ味だったら嫌でしょ。だからハズレ味でもいいやって思えるものを食べようって決めた。
心から好きな相手なら、仮にまずかったとしても許せるし、おいしいって思いこんじゃうかもしれない。
もしほんとにそうだったら、それって究極の愛だよね。
「あんこちゃん、高校どこにするの?」
「いやー、あんまり行く気ないんだよね」
「えー、一緒のとこ行こうよ!」
「…いいけど、さっちゃん、私よりだいぶ馬鹿だけど大丈夫?」
「バカじゃないもん! 本気出せば超できるから!」
そんなことで笑い合いながら私たちは高校受験を終えたりした。さっちゃんと同じ高校を受けたから、すごく喜んでた。
私もすごく嬉しかった。実はこいつうざい、とか思われてたら悲しいから。まあ行かないんだけどね、お金ないし。なんとかなるのかもしれないけど、そこまでの意欲とかないし。皆勤賞狙ったりもしたけど、学校あんまり好きじゃないし。
そんなこんなで卒業を迎え、ようやく3年近い秘めた思いを成就させるタイミングがきた。
「だから、さっちゃん明日から野菜9:お肉1の生活にしてもらっていい?」
「おぉん?」
そしてさっちゃんはわけわかんないって言いたげな顔で、わけのわかってないまま仕上がった。
今までのさっちゃんがノーマルさっちゃんだとしたら、野菜中心生活で肉から臭みが抜けたはずのさっちゃんはパーフェクトさっちゃんと呼んでも差し支えない。
「やっば、マジうまい」
ちなみに今食べたのは和牛のリブロースステーキだ。お金なくなったけど思い切って奮発してみた。
最後の晩餐? 別に死ぬわけでもないし、なんだったらこれからも生きるし。
最後なんて何度でも来る、何回も最後だって思っても、翌日には太陽昇っておなかが減る。それに最後の晩餐が選べるわけがないでしょ、最後の晩餐なんて死ぬときに、あれが最後の晩餐だったんだってふり返って気が付く。そういうもんだよ。
申し遅れたね、私は安藤幸子。アンドウユキコ、幸せな子と書いてユキコ。他人からはあんこって呼ばれてる。
家はドブみたいなとこだし、父親と母親はどこかに行っちゃった。行っちゃったって言うと嘘になるけど、遠くに行ったのは間違いないし、この世のどこよりも遠い場所にいるから2度と会うこともない。
多分これからも特にいいこともなく生きて、たまに楽しいことが起きて、最後はてきとーなところで死ぬと思う。
明日はパンにするかライスにするか、そんなことを日々考えながら。
「痛い! なにこれ、いったぁ!」
鞄にありったけの荷物を詰め込んで、今から逃げようと腰を上げたところで、さっちゃんが目を覚ました。
「なにこれ、血も出てるし! 痛い!」
「さっちゃん、私ちょっと今から逃げるから。ばいばい」
「待て! 私の頭殴ったでしょ!」
頭に一撃されてるのに元気だな。やっぱりさっちゃんは最高だ。最高過ぎて、このままだと離れられなくなっちゃう。それはそれで構わないけど、そしたら警察のお世話になるし、カシワギのこととか親のこととか他にももっと詳しく調べられるかもしれない。それで一生精神病院? 冗談じゃない。いくらさっちゃんでも、そこまでして添い遂げるつもりはない。私の自由は私のものだ、私は私だ。
だから、私は逃げた。
「待って! なんでこんなことしたの!?」
さっちゃんが遠くで喚き続けてる声が聞こえる。
やっぱり一口くらい食べてみればよかったな、でも食べたらこれからの食べ物、全部ゴミになるわけ。ゴミじゃないけど、価値は下がるから。
もしそれが最後の晩餐だって気づいたら、どこかで後悔しそうだから。やっぱり食べておけばよかったなー、そういうくらいがいいと思う、ほんとうに食べてみたいものって。
「またね、さっちゃん!」
変なテンションで自分に酔ってる。うわ、きもっ、絶対これ数年後に恥ずかしくなるやつだ。
あんこちゃんが逃げた。
あれから家に帰って病院に行って、なんか思いのほかヤバい怪我だったから手術して、看護師のお姉さんと仲良くなって、おとーさんとおかーさんが異常に心配するようになって、高校には少し遅れて通うことになった。
護身術とか必要だなって思ったから、空手を始めたら軽量級県大会1位になった。なんか強くなることに興味が出たから、流れで柔道と合気道もかじったりした。地元の大学に通って、そのまま全国ベスト3になったけど、身長が1ミリも伸びなかったから、最強コロボックル先輩なんて不名誉な仇名がついたりしてる。
「頭開いて謎パワーアップするって漫画じゃないんだから」
「私が漫画だったら、おめーは厨二病ホラー小説だよ」
数年ぶりに目の前にあんこちゃんがいる。今朝いきなり飯いこーぜって連絡がきた時は、おいおいマジかって思ったけど、こうやって目の前にいると、やっぱりおいおいマジかって思うよね。
おいおいマジか、こいつ私の頭割ったんだよ。よくこんな気楽な感じで堂々と会えるな。バカじゃねえの。
「ねえ、あんこちゃん」
「なに?」
「ちょっと1回蹴らせてもらってもいい?」
それはそうだ、頭を割られたのを何もなしに帳消しになると思われたら困る。こいつが友達の感じで来るんだったら、やり返さないと元の関係には戻れない。そういう理屈。
まあ、やり返したところで元の関係とか戻るわけないんだけど。
「嫌だよ。いきなりそんなこと言う人、普通だったら絶交されるよ」
「おめーはいきなり頭割ってきたじゃん」
「まあまあ、お肉でも食べて落ち着いて」
目の前にでっかいお肉が差し出される。仕方ない、肉に免じて許してやろう。だって、お肉は大正義だからな!
って、そんなわけあるかー!
私はゆっくりと椅子から立ちあがり、素早く床を蹴って飛びあがった。
占い師・蛇増子屋珠子の迷推理
「なるほど、いわゆる密室殺人ですね」
ベッドの上に放置された首なし死体と豪華な調度品が置かれた部屋を交互に見回しながら、私は人差し指をピンと立てる。
鍵のかかった上にチェーンロックも外れていなかったドア、さらにチェーンには、少し離れた位置にある大型のキャリーバッグに結ばれた防犯ブザーのピンまで、張り詰めた形でワイヤーが括られていた。
ホテルの地上18階、窓はかろうじて成人女性が頭を出せるか否かの幅しか開かない。エアコンと天井はぴっちりとくっついて開けられた形跡はない。壁も血痕が飛び散っている以外は特に穴が開けられたような箇所もない。天井や床にも不自然な痕跡などはない。バスタブには水が張られているが、溢れた様子もないのでここから侵入した形跡はない。
つまり私たちがマスターキーで鍵を解除し、チェーンロックを外し、ワイヤーが引っ張られてキャリーバッグが倒れて、防犯ブザーが鳴るまで、この部屋は紛れもない密室だったのだ。
そして事件は密室で起きたのである。
話は1時間ほど前に遡る。
私は千里眼の持ち主と詐称して占い師を生業にしているのだけど、先ほど今年の初めに占いをした男が殺されたと連絡がきた。
限りなくブラックに近いグレーな貸金業者、債務者が破産してでも追い込み尻の毛まで毟り取ることで有名な銭金キャッシングの会長、銭金五三男65歳故人、ゼニカネゴミオ65歳故人。
実に素晴らしい名前だ、きっと反吐が出そうなほど最悪な人間だったに違いない。
私はこめかみを指で何度か叩きながら、半年ほど前の記憶を探ってみる。
ひどく太った上に人相の悪い、どう贔屓目に見ても堅気であるわけがない顔の老人だ。あと異常に口が臭い。甘ったるい出来損ないのガムシロップみたいな臭いがしていた。
確か女難の相が出ているから女性関係に気をつける、そこさえ気をつければ30年は余裕で生きる、そんな感じのことを伝えたはず。もちろん何の根拠もないけど。死んでるし。
その銭金五三男が殺された。ホテルの中庭を挟んで反対側の部屋から、側近の張さんが惨殺された彼の遺体を発見したらしい。
それも首のない惨殺死体。
そして何故か警察に通報せず、銭金五三男と関わりのあった人間に連絡を取り、どういうわけか私も呼び出されたわけだ。
ホテルのロビーに20名ほどの男女年齢雑多に集められた集団、もうひとつ10名ほどの見た目の優れた女性たちの集団、集団に声をかける大柄な男と更に大きい野性味を感じさせる男、そして私の目の前に立っている目の隈が主張激しめの痩せた男。
「お忙しい中すみません。私は銭金会長の側近の張です。あっちの二人が同じく側近の服部と五里。ええと……占いの……」
側近。側近ってどういう立場なんだ、普通は部長とか専務とかそういう肩書じゃないのか、なんだよ側近って。
そんなことを考えながら、私は袖口から名刺入れを取り出し、素早く張さんの指の間に名刺を挟む。理由は特にない、強いていうならば、ちょっとしたカマシである。なに企んでるか知らねーけど、こっちもただの占い師じゃないぞ、そんな感じの。
「へび……ますこ……や……?」
「ダマシヤです。だましやたまこ」
別に誰が聞いてるわけでもないけど申し遅れた、私の名前は蛇増子屋珠子。28歳独身。巷では千里眼のラトルスネイクと呼ばれている。
まさかと思うけど本名です。
「ははっ、かなり攻めた芸名ですね」
「ちなみに本名です。それで張さん、私にも疑いがかかっている、そう思ってもよろしいです?」
「いいえ、先生には犯人を見つけて欲しいのです」
張さんの瞳の奥で鈍い光が瞬いた。私は少しだけ気配というものに敏い、占いの時もそこに最大限に注意を払ってる。目の前の相手が自分を利用しているのか、騙そうとしているのか、濡れ衣を着せようとしているのか、そういう気配に鈍いと占い師などやってはいけない。
よくある意地悪な質問に自分が今から何をするか占ってください、というものがあるが、いきなり殴りかかられても、瞬時に対応できる程度には気配が読めなければならないのだ。もちろん熟練の占い師になれば、相手の求める言葉を察したりも出来る。勘違いしないで欲しいけど、私が出来るとは言ってない。
摺り足の要領で音を立てずに張さんから1歩半距離を取り、笑顔は崩さず、長めの袖で半分ほど隠れている指を静かに折り曲げる。
「でも私は探偵じゃないですよ」
「先生は千里眼の持ち主、だそうじゃないですか。その占いの力で犯人を見つけて欲しいのです」
「なるほど」
中々に無茶を言う。千里眼を何だと思ってるんだ、ただの嘘八百だぞ。
「彼らにはまだ会長のことは伝えていません。外部に漏れては困りますし、証拠隠滅の可能性もありますから」
張さんの気配が少し強まる。なんていうか悪意を含んだ気配、人によっては邪気と呼んだりするのかもしれない。とにかく嫌な感じの気配だ。
「断ってもいいですよね」
「もちろん先生の自由です。が、個人的には私どもに協力するほうが損が少ないと思いますよ」
断ったらどうなるかわかってるんだろうな、そんなところか。めんどくさいなあ、これだから金持ちと権力者は嫌いなんだ。なんでも自分たちの思い通りになると思ってるから。
「いいでしょう。ですが、ある程度情報がないと見えるものも見えなくなりますので、取り急ぎ、あそこにいる彼らがどういう人たちか教えていただいても?」
「もちろん。服部のところにいる連中は本社勤務の社員です。上は専務、下は平社員まで。会長へ怨みを抱く可能性は少ないですが、仕事が仕事ですので、もしかしたら友人知人の怨みや正義感があるかもしれません」
「正義感ね」
悪の対義語が正義とは限らないけど、正義という言葉は便利だ。あやふやな動機はよく正義や義憤に置き換えられるし、困ったら正義を掲げておけば周りが勝手に大義名分にしてくれる。
「五里のところにいるのは会長のお気に入りたちです。いわゆる愛人ですね。個人的には彼女たちが怪しいと思っています」
「痴情の縺れは典型的なよくある動機ですからね」
しかし、これだけの情報では犯人など見つかるわけないし、適当に犯人はお前だ、なんてやられても相手も迷惑だろう。
「現場を見せていただいても?」
事件は現場で起きている。
見ないわけにはいかないのだよ。
ホテル地上18階、エレベーターの前と内部、2か所の階段、廊下にも何か所か監視カメラが設置されている。
「ちなみに会長が部屋に入った後、護衛以外、この階への出入りはありませんでした。監視カメラの映像も確認済みです」
「カメラが壊れている可能性は?」
「ない。会長は用心深いお方だ」
側近の野性味あふれる大男、五里さんが後ろから口をはさんでくる。体格からして、おそらく立場的にボディーガードなのだろう。
もしくは、債務者相手の嫌がらせ要員か。
「こちらが会長の泊まられていた部屋でござる。会長は用心深いお方、部屋に入った後は必ず鍵をかけ、部屋の前と階段、エレベーター前に護衛を置いているでござる」
もう一人の側近、服部さんが説明をつけ加える。ちなみに銭金五三男から、お前は忍者っぽい名前だから語尾にござるをつけろ、と命令されて、すっかりそれが身についてしまったそうだ。実に理不尽な出来事でござるね。
「部屋の前には拙者がいたでござる」
「ということは、服部さんが現在最も容疑者に近いわけですね。カメラの映像が偽装されていたらですけど」
わざと少々挑発的なことを言ってみる。しかし服部さんからは不自然な反応がない、動揺した様子もないし、かといって平静でもない。ちょっとムカつく、そんな感じの反応だ。
「服部には無理だと思いますよ。会長は本当に用心深いですから」
ホテルから借りたマスターキーでドアの鍵を開けると、わずかに開いた隙間からチェーンロックが見える。さらにチェーンには部屋の奥に置かれた何かへ向かってワイヤーが伸び、ちょっとしたコツを使ってチェーンを外した瞬間に防犯ブザーが大きな音を立てて鳴り始める。
「なるほど、これを仕掛けて正面から出るのは至難の業ですね」
用心深い男だ。こんな用心深さを持ってるなら、もっと他人に感謝されるような仕事をすればよかったのに。
部屋に足を踏み入れると、まず襲ってきたのが悪臭だ。臭い。エアコンの温度はかなり下げられて肌寒いくらいだけど、死体特有の臭さが鼻を突く。そして首のない異様な死体と飛び散った血痕。
まったく厄介なことに巻き込まれたなあ、私は本能的にそう思った。
「なるほど、いわゆる密室殺人ですね」
時間軸は現在に戻る。
側近3人立ち会いの下、部屋の隅々まで調べても怪しい場所はなかった。ならば密室殺人といえるだろう。
「しかし先生、実際にそんなことが可能なんですか?」
「手段によりますけど、例えばですけど、そこにある窓、少しだけ開いてるでしょう」
3人をベッド付近に立たせたまま窓に近づいて、頭一つほどが通れそうな窓の隙間を指さし、指先をそのままベッド方向に向けて、ヘアピンを指先で飛ばす。ヘアピンは私と3人の中間くらいの位置で落ちて、指をくるくると回して、結んでおいた糸を引っ張りヘアピンごと巻き取る。ちなみに部屋を調べてる時に手遊びしながら用意しておいた。
「今飛ばしたのはヘアピンですけど、例えば鉈のような形状の刃物。これを反対側の建物から飛ばして、窓の隙間を通し、首を切り飛ばしてテグスか何かで巻き取って運んでしまう。切れ味と勢い次第では出来るかもしれませんよ」
さすがに中庭越し建物幅10メートル強の距離で、この狭い隙間を狙うのはまず不可能だけど。でも発想次第では可能にする方法も無いことは無い。
「いやいや先生、漫画じゃないんですから」
「考え方次第ですよ。さっきのは無理としても、例えば銭金会長が窓辺に近づいた時に、さっき言ったような仕掛けを上から垂らして、窓を少し叩く。なんだろうと顔を窓の外に出した瞬間、刃物を上に引き上げて首をズバッ! 慌てて下がろうとした会長は、数歩下がってそのまま慣性で首のない状態でベッドへ。落ちてきた首は下で回収。反対側の建物に協力者がいれば、タイミングもそう難しくないかもですね」
身ぶり手ぶりを交えてベッドを指さし、にやっと笑ってみせる。
「ということは、このホテルへの出入りの多い愛人たちが怪しいか」
「奴らか! 会長の金をさんざん搾り取っておいて!」
「全員集めて問い詰めるでござるか?」
側近3人が話し込んでいる。
しかし私は、実のところ彼女たちが犯人とは欠片も思っていない。
だって犯人が愛人であれば、こんなまどろっこしいことをせずに、それこそベッドの上で犯行に及べばいいのでは?
今夜は頑張って、とかなんとか囁いてバイアグラを過剰に摂取させるとか、舐めると見せかけて金玉を潰すとか、他にやりようはいくらでもある。
事故死に見せかけることだって出来る。
それに、
「どうやら残念ながら違いますね」
窓をトントンと叩いて3人の注意をこちらに、さらに窓の表面に向ける。
「見てください。窓に傷ひとつ付いてない。もし首を落すほどの大ぶりの刃物で叩いたら、傷がつくと思うんですよね」
「確かに言われてみれば」
窓の傍に集まった3人と位置を入れ替えるように、そっと窓から遠ざかる。
歩いてみてわかったことだけど、慣性でベッドまで行くのは無理だ。さすが高級ホテル、距離があり過ぎる。
「かといって密室殺人が不可能というわけではありません。その窓の隙間、ギリギリ頭が入るでしょう。猫は頭が入る隙間であれば通り抜けることができる、なんて言われていますが、ものすごく柔軟な人間であれば、不可能ではないでしょう。例えば中国雑技団とか」
張さんの目がやや細まる。
「壁にしがみついて、凹凸を利用して上ったり下りたり出来れば、通り抜けを補助することも出来ますよね。漫画のイメージですけど、例えば忍者であるとか」
服部さんの目に不快感のような細かい反射が起こる。
「他にも、最近のホテルやマンションって意外と壁が薄いんですよ。経費削減なんですかね? 前もって壁に穴を空けておいて隣の部屋から侵入、犯行後にあらかじめ用意しておいた木枠のようなものと壁紙を使って、隣の部屋に逃げながらはめ込めば壁の細工も隠ぺい可能、単独での犯行も不可能ではないですよね」
五里さんの顔にわかりやすい青筋が浮かんでいる。
さすがに雑推理すぎて怒らせたか、それとも……
「先生、冗談みたいな推理はこのくらいにして、そろそろお得意の千里眼とやらで犯人を見つけていただけませんか?」
張さんが少量の不快感を含ませた口調で提案してくる。
やっぱりか。側近3人は端から犯人を見つける気などなく、適当な誰かをでっちあげるために占い師の力を利用しようとしているのだ。真面目に犯人を捜したいなら最初から警察を呼べばいい。限りなく反社会的な会社でも警察は捜査してくれるだろう。
しかし彼らはそれを選ばず、自分で言うのもなんだけど占い師なんて胡散臭い輩を現場に招き入れた。そして犯人に仕立て上げられる適当な誰か、それは十中八九、
「占い師の先生、悪く思うなよ」
五里さんが手の骨をパキパキと鳴らしながら、胸倉を掴んで来ようとする。後ずさりしながら両手を胸の位置まで上げて身構え、横目でドアに視線を向けると、集められていた社員が何人か、導線を塞ぐように立っている。まるで逃走防止用の壁だ。
おそらく愛人たちはホテルの出入り口か、この階から逃げられないように階段とエレベーターでも塞いでいるのだろう。
「なるほど。私に雑推理させてたのは、社員さんたちを呼ぶ時間を作るため。私を呼びつけたのは犯人に仕立て上げるため。そして真犯人は、お前たち3人だ! 私には全部お見通しだ!」
右手人差し指をピンと伸ばして五里さんに向ける。そして左手は腰の後ろに回していた鞄に伸ばし、中に入っている占い師を占い師たらしめる道具を掴む。
占い師を占い師たらしめる道具、すなわち水晶玉である。
占い師が水晶玉を使うのは、実のところ占いのためではない。
直径11センチ、重量2キロの球体、これを紐付きの袋に入れた状態で遠心力を加えて振り回せば、それは立派な、人間を撲殺しうる凶器と化すのだ。
その素材がもし水晶ではなく、より強さと重さを持った金属であれば、人間の頭を砕いた後もなお、次の破壊をもたらす悪魔の武器と化す。
水晶玉に宿るのは運命ではない、重量と速度と遠心力だ。
鉄球は殴りかかってきた五里さんの伸びきった右手、その先端にある指を斜め下から砕き、
「五里さん、いわゆる力自慢の素人でしょ。パンチが大ぶりだし、出所がバレバレだから、それは私には当たらないよ」
跳ね上がった重量を引き戻す力で右の鎖骨を、いとも容易く砕き折った。
そのまま回転の勢いを利用して、椅子で殴りかかろうとした服部さんの脇腹を穿ち、逃げようとした張さんの腰を破壊した。
重量とリーチで相手を牽制しながら、局所破壊を繰り返す。これが占い師の基本的戦闘術、水晶玉術である。
「さあ、死にたい奴からかかってこい!」
私は右手で鉄球をコンパクトに回転させながら、ドアに向かって近づいていった。
幼い頃からの師であり、半分は育ての親でもある伝説の占い師、二枚舌錨鏑(にまいじたびょうてき)先生が最初に教えてくれたのは、
「占い師になりたければ体を鍛えよ! 技を磨け!」
という武術家のような事実だった。
占い師は時に人を助け感謝されるが、時に人に絶望を与えて怨みを買ってしまう。言葉によって相手に与えたものが善であれ悪であれ、応報として与えたものの大きさがダイレクトに返ってくる。故に占い師は水晶玉で武装し、体の動きを隠すような大きめの服をまとい、そこに練り上げられた技と、必要であれば更に強力な武器を隠すのだ。
私は物心ついた頃から占い師の必須科目ともいえる水晶玉術と柔術を仕込まれ、さらなる強さを求めて空手、拳法、合気道、柔道、総合格闘技、都内のあらゆる道場に通った。早朝は水晶玉術と柔術、放課後は道場、空いた時間があれば指逆立ちに走り込み、筋力鍛錬、岩や鉄を叩いての部位鍛錬。そういう生活を小学生の頃から週5日、休むことなく続けた結果、私は女子高生にして地下占い格闘技場で優勝し、女子大生にして水晶玉術の免許皆伝に至った。
素質がなかったのか肝心の占いはさっぱりだったけど、命術も卜術も相術も相手の求める答えも未だによくわからないけど、私は素手で建築資材を破壊できるようになった。
ちなみに二枚舌先生はまだまだ現役で、国際的にものすごくヤバい相手に怨まれて、現在は追っ手を片付けながらブラジルの密林でキャンプを満喫しているらしい。この前、でっかいワニとのツーショット写真が届いたので、きっとまだ大丈夫だろう。
そんなことを回想している間にも、私の周りにはそこそこに怪我をした社員連中が転がっていた。
よく格闘技の試合で鼻骨や拳の骨が折れても戦う、なんて場面をたまに見かけるが、脳内物質が分泌される程の興奮状態に陥る前に怪我をさせれば、それ以上戦おうなんて思わない。
正確には戦う気力ごと折ってしまえばよいのだ。
先手必勝で相手の鼻に頭突きを当てるのが有効な理由は、まさにその辺りにある。スイッチが入る前にスイッチごと壊す。
「さて、張さん、服部さん、五里さん、もう諦めてくれますよね?」
私が笑顔で床に転がる3人に近づいていくと、突然壁の一部が押し出され、そこから黒ずくめの忍者とチャイナドレスの細身の女とゴリラが1頭、さも当たり前かのように現れたのである。
「お待ちくだされ!」
「それ以上、彼ラに酷いことしないデ!」
「ウホッ! ウホウホッ!」
え? もしかして私の推理当たってたの? ゴリラはよくわからないけど。
例えばこうだ。忍者が壁を上って窓まで移動する、窓の隙間をチャイナドレスの細い女性が無理矢理入る、もしくは窓枠を外して入り、銭金会長が呆気に取られている隙に壁から突然ゴリラが現れる。その後、ゴリラが銭金会長の首を引きちぎって、隣の部屋に戻る。あとは壁紙を貼って、忍者とチャイナは窓から脱出。これで密室殺人は完成する。
「なるほど、真犯人はお前たちだ!」
「その通りです! 犯人は私たちだ!」
忍者が言うには、まず忍者が壁を上って窓まで移動する、窓の隙間をチャイナが中国雑技団で培った柔らかさを活かして無理矢理侵入に成功、銭金会長が呆気に取られている隙に壁から突然ゴリラが現れ、視線が外れた隙に忍者がチェーンソーで殺害。
銭金会長の首は外にいた社員が回収して、ゴリラを隣の部屋に隠し、こちら側から仕掛けを元の位置に戻し、忍者とチャイナは窓から脱出した。
これで密室殺人は完成したのである。
すごいな、こんな荒唐無稽な殺人事件あっていいの?
「私たちは白状しました! あなたの店に運んでいる銭金会長の首も戻します! なので3人を許してください!」
こいつら、しれっと私を犯人に仕立て上げ、証拠まで捏造しようとしてたのか。首がなかったのは、そういうことか。
本来許されることではないけど、相手は限りなく反社会的な企業、幸い私は怪我もしてないので、この辺りで手打ちにするのが正解かもしれない。
それに最大の問題として今目の前にゴリラがいる。
ゴリラの握力は500kg、咬合力は400kg、体重は200kg、時速50キロで走り、パンチ力は推定2トン。
もしゴリラが襲い掛かってきたら、まず私程度では太刀打ちすらできない。故に答えはひとつしかないのだ。
「オッケー、許す許す。争いはよくないよね」
忍者たちに満面の春先の太陽のような笑顔で答えた。
「感謝します!」
「ウホッ! ウホッ!」
忍者たちもゴリラも喜んでいる。喜びのあまり200kgの巨体が元気に飛び跳ねている。喜んでるゴリラ、超怖い。今すぐ帰らせてほしい。
「実は会長は、ある日を境に女遊びをやめ、男色に走り出したのです。それだけでは収まらず、動物を抱きたいと言い出し、我が社のマスコットキャラクターでもあるロベルト、こちらのゴリラなんですが、ロベルトに手を出そうとしたのです。私たちは我慢できませんでした。借金をする連中はどれだけ追い込んでも仕事という理由で納得しました。ですが、ゴリラを抱きたいと言われても、それはもう個人的な欲じゃないですか。ロベルトは私たちにとって家族も同然、そこで社員全員で話し合いを繰り返して、銭金会長を殺害することに決めたのです」
張さんが訊いてもいないのに、今回の経緯を語り出した。
そんなことはどうでもいい。ゴリラ怖いから帰らせてほしい。
「ウホッ! ウホォーッ!」
ゴリラがココナッツを皮ごと食べている。うわあ、超こわい。
新しい朝がきた、昨日と同じ朝、爽やかな朝。
私の名前は蛇増子屋珠子、千里眼のラトルスネイクと呼ばれる占い師の端くれだ。
今日も朝から秘密の修行場所までのランニングを終え、山奥で鉄球を1時間ほど振り回し、クールダウンしながら朝ごはんを食べる。
唯一昨日と違うのは、朝食にバナナも食べるようになったこと。
占いの館のマスコットキャラクターとして、ゴリラと忍者と雑技団の女が加わったこと。
「君たち、お願いだから帰って」
「いいえ。忍の掟で恩は命に代えても返せとありますので」
「わたし、たまセンセー気に入ったネ。ずっとついていくネ」
「ウホッ!」
よし、今夜にでも逃げよう。
私はそう思いながら、ゆっくりと味噌汁を啜ったのだった。
占い師・蛇増子屋珠子と神隠し事件簿中
「ご安心ください。謎はすべて解けました」
事件現場となった駅前商店街の南端、通称「魔術通り」と呼ばれる細い路地で、私は右腕と人差し指をピンと立てた。
魔術通りはその名の通りオカルトに特化した区画で、各種占い・人生相談・良縁・祈祷・厄払い・骨董品売買などが店を構え、全体的に業の深さを感じさせる空気を漂わせているものの、世間的に怪しまれる占い師なんかにとっては居心地は悪くない。
おまけに昼間は人通りも少なく静かで、夜はオカルト目当ての客で賑わう。夜遅くまで働く占い師からしたら、環境的にも過ごしやすいところと言える。
余談だけどコンビニと喫茶店が1軒ずつあって、そこで家くらいでっかい焼酎と針金くらい細い煙草を買って、珈琲を飲んでから出勤するのが、私のルーティーンというか日課になってる。
そんな場所で事件が起きているのである。そして謎はすべて解けたのだ。
話は半日ほど前に遡る。
魔術通りから1本裏に入った路地にある激安おんぼろアパートの一室で、私はいつものように目を覚ました。
いつものように顔を洗い、いつものようにジャージに着替え、いつものように早朝のランニングを終え、いつものように静かな魔術通りを歩いていると、いつものように仲良しのコンビニ店員のマキちゃんがいたので、朝から働いてて超えらいなーって気持ちを伝えるためにも、5リットルの焼酎と細長い煙草を買った。
「たまちゃんさん、最近この辺り物騒なんですよ」
「え? なんか事件でも起きたの?」
「そこのタロット占いの人、行方不明になったらしいんですよ」
魔術通りには占いの店が10軒ほど並んでいる。そんなにあってどうするんだって思うけど、人生に悩んでいる人は結構多くて割とどうにかなってる。でも人生どうにもならないこともあるので、中には夜逃げする占い師もいないわけじゃない。
「夜逃げ?」
「じゃないみたいですよ。お客さんを見送ってる途中で、パッと消えたって店長が言ってました」
占い師がひとり消えた。なるほど、物騒だし奇妙な事件だ。
私たち占い師は職業柄トラブルに巻き込まれることも少なくない。厄介な客もいるし、人生に追い詰められた人間は、時として異常な行動に出ることもある。
もしかしたら私にも降りかかるかもしれない事件だ。
申し遅れた、私の名前は蛇増子屋珠子(だましやたまこ)、初対面の人には絶対信じてもらえないが本名です。占い師の端くれみたいなことをやっていて、千里眼のラトルスネイクとか陰で言われている。ちなみに千里眼で未来が見えますとうたってるけど、もちろんそんなもの見えたこともない。若干心苦しさを感じる28歳だ。
「ヘイ、店長。ちょっと詳しく!」
「どうも、店長です」
より詳しく話を聞くために、カウンターの奥にいた筋骨隆々で上にも横にも大きい男を呼んだ。
被害者はひとりではなかった。
最初は天星術の占い師、ノヴァ南万騎が原。次にコーヒー占いのクロアチア澄子。魔術通りの母と呼ばれるルーン占いの老婆。亀卜術のタートル朝美。四柱推命のマダム化野。手相占いのオネエ系占い師、ファッキン中指。
そして昨日行方不明になったタロット占いの天命読子。
全員が例外なく夕方以降、店の前で客を送り出している時、自分の店に出勤している時、休憩して外に缶ジュースを買いに行く時、全員が例外なく魔術通りを歩いている際に忽然と姿を消し、被害者は全員が占い師だ。そしてファッキン中指を除き、全員が女だ。ファッキン中指も、オネエという属性で考えたら、女にカテゴライズしてもいいのかも。
後々発見された者もいるけど、激しい暴行を受けており、全員が恐れをなして引退したそうだ。
なるほど、これは偶然では片づけられない。間違いなく占い師を狙った事件だ。
「でもね、店長。どうして全員事件に巻き込まれたと言えるの? 全員がいなくなった場面を目撃したわけでもないのに」
事情通にしても詳しすぎる店長に少しカマを掛けてみる。
もし彼の言う通り全てが事件で、全ての場面で目撃者がいるのであれば、もっと大騒ぎになっているはずだ。例えば警察が歩いているとか、野次馬根性に満ちた記者がいるとか。
しかし今朝も魔術通りはいつも通りだ。いつも通り閑散として、歩いている人の数も第一村人発見レベルだ。
それに、
「今オカルト好き御用達招待制SNSデュクシーを見たけど、被害者含めて誰も事件のことを発信してないんだよ」
スマホを斜め上に突き出し、デュクシーの画面を店長に向けて、さらに角度を深めてみる。いったい誰から情報を得たんだね、と。
「いえ、目撃したのです。私の店、魔術通りの一番奥にありますから」
「店長も占い師やってるんですよ、副業で」
店長の答えは意外なものだった。あと副業も。
名刺には、こう書いてある。
【あなたの運勢アップさせます。
日本占術連盟認定ダウジングマスター ダウザー恨山】
コンビニからぬっと顔を出し、魔術通りのどん詰まりに目を向けると、確かにダウジング開運を称した店がある。あの立地であれば魔術通り全体を見渡せるし、同業者として表に出てない情報も入手できても不思議はない。
私は連盟に所属してないフリーの占い師だから、あんまり他の占い師のこと知らないけど。
「なるほど。だったら店長も狙われる可能性が……」
ないよな。店長の体格を改めて眺めながら、すぐに可能性を打ち消した。
身長は2メートルを少し上回るほど大きく、全体的にがっちりと筋肉質。半袖からはみ出た両腕は生ハム原木のような太さで、拳には格闘技経験者を思わせる立派な拳ダコが見える。首も牛みたいに太いく、胸板はトラックのタイヤのように膨らんでいる。こんな筋肉ダルマを襲うような人間、おそらく本職のヤバいやつくらいだ。
「僕は大丈夫です。こう見えても鍛えてますから」
「それは見ればわかるけど。でも目撃したなら、どうして警察に通報しなかったの?」
「占い師が警察に、道端で女性が煙のように消えた、とか言ったら頭おかしいと思われるでしょう。むしろ容疑者にされかねないですよ」
確かに、荒唐無稽も過ぎる話だ。警察はおそらく信じないし、頭がおかしい人間の妄想と思うだろう。変に疑われて生活を脅かされるくらいなら、はっきりとした証拠が見つかるまでは、黙っておいた方がいいのかもしれない。
「むしろ、たまちゃんさんが危なくないですか? 背も大きくないし、どっちかというと細いし」
「僕と珠子先生だと、どっちかを狙うとなったら迷わず珠子先生でしょう」
「確かに私は小柄で細くて美人だけど」
マキちゃんが、そこまでは言ってないですって顔をしたけど、そこはあえて何も言わない。私は小柄で華奢な美人占い師なのだよ。
「とにかく気をつけてくださいね」
「うん、ありがと。じゃあ、私は昼寝してくるから夕方になったら起こしてね」
マキちゃんと店長にそう告げて帰ろうとすると、
「え? 聞き込みとかしないんですか?」
「そういうのは警察の仕事でしょ」
餅は餅屋、占いや悩み相談は占い師、事件や事故は警察だ。私の出番は特にない、もしあるとするならば、この神隠しともいえる事件の犯人が、私を狙ったその時なのだ。
と、言ったものの、やはり不安の種は潰しておいたほうがいい。
不安の種と禍根と目の上のたんこぶは全力で潰せと、師である二枚舌錨鏑(にまいじたびょうてき)先生も口すっぱく教えてくれた。
念のため魔術通りの奥から2軒目、つまり私が借りてる店舗まで足を進める。これまでの被害者は全員、私の店より手前で姿を消している。それも忽然とだ。
神隠しとされる事件は昔からあるけど、どれも目撃者がいないとか、目を離した一瞬の隙を突かれたりであるとか、実際に姿が消えるわけではない。
もしそんなことが起こったら、それはもう宇宙人とか未来の技術の世界の話だ。
つまり実際には消えたわけではなく、消えたように見せた、というわけだ。
魔術通りの路地は狭く、車が1台ぎりぎり通れるくらいの幅だ。電柱は片側に並んでいて、建物はだいたい2階建て、高くても3階建てまで。3階建ての建物は、以前は占い師専門の道具屋があったらしく、今は廃墟化しているものの、外観はまだ看板や装飾が残されており、ところどころ特に上部を中心に破損しているものの、通りの活気づけに一役買っている。
店と店の間は細くて通れるのは猫くらい。魔術通りの入り口、つまりさっきまでいたコンビニからダウザーの店までの間に他に道はなく、隙間や路地に引っ張り込まれた可能性はない。
もちろん下の可能性も低い。マンホールの真上に立っていた、という可能性もなくはないけど、マンホールを内側から開けて、正確にターゲットの位置を把握して、誰にも気づかれずに犯行を成し遂げる。それは普通に無理だろうよ。
ということは、犯人はここに店を構える占い師の誰かというわけだ。
だけど、どういう理由で? 同業者を狙って得する者がいるとも思えないけど?
「わかんない……」
犯人や動機を考えても想像でしかないし、よくよく考えたら被害者連中のことも名前と店構えくらいしか知らない。
しまった、人付き合いの悪さがこんな形で足を引っ張ってくるなんて。自分の社会性の無さに少しだけ泣きそうになってしまう。
「あの、あなたが蛇増子屋珠子先生ですよね?」
頭を抱えてうずくまる私の前に、モデルさんですかってくらい顔とスタイルのいい女がしゃがんでいる。
「えーと、どちら様ですか?」
「申し遅れました。私は砂古瀬ミルル、砂に古いに瀬戸内海の瀬でイサゴゼです。新人占い師で、オリジナルの茹でガニ占いをやってます。独立を機に日本占術連盟から占い師に認定されました」
茹でガニ占い? そんなので何がわかるの?
聞きたいことはいくつかあるけど、まずこの女が何の用件で私に話しかけてきたのか、くそっ、茹でガニが気になってしょうがない。カニも何年も食べてないなあ。高級食材だもの、そう簡単に食べれないよね。なんだよ、その占い!
「あの、そこの喫茶店でカニでも食べながら話を聞いてもらえませんか?」
「いいでしょう。カニ食べたいですし」
喫茶店でカニの身をほじりながらビールを飲む私の目の前で、砂古瀬さんはわぁっと泣き出して、数々の禍々しい殴り書きをされた紙を取り出す。
その紙には「なんだ茹でガニ占いって、ふざけてるなら店を閉めろ!」から始まり「お前のようなのがいるから、他の真っ当にやってる占い師まで怪しまれるんだ! 廃業しろ!」「顔と体で客取りやがって! 調子乗んな!」といった罵詈雑言、さらにはダイレクトな脅迫まで異常な量の恨みつらみ妬み嫉みが、鬼が書いたかのように角張った文字で書かれている。
うわぁ、ひどい、私だったら泣いちゃうな。事実、砂古瀬さんもガチ泣きしてるけど。
「で、砂古瀬さん。なんていうか、心当たりとかあるの? あ、もちろんこの手紙の内容がじゃなくて、犯人の心当たりね」
「ないです。だって、まだ店を開けて1ヶ月も経ってないですし」
内容的に同業者っぽいんだけど、このところの占い師を狙った犯行を考えると、同業者とミスリードさせるトリックのような気もするし、そう思わせておいて同業者潰しの可能性もある。どのみち、これだけでは犯人までは結び付かない。
「最初は腹が立って悔しくて、他の占い師の人たちに確認したりしたんです。でも、みんなそんなもの知らないって。そしたら、訪ねた先から怪我したり引退したりして、もう怖くなって」
なるほど、情報を整理しよう。
・最近、占い師を狙った神隠しが起きている
・砂古瀬さんは脅迫されている
・砂古瀬さんが確認した先から被害にあってる
・被害者は全員暴行を受け引退している
あれ? もしかして犯人、この子なのでは?
だとしたら、どうして私にこの話を? 実はほんとに脅迫されてるだけ?
ビールで半分使い物にならない頭を低速で回転させながら、私の脳裏にふと気になること点が浮かんできた。
「ねえ、なんで私の店には確認に来なかったの? いや、犯人は私じゃないんだけど」
「それは日本占術連盟に所属してないからです。うちは他団体と揉めたら、上から厳しく注意されることもあるので」
「ふーん、そんなもんなのね」
日本占術連盟、通称日占連といえば占い師界隈でも最大手の団体で、短期間かつ比較的簡単に占い師としての資格を得られることで有名でもある。ちなみに比較的簡単というのは、占いの技術だけ磨けばいいという意味で、占いそのものが未熟というわけではないのであしからず。
他団体とのトラブルを避けたいのも、占いの技術のみを教えているからだろう。なんていうか、例えば二枚舌先生みたいな古流の占い師はバイオレンス重視な人も多いので。
「蛇増子屋先生とダウザー恨山先生は所属が違うので」
私は日占連の所属ではないけど、あれ? 確か店長って名刺に日占連って書いてたような。
「あれ? ダウザーって日占連じゃないの?」
「違いますよ。出店する際に、近隣の会員は事前に教えてもらえますから。ジャンルが被るとお客さんの取り合いになるので」
確かに連盟の会員同士でトラブっても組織の土台が弱くなるだけだし、この話に嘘はなさそうだ。ということは、嘘つきは奴ということになる。
「なるほど、謎はたぶん解けた!」
私は窓から顔を出し、あえて大声で言葉にした。どこかで聞いているかもしれない犯人に向けて。
そのあと?
そのあとは普通に酔っぱらって夕方まで寝てたから、慌てて支度して、危うく階段で転ぶところだった。
逢魔が時、夕方の薄暗くなる時間を古の人はそう呼んだらしい。今はハッピーアワーなんて呼ぶのだから、時代によって価値観も変わるのだろう。
その逢魔が時でハッピーアワーな時間、私は魔術通りを歩いている。
服装は下はスカートにスニーカー、上は袖や裾のできるだけ広がった大きめのポンチョと中にTシャツ。半袖で過ごすような時期には不釣り合いな姿だけど、もし私の予想通りが当たっているなら、こういう引っかかりの多い服装は襲われる可能性が高まる。
念のため、肩掛けベルトごと握った鞄に意識を向けつつ、通りの中程、道具屋廃墟の正面に足を踏み入れる。
わずかに正面から廃墟に視線を移した瞬間、頭上から微かに空気を切る音が届いた。それとほぼ同時に、足を廃墟側に近づけるようなサイドステップで横に飛び、鞄を地面と水平に振り回す。
頭上から落ちてきた鎖は私のいた位置を掬い上げるように跳ね、横から鞄に交差するように絡みつかれて、上にいる何者かと私の間で引っ張り合う形で均衡した。
「どうして上から来るとわかった!?」
廃墟の屋上から犯人と思しき男の野太い声が響く。
「占い師たるもの、どんな時でも襲われる覚悟はしてるからよ!」
そう、占い師は時に人を助け感謝されるが、時に人に絶望を与えて怨みを買ってしまう。言葉によって相手に与えたものが善であれ悪であれ、応報として与えたものの大きさがダイレクトに返ってくる。
故にいつだって覚悟を決めて、警戒を解かないように修練を重ねているのだ。
「日占連みたいな現代占い師はさておきね!」
鞄を引き寄せる力を利用して体を捻り、中身を地面に撒き散らしながら、占い師を占い師たらしめる道具、すなわち水晶玉を袋ご掴み取る。
同時に鞄から手を放し、鎖が溜め込んでいた力で宙を舞っている間に大きく跳躍して距離を取り、上半身をひらひらと動かして通りの向こうへと合図する。
そこで見てなさい、お前らを襲った犯人はここにいるぞ、と。
廃墟の屋上にいる犯人が通りの向こうに隠れた被害者たちに注意を向けたのを機に、私は建物の中へと突入した。
ポンチョを脱ぎながら2階まで一気に駆けあがり、ドアを大きく蹴り開け、それに釣られて飛んできた分銅付きの鎖を、ドアの手前に身を潜めてやり過ごし、焦りと余裕を混ぜ合わせたような表情の犯人を確認する。
「やあ、店長。午前ぶり」
「さすがは武闘派と名高い蛇増子屋珠子先生。まさか上からの」
「へい、ちょい待ち。勝手に話を進めるな」
平静を取り戻そうとしたのか、べらべらと喋り始めた店長を言葉で遮って、室内の状況を確認する。
奥には縛られた被害者、おそらくタロット占いの人が転がっているけど、犯人との距離はそれなりにある。人質に取られる前に水晶玉をぶつけられるし、こっちに向かってきたら鎖で狙うような暇は作らせない。
よし、ここでやっちゃうか。
「ああ、そうそう。捨て台詞も余計な口上もいらないよ。ぎゃーとか、うわーとか、そういうのだけでいいから」
鉄球を振り回しながら、ゆっくりと間合いを詰める。
犯人、店長ことダウザー恨山も鎖分銅を両手に握り、じりじりと近づいてくる。
射程は鎖の方が長い。外で使われた鎖はもっと太く長かったけど、今振り回してる鎖は細く軽い。強度よりも速さに重点を置いた、より実戦的な鎖分銅だ。威力はどっちみち当たったら無事では済まない。
ペンデュラムはヤバい。
ダウジングの道具の一種であるペンデュラムはとにかくヤバい。
師匠であり育ての親である二枚舌先生から、そう忠告されたことがある。射程の長さ、当たれば皮が避け肉が抉れるような威力、さらに占い師はそこにダウジングの技術も重ねるので、反射的に逃げた先にも追いかけてくる。
もし相手にするのであれば、先端を捕らえて封じるか、地の利を活かして鎖の軌道を制限するしかない。
もし技量や力量が互角ならば、射程は長ければ長いほど有利になる。
「でもね、それは力量が拮抗してる場合だよ」
私は左右に刻むように、足先から頭の天辺まで揺らしながら突進して、向かってくる分銅の先端を避ける。分銅の先端は逃げた方向に動くわけだから、くるっと体を半回転させて、手に掴んでいたポンチョを広げて絡めとる。
「はい、おしまい」
鎖を引っ張りながら踏み込み、同時に水晶玉を足元に落とし、足の甲に乗せる感じで持ち上げ、ぐるんと体を回転させながら蹴り飛ばした。
水晶玉を蹴った数は1万から先は数えていない。
私は物心ついた頃から占い師の必須科目ともいえる水晶玉術と柔術を仕込まれ、さらなる強さを求めてあらゆる道場に通った。早朝は水晶玉術と柔術、放課後はあらゆるジャンルの道場、そんな生活を幼い頃から週5日、休むことなく続けた。
当然、水晶玉も何度も蹴った。真上に垂直に蹴り上げる技術、急角度で曲げる技術、水晶玉を乗せたまま何回転も回る技術、蹴った水晶玉に追いつく瞬発力、硬い鉄の塊を蹴っても壊れない鍛錬、そういう足元の技術も徹底的に鍛え込んだ。
その結果、訓練通りの軌道で水晶玉が動き、急角度で斜め上から相手の鼻めがけて落ち、身を守るために鎖を手放し、両腕を頭の上に持っていったタイミングで、真正面から金的を前蹴りで撃ち抜いた。
私の勝ちだ。
蹴りの勢いと回転を利用して、中空で捕らえた水晶玉を顎に突き込みながら、私はにやりと笑った。
「ご安心ください。謎はすべて解けました」
事件現場となった魔術通りと呼ばれる細い路地で、私は右腕と人差し指をピンと立てた。足元には顎を砕かれた犯人ことダウザー恨山が転がっている。ダウザーの両腕を鎖でぎっちぎちに縛り上げ、被害者に犯人で合っているか確認してもらったところ、どうやら間違いないらしく、各々がダウザーを険しい顔で睨みつけている。
「動機は簡単に言えば嫉妬です」
ダウザーは売れない占い師だった。そもそも占い師をやるには大きすぎた、そして強すぎた。屋内で一対一で面と向かって話をするには筋肉があり過ぎた。
占いの客は半数以上、およそ8割が女性であるといわれている。悩みを打ち明けるには同性のほうが打ち明けやすいし、内容的に異性に言えないことも当然多い。その時点で男性は占い師として不利なのだが、さらに体格が大きすぎるせいで、面と向かった時に与える恐怖感が強すぎた。ゴリラと同じ檻に入る恐怖感を想像してもらえればわかると思う。
しかし彼は占いを諦めなかった。
諦めたくないけれど状況も改善しない。その狭間で悩み追い込まれた彼は、他の占い師がいなくなれば自分のもとに客が訪れる、と安易な発想に逃げてしまった。その結果、俗にいう雑魚狩りばかりして技術も錆びつかせてしまったわけだけど。
「皆さんを待ってる間に、ダウザーのことを調べました」
地面に転がっていたスマホを拾い上げて、画面を被害者たちに見せる。
インターネットは集合知で情報の塊だ。玉石混合、黄金うんこ、それぞれの情報の質と信用に差はあれど、ありとあらゆる情報が詰まってる。
あと全然関係ないけど、スマホは結構頑丈なので握り方と打ち方次第で護身術にも使える。
スマホの画面を上下にスライドさせると、そこには無数の口コミ、評価、レビュー、コメントが掲載されている。被害者は一律に評価も高く、ダウザーの評判はあまりよろしくなかった。怖い、威圧感ヤバい、デカすぎる、経歴詐称、偽占い師、様々な罵詈雑言が彼の行為をエスカレートさせたのかもしれない。
タイミングよく新たに出店した砂古瀬さんに嫌がらせを始め、彼女に疑いが向くように同業者同士を衝突させ、その陰で犯行を繰り返した。誰も来ない廃墟の屋上から鎖を引っ掛け、ウインチのような道具で速やかに巻き上げ、監禁して痛めつけ、力づくで引退するように迫った。
場所柄、ほぼすべての客が視野が狭くなり、さらに下を向いて歩き、悩みが解決したらしたで足早に立ち去っていく。歩きスマホの人も少なくない。
そういう地の利や時代の力も働いたのか、そもそも頭上から吊り上げられるなんて誰も考えてないからか、気づいた時には人ひとりが忽然と消える、神隠しのような奇妙な事件となった。
要するに、つまらない男がくだらない理由でわかりやすい悪事を働いて、妙に手の込んだ方法を使ったというわけだ。
「あとは警察に任せて、今日は解散! それと、私が捕まえたのは内緒ってことで」
言うんじゃないぞって意味を込めながら、水晶玉をくるくると振り回して、本日閉店、安アパートへと戻ったのである。
「それで、どうなったんですか?」
繰り上げでアルバイトから店長になった大出世ガールのマキちゃんが、ロングサイズの缶ビールとチーズをレジ袋に詰めながら、興味津々な顔で聞いてくる。
「んー? えーとねー」
あれからダウザーは逮捕され、本人も占い師としてのプライドが残ってたのか、私のことは口に出さなかった。
被害者の占い師たちはすっかり嫌気がさして、それぞれ田舎に帰ったり、家庭に戻ったり、リモートで出来るネット相談師になったりして、どうにかこうにか暮しているみたい。
「結局、魔術通りには私と砂古瀬さんしか残らなかったわけだけど、あの子もなかなか度胸が据わってるね。こんだけ脅迫とかされたのに」
何かに使えるかもと、こっそり1枚だけ抜き取って置いた脅迫状をマキちゃんに見せる。茹でガニ占いとか教えたの誰だよ、と書いてある比較的マイルドなものだ。
彼女の度胸に乾杯するために缶ビールを開け、ぐびぐびと飲む。事件解決後のビールはおいしい。ビールは何もしてない朝でもおいしいんだけど。
マキちゃんは、不思議そうに首をかしげて、
「これ、店長の字じゃないですね」
「そーなの?」
「だって店長、ギャルくらい丸っこい文字書くんですよ」
私が目を丸くしていると、表の道を砂古瀬さんが通り過ぎていく。
こっちに気が付いたのか、一瞬だけちらっと視線を向け、その目がにやりと意地悪く笑っていたように見えたのは、もしかしたら私の気のせいじゃないのかもしれない。
「あの人、どっかで見たことあるような……」
「砂古瀬さんね。脅迫されてた被害者の」
マキちゃんがうんうんと唸りながら記憶をほじくり返してる間に、私は残りのビールに手を掛ける。
そんなに唸らなくても、店の前を通ったのを見たとかじゃないの? だって出勤するには、必ずここを通らなきゃいけないんだから。
「思い出した! 店長の彼女!」
ブハァッと思わずビールを吐き出し、慌てて口を拭い、なにそれって顔をマキちゃんに向けると、嘘はついてないですよって表情が返ってきた。
てことは、店長は恋人相手に脅迫してたのか。いや、そんな回りくどいことはしないか。
多分おそらくきっと、つまりはそういうことなんだろう。
「なんていうか、占い師ってのは……」
「クソヤローばっかりですねー」
「私は違うよ!」
どうやら揃いも揃って、私もダウザーも被害者も全員があの女の掌の上で踊らされていたわけだ。
まったく占い師ってのは、なんていうか、業の深い仕事だよ。